どうなってしまうんだろう

　季節を告げる神殿の旗が再び青緑になり、春が訪れた。
　溶け残っていた雪は消え、俺は4歳になった。
　最近は早朝に庭を走るようにしている。冷たく澄んだ空気を肺に取り込むと、俺は大きく伸びをした。

「リカルド、おはよ！」
「おはよう、ミラ姉さん」

　8歳になった姉さんは、去年よりほんの少し落ち着いた性格になっていた。魔道具作りが解禁され、心の棘が多少抜けてきたのだろう。最近は俺と一緒に早朝のジョギングをすることが多い。
　俺たちはいつものように走り、ぬるま湯で汗を流すと、朝食の場に向かった。

　父さんは昨日まで王都に出張していた。帰ってきたのは夜中だったらしい。
　王都に呼ばれた理由は、例の魔導インクだ。あれは売れた。売れすぎた。国内外の魔道具職人たちが、我先にと競うように買い求めたのだ。そのことで、何やら王都にいる中級貴族から呼び出されていたのだという。たしか、魔道具職人協会の長を務めるドルトン家だったか。

「父さん、ずいぶん疲れた顔してたわよ」
「そっか。大丈夫かなぁ」

　父さんは魔道具職人協会に魔導インクの生産権・販売権を譲り渡し、代わりに売上の何割かを得られる契約をしていた。
　それが売れに売れまくったのだから、魔道具職人協会もずいぶん潤ったらしい。詳しくは聞いていないけれど、我が家の資産もこれまでの比ではないほど膨れ上がっているようだ。
　父さんが青い顔をしてガタガタ震え、母さんに縋っている場面も何度か目撃している。


　朝食の場に現れた父さんは、生気の抜けた顔で挨拶をした。威厳を取り繕う余裕もなさそうだ。
　そして一言、爆弾を落とした。

「今年から我が家、下級貴族になったから。王都に引っ越すから。そういうわけで、いろいろよろしく」

　父さんはそのまま亡霊のように部屋からいなくなる。残された俺たちは、お互いに顔を見合わせながら固まった。

　どういうことだ。いろいろと説明が足りない。というか父さんは本当に大丈夫なのか。いろいろな事が頭をめぐった。
　兄さんはフォークで汁物をエンドレスに掬い、姉さんはパンをひたすら千切り続けていた。

「はいはい、早く食べてしまいなさい」

　母さんだけは苦笑いをしながら平常運転だった。
　さすが強い。


「それじゃあ授業を……いや、今日はやめておこうか」

　ルーホ先生は登場して早々に授業を諦めた。
　何があったかと聞かれ、なんだか分からないけど貴族になったと言うと、まぁそうなるだろうなと返された。
　先生はこうなることをある程度見越していたらしい。

「目立つ者を貴族に取り立てることはよくある。特に人族の国では、有能な人材は手元に抱え込もうとするからな。それにお前の家は平民だから、強硬手段に出られれば弱い。ドルトン家も、他の貴族にちょっかいを出される前に、自分の庇護下に置いておきたかったのだろう」

　つまり、平民の立場であの魔導インクの利権を持ち続けるのは危険だと判断されたのだろう。確かによく売れてるし、魔道具の研究速度はあれによって跳ね上がるんだろうけど。
　でも、今まで平民として過ごしてきたのに突然貴族になるとは。一体我が家はどうなってしまうんだろう。貴族の文化もどんなものか分からないし。

「そう怖がることではない。中級貴族以上は別だが、下級貴族だろう。領地を持つわけでもない。これまでとそう生活が変わるものではないさ。職人系の家だから、領地管理の事務仕事に携わるわけでもないのだろうしな」
「王都に行くみたいですけど」
「他家との調整ごとが増えるのなら、向こうのほうが便利だ。その程度の理由だろう。だいたい、お前の母親だって元下級貴族じゃないか」
「え、そうなんですか？」

　それは初耳です、というと、逆に先生に驚かれた。

「俺とメイラ──お前の母親は、ロムルの貴族学校での学友だ。まぁ俺は留学生だったが、メイラにはいろいろ借りがあってな。その縁で家庭教師をすることになったんだ。知らないとは思わなかったぞ」

　その流れで学生時代の母さんの様子を聞くと、なかなかやんちゃだったようだ。なんだかミラ姉さんみたいだと俺が言うと、ミラは間違いなくアイツの娘だよと先生も笑う。
　そう話す先生の背後に、遠くからこちらを見つめる母さんの姿を見つけた。怖かった。


　そんな騒動から数日。
　弟子だったサルト兄さんの独立がいよいよ10日後まで近づいていた。サルト兄さんは今年で20歳。縁談の相手は今年18歳になる家具職人の娘だ。お互いによく知った仲らしい。

　職人街の一角にサルト兄さんの工房が用意された。
　兄さんを慕う幾人かの弟子や職人奴隷が一緒に移り住むようだ。相手側からも女性の奴隷が移り住み、1つの新しい家庭が誕生する。
　めでたい事だ。

「おーい、リー坊」
「サルト兄さん！」

　先生と一緒に街歩きをしていると、サルト兄さんと綺麗な女性が二人でのんびりと歩いているところに遭遇した。聞くと、これから必要になる身のまわりの小物を二人で買いにきているのだとか。
　そういう名目でのデートなのだろう。

　サルト兄さんをしばらく冷やかしていると、兄さんは何かを思いついたかのように俺の耳元に寄り、小声で話した。

「ところで、あの魔導インク。師匠の名前で登録されてるけど、発案はリー坊だろう」
「……え？」
「外の人は信じないだろうけど、あの家に暮らしている奴ならすぐわかるさ」

　サルト兄さんはニヤリと笑い、嫌な顔をする俺を楽しそうに見つめたあと、ふと真剣な表情になって呟いた。

「しばらく周囲に気をつけたほうがいいかもしれないよ」

　杞憂ならいいけど、と心配そうに呟いた兄さんの顔が、妙に脳裏に焼き付いた。
　そして、そんな不穏な言葉を聞いた翌日、小さな事件が起きる。


　俺の研究していた魔法陣の資料が部屋から消えて、同時に父さんの弟子の一人も姿を消した。

　ヘゴラ兄さん。
　今年で30歳になり、サルト兄さんに独立の先を越された、最も高齢の弟子であった。