郷に入っては郷に従え

　まだ薄暗さの残る朝。
　のそのそと寝室から出た俺は、廊下の窓を開けて外を見た。

　青々とした小高い丘の上に、石造りの白い神殿。その屋根に掲げられた旗が、黒いものから青緑のものへと取り替えられている。
　窓から入る生ぬるい風。溶け残っていた雪は見当たらず、小さい花がそこかしこに咲き始めていた。

　今日から春かぁ。
　ぐっと背伸びをしてあくびを噛み殺す。


　魔道具職人の次男リカルド。
　赤ん坊として新しい人生が始まったのはいいものの、戸惑うことは多かった。
　新しい世界には人工知能はおろか簡易な計算機コンピュータさえ存在していない。代わりに、魔法や魔道具といった馴染みのないモノが存在している。
　なんとか最近、徐々にこの世界のことがわかり始めたところだ。

　ただ、思考や感情はかなり肉体に引っ張られている。身体を動かすのも随分と不器用だ。そのあたりはゆっくり慣れていくしかないのだろう。
　そんなことを考えながら、俺は一歩一歩慎重に階段を下っていった。


　リビングに着くと、数人の「兄さん」達が談笑していた。

「おはよ、ござます」

　まだまだ喋るのが下手な俺を、彼らは嫌な顔もせず、むしろ微笑みながら輪に加えてくれる。

　彼らは父さんの弟子。
　父さんは魔道具職人として大きな工房を構えていて、彼らは住み込みで働きながら父さんに学んでいる。俺は親しみを込めて彼らを「兄」と呼んでいた。まぁ、血の繋がった兄姉はまた別にいるんだけど。

　俺はサルト兄さんの膝の上に座る。最近の定位置だ。19歳のサルト兄さんは弟子の中でも若い方だけど、すごく優秀で既に準職人として認められている。

「リー坊は今日から3歳か」

　見上げると、サルト兄さんのまん丸い顔。
　3歳と言っても、前の世界とは数え方が違う。生まれた時を1歳として、春が来るごとに1歳ずつ足していく方式だ。
　俺の場合は秋に生まれたから、生後半年で次の春が来て2歳になり、1年が過ぎて今日から3歳。生後1年半といったところだろう。

「サルトにぃ、それは」
「あぁ、牛の燻製をもらったんだ。食べてみる？」
「んー……いらなーい」

　前の世界との違いで、なかなか受け入れ難いことも多い。

　例えば身分制度の存在。
　貴族や奴隷がいて、能力・努力・嗜好に関係なくその生まれが人生を大きく左右すること。

　例えば狩猟や畜産の存在。
　意志ある生き物を、時に愛を持って育てた上で殺して食べること。

　前の世界でも、歴史上それらが長らく必要とされてきたのは知っている。ある程度仕方がないのも分かるし、奴隷や家畜をなくすには、相応の技術が育つ必要もあるんだろう。
　ただなぁ。

「脂がのって美味いなぁ」
「ギーラさんの牧場は餌にも良い物使ってるらしい」
「この風味、燻煙も普通のもんじゃねーな」

　みんなに悪気がないのは分かる。
　すごく美味しそうな香りもする。

　でも、牛の顔を想像しちゃうと素直に味わえないんだよなぁ。もうこればっかりは、慣れるしかないけど。

　みんなは燻製肉をつまみながら、机にのせた黒木板に白石で図を描いていく。どうやら先日までとは違う魔道具の相談をしているらしい。

「まどうぐ、なにつくってるの？」
「あぁ。今作ってる魔道具はすごいぞ」

　目をキラキラさせて話すサルト兄さん。
　興奮すると早口になるから全て正確には聞き取れないんだけど、すごく楽しそうに話すから俺もつい聞き入ってしまう。
　それに、質問すればわかりやすく噛み砕いて教えてくれるし。俺がここまで色々と理解できるようになったのは、大部分はサルト兄さんのおかげだ。


