遠い月まで

おららら

運命

ある日の朝

私はいつもどおり職場に向かう。

車の通りも穏やかで、道すがら清々しいものだ。


以前の職場では考えられないような
通勤風景だった。

以前は人通りの多い国道沿いのテナントビルで
何とも忙しなく車が往来していたものだ。

そんなことを思い出していると、
目の前をすっと横切る影が目に入り
私は足を止めた。

しかしそれは気配だけで、周りを見渡せば
誰もおらず、むしろ

誰もいない。


…何…


気づけば、辺りは静まり返っていた。
車もいなくなっている。


後ろに気配を感じた。
すぐさま振り返ったが、やはり誰もおらず。

私はふと、あの夜のことが脳裏をよぎった。

「おや、お嬢さん。ちょっといいかな?」
今度は前から声をかけられる。

ゆっくり振り返って、目をやると。
優しそうな青年が立っていた。

結構若い見た目なのだが、その声は…

「以前、お会いしましたよね?」
ついそんな風に質問してしまった。

「そうでしたっけ?気のせいでは。」

…間違い無くあの声の人だと分かった。
でも私はそれ以上追求しなかった。

「そうですね、気のせい…です。」

いざ会ってみれば、何を話せばいいのかわからない。

「そんなことより、ほら、見てください。」
そういうとその青年は、私の肩の方を指差す。

見てみると、黒アゲハが悠々と止まっていたのだ。

「めずらしいですね。この蝶はこの辺りにはいないはずなんですが。」

「肩に蝶が止まっている方が珍しいと思いますけど。」

言った瞬間はっと思い、失礼な返しをしてしまったと
そんな表情を浮かべていると

「それもそうですね。久しぶりにいいツッコミをされましたよ。」
少し嬉しそうな顔をして、そう返事をする青年だった。

「結構いい声ですね。」「顔に似合わずとよく言われますけど。」

「そんなことないです!」
そんな他愛もない話を自然としていた。

「今のはちょっとした皮肉ですよ。突っ込まれてついからかいたくなってしまって、すみません。」
終始ご機嫌な様子の青年は、本当に嬉しそうだった。

その様子に、私の心もつられて穏やかになるようだった。

「ではまた、どこかでお会いしましょう。」
そう言うと青年は手を振り、すれ違って行った。

隙を突かれたようにすれ違って、私は
目で追うことすら難しく。
声も出なかった。

すれ違って、ゆっくり振り返ると

やはり彼の姿はもう見えなかった。

(…また会える。)
私には確信めいたその想いが心の内をよぎった。


ちなみに彼の格好は、高級そうなスーツ姿だった。

「文学」の人気作品

コメント

コメントを書く