本日は性転ナリ。

漆湯講義

After Story…My Dearest.58

 降車を告げるアナウンスが流れると、間も無くバスのブレーキ音が車内へと響き渡る。そしてゆっくりとバスが停車すると、馬の鼻息の様なエアー音の後、私は静かに席を立った。
 そこでふと私の座っていた席を見下ろして立ち止まってみたけれど、やっぱりそこには微かな凹凸が残っているだけで、あの嶺ちゃんの姿は私に残る想い出の産物なのだと心に言い聞かせて足を進めた。
 少し俯いてバスを降りると、ふと立ち止まってそっと上を見上げてしまう。ここに来るとどうしても嶺ちゃんの居たあの部屋の窓を見上げてしまうこの癖は、直さなきゃって思っているのに直す事が出来ない。だって嶺ちゃんの居た場所は此処じゃない、あの笑顔に溢れていたアパートなんだから。

 病院に入るとふわっと温かい風が私の頬を撫でた。平日の午前だというのにロビーには沢山の人の姿が並んでいて、咳き込む声や赤ちゃんの泣く声、誰かが電話をする声などが入り乱れている。
 受付へと足を進めると、見慣れた受付のお姉さんが不思議そうに言った。

「今日は……どうかされましたか? 予約は入ってないみたいですけど」

 その反応は無理もないかもしれない。私は基本的に"いつもの事"以外では病院に来る事が無いから、きっとこの人は想定外の私の来院を不思議に思ったんだと思う。

「風邪を引いちゃったみたいで。だから別にいつもの先生じゃなくていいです」

    私がそう言うと、お姉さんは少し苦笑いをして何処かに電話をしていた。
 すると"ちょっとそこで座って待っててね"と言われロビーの長椅子へと座ると、五分も経たないうちに"いつもの先生"が現れたのだった。

「いやぁごめんね、今日は風邪っぽいんだって?」

 相変わらずこの先生は寝起きみたいな顔で頭を掻きながらそう言って私に"付いて来るように"とジェスチャーした。

「別にただの風邪だからわざわざいいのに」

 私がそんな事を零すと、先生は真剣な表情のまま淡々と準備を進めつつ「万が一って事もあるからね」と独り言の様に呟いた。

 そして一通りの診察を終えると、先生は不思議な事を言った。

「じゃぁ採血したら終わりだからね」

「えっ、採血ってただの風邪なのに? せっかく注射器の跡薄くなってきたのにまたやるんですか?」

「ははは、ごめんごめん。念の為だよ、念の為。ほら、私は君の担当医だから」

 私は少し口を尖らせて"ふーん"と言って腕を捲った。

「はい、じゃぁこれで終わりだからね。一応瑠衣く……衣瑠ちゃんに合った風邪の薬は出しておくけど、何か体調が悪くなったり発疹が出たりしたらすぐに私の携帯に連絡をするように」

 先生はいちいち大袈裟だなぁ、なんて思いつつも、私は小さく頷いて「ありがとうございました」と部屋を出た。



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