　サルト兄さんは弟子の有志を集め、空いた時間で新しい魔道具の研究をしている。
　俺はよくそこに混ざりに行っては、楽しそうな議論を聞きながらこの世界のことを学んでいた。

「ごめんごめん、つい熱くなっちゃって……」

　俺が早口について来られていないのに気がついて、頬をかくサルト兄さん。前の世界では、俺も似たような感じだったな。
　俺は兄さんに笑いかけ、聞き取れなかった内容について質問をする。じっくり説明してくれるから、最近では俺も少しずつ話題についていけるようになってきた。

　サルト兄さんにお礼を言うと、彼は俺の頭を優しく撫でる。

「気にすることないさ。リー坊の発想には、僕らもすごく刺激を受けているからね」

　兄さんはそうは言うけど、俺は大したことは言えていないと思う。せいぜい、前の世界で存在していた技術の根幹を思い出しながら、参考程度にちらりと紹介しているくらいだ。
　そこから実際の魔道具を揉んでいるのは兄さんたちだし、俺が勉強させてもらってることのほうが遥かに多い。

　サルト兄さんは穏やかな表情を浮かべる。

「いつか僕の魔道具を、世界中の人が使うようになったら……幸せだろうなぁ」

　いつものようにそう呟いた。
　俺もサルト兄さんが夢を叶える姿を見たいな。

　魔道具作りは鍛冶仕事に近い。特殊な金属を溶かしたり叩いたりしているらしい。俺の頭を撫でるサルト兄さんの手は、いつだってゴツゴツしていた。

　朝の時間がのんびりと過ぎてゆく。


　しばらくして、リビングの扉が開かれた。

「リカルド、いるか？」

　不機嫌そうな声が俺を呼んだ。
　俺の血の繋がった兄、グロン兄さんだ。

「グロにぃ、おはよ」
「こんな所で何をしている。朝食の時間だ」
「はーい、すぐいくよー」
「ったく……グズグズするな」

　兄さんは万年不機嫌で、イライラしている。赤ん坊の俺にも強い言葉を吐いてくるくらいで、弟子たちともあまりうまく関わりあえていない。
　俺の近くに座っていた弟子の一人が立ち上がる。ウーガ兄さんだ。

「なんでそんな言い方なんだよ」
「……ふん」

　実兄のグロン兄さんと弟子のウーガ兄さんは、いつも喧嘩をしている。二人とも年は10歳だが、小柄で細身のグロン兄さんに対してウーガ兄さんは大柄だ。巨人の血が濃いらしい。
　暴力沙汰までは発生しないが、キツい言葉が飛ぶ。俺としては、もうちょっと仲良くやりたいんだけどなぁ。

「てめぇ……」
「ウーガにぃ、おちついて」
「落ち着いてってな、おまえ──」

　俺はウーガ兄さんの横に歩いていく。
　その口に燻製肉を放り込む。

　モグモグしているウーガ兄さんの横を通り抜けると、グロン兄さんのそばまでやって来た。

「おまたせ、あさごはん？」
「あ、ああ。春の初日は父さんからの言葉もある。遅れると叱られるぞ」
「そっか、ありがとう、むかえにきてくれて。みんな、またね」

　俺はサルト兄さんやウーガ兄さん、他の弟子の兄さんたちに手を振ると、グロン兄さんの手を握って歩き出した。
　兄さんの手もゴツゴツしているな……魔道具作りの修行のせいだろう。


「お前って変なやつだよな……」
「そうかなぁ」

　弟子の兄さんたちも、グロン兄さんも、みんな面白い人たちだ。もう少し上手くやれないものかと思ってるんだけど。

　手に残る燻製肉の匂いを嗅ぐ。

　慣れないことも多いけど、郷に入っては郷に従え。
　文化のベースが違うから、兄さんたちには俺とは違った価値観があるし、それは仕方がない。

　とはいえ俺としては許容し難いこともある。
　まぁおかしくない範囲で、自分なりに快適な人生を送れるように工夫していけたらいいな。　

　そんなことを思いながら、俺は一歩一歩ゆっくり進んでいった。