遠い月まで

おららら

出会い

夜道を歩いていた。
時折感じる視線に怖気ながらも
早過ぎず遅過ぎず、刺激しないように帰路を進む。

街灯の寂しげな光がいっそう私を怖がらせる。
ちらっと振り返った瞬間、

ばすっ

何もないはずの空間
ベッドに飛び降りた時のような感触が
私の左半身を覆った。

「おっと。」

低めの男性の声
咄嗟に

「すみませんっ!」
下を向きながら私は即座に離れ謝る。
しかし
見えたのは足元だけで、顔を上げて見てみると
そこにはだれもいなかった。

あれ?
と思い周りをキョロキョロ見ても誰もいない。

「?」

そう思いながら特に気にも留めず、
再び帰路を歩いて行った。

「ただいまー」

帰ってから気付いたのだが、あの時感じていた視線が
あの時ぶつかって以降なかったのだった。

「にゃーん」

よしよし

飼い猫の頭を撫でて、空の餌入れに食事を継ぎ足す。
おもむろに食べている。

私は
その時のことを振り返っていた。

あの時、
そういえば顔を上げる時
一回まばたきをした。

気付けば恐怖に駆られていた心も
視線もその男性(?)もいなくなっていた。

あんまり呆気なく過ぎてしまったので
まるで狐にでも摘まれた気分だ。

「ん?」

飼い猫が急に静かになった。

いや正確には、音が遠のいていく。

猫はいつも通り餌を食べているのに。


その時なぜか私は
ゆっくりと目を閉じた。

周りからまるで世界が消えてしまったかのような
そんな感覚に浸っていた。

(落ち着く…)

深い海の底に眠るかのように
ひっそりと息を潜めて

ゆっくり
目を開けた。

飼い猫は
餌を食べ終え、私の後ろにある寝床に寝入っていた。
それを確かめるように振り返ると。
やはり猫はいつも通り、
その場で落ち着いて寝入っている。

そんな猫を見ながら、
ぱたりと私も横になる。

天井には寂しげに
白熱電球風のLEDランプを遮光フードが覆っていて

ああいつものボロアパートだなと思った。

気がつくと
私は眠っていて
夢を見ている

そこは
海の中だ。

海の生き物がたくさん漂っている
水深は20mくらいだろうか、
それにしては結構な数で、何より綺麗だった。

今度は
泳いで、空を見よう、と

たぶん海面のある方へと泳いで行った。
光が射して

いよいよ海面へ出るかなと思った矢先に

またあの天井が朝日を受けて顔を出した。
情けなく手を上に伸ばしていた。

「あはは。」
伸ばした腕を顔の上に置いたあと
私はちょっと笑った。

猫はいつも通り寝ていた。

起き上がって頭を撫でて起こしてやると
そいつも手を舐めて応えた。

よしよし
早く仕事見つけなきゃあね。

親が金持ちで仕送りで暮らしているとはいえ
気付けば1ヶ月近くが経とうとしていた。

仕事と言ってもバイトなのだけれど、
きょうび初めてバイトをしようと決意して
試用期間中にどこもバックれてしまった。

(だからなのかな…)

視線についてはなんとなく
そんな気がしたのだ。
でも

あの男性は誰だったのだろう…

少しだけ気になっていた。
声は落ち着いている印象で、普段聴かないような声質
特に客商売とかでは聴かないような声だった。

まぁいいか

履歴書を切らしているのに今頃気付いて、
近所の古びた文具屋さんに行く。
ことにした


昨日の帰路で買ったサンドイッチを頬張りながら
猫に餌をやり、さっと出た。

お風呂帰ってからでいいか。

サンドイッチを食べながら、上着を羽織り
近所の文具屋に顔を出す。

「こんにちは。」

朝なのに、
ああこんにちは、と店主も合わせてくれた。

履歴書をサッと手に取り即お勘定。
とっても安く、100円を切っているのに、
「今日はおまけしとくよ。常連さんだからね。」
とボールペンをくれた店主。

私は
ボールペンのインクが切れていたのを
後になって気付いた。

「ありがとう!」

そう言って店を後にして
家に帰り、お風呂を沸かした。

ボロアパート過ぎてシャワーなどない。
その間、履歴書に名前だけでも書くかと
文具屋の紙袋を開ける

ガサガサ

ん?


何か妙な感じがした。
いつもと同じはずの履歴書なのだが

封を開け、名前を書くだけ、だったのだけれど
気付けばお風呂が沸く前に書き終えていた。
あっという間だった。

書き終えたあと、
お風呂が熱くなり過ぎてないかと思い
そっと手を入れたけど、適温だった。

あの一件以来
ちょっと妙な感じ

そう思うくらいだったのだけど。
その時はね。

しかしその後受けたバイト先も
すごく雰囲気も店の人も良くて、試用期間すらなくて
何より仕事が苦じゃなくて楽しくて

家に帰って気付いてみれば、
疲れなど微塵も感じてなどおらず
充実し過ぎて怖いくらいだったのだ。

まさしく憑き物が落ちたようとはこの事だろう。

私は


あの一件でぶつかった男の人に
会ってみたい

そう思うようになっていた。

つづく

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