本日は性転ナリ。

漆湯講義

57.ヒカリ

「私は分からなかった。アレからずっと考えていたの」

 突然、天堂さんがティーカップを見つめてそう言いだした。私は差し出されたティーカップに手を添えたままその言葉の意味を探っていた。しかし、その口元がふと緩んだかと思うと、天堂さんは優しい口調で語りだしたのだ。

「何故この憎むべき女は私を助けたんだろう。そのまま放っておけば自分は助かって、自分を消そうとした女が人質になっていたのに……」

 ティーカップがワークトップに置かれ、乾いた音が静かな空間に響く。依然天堂さんの瞳は少し下を見つめたままだ。でも、何故だか天堂さんからは私への悪意は感じられず、それは何かの想いに浸っているようにも思える。光を反射してキラキラと輝く長い睫毛がそう思わせているのか。それとも私の思い違いか……。

「私はあの日、もう全てを諦めた。だって私のした事はすぐに白日の下へ晒されるのは確実。完璧なはずだった作戦の明白なる失敗。……家、学校、世間、全てから私の居場所が無くなる。それも当然の報い……、そう思っていたわ」

 そう言って天堂さんは私へと視線を移した。そして目を少し細めると、口元を少し緩ませる。

「裏切ったのは貴女。暗闇に包まれた孤独の地……。そこに現れた小さな光。それを必死に追い求めていた私。貴女の声に見上げた空には輝く大きな塊が見えた」

 ポエムの様なその言葉。だけどその言葉はぐさりと私に突き刺さり、身体全体を緊張させる。そう、それはきっと"貴女"、つまり私が天堂さんに復讐のチャンスを与えてしまった、そう言いたいに違いないと思ったからだ。
 私が硬直したままでいると、天堂さんの不敵な笑みが私の目に映った。

「どうしたの? 私は貴女に感謝しているのよ」

「へっ?」

 予想外のその言葉に思わず声を裏返してしまう。そんな私を見てくすりと笑った天堂さんは、その整った横顔を私に見せると、天井より少し下の方を見つめながら口を開いた。

「時間、場所、そして自分の意思さえも関係無く強制的に始められた命……。光を待ち望んでやっと手に入れてもそれも幻想で……。暗闇に消えるはずだったのに」

 私には何が言いたいのか分からなかった。だけど私に対して怒りや恨みなどの感情は伝わって来ない。不思議な感覚。

「あの……、天堂さん」

 私がそう言いかけると、天堂さんの視線が重なる。

「全ては貴女のおかげ」

 そう言って天堂さんの微笑みが私に向けられた。でもまだ"そんなに簡単に私を許せられるものなのか"、という疑問が残る。なにせ他人の命を奪おうとする程、恋に執着していた人間なのだから。

「衣瑠さんにならこの命捧げられるわ」

 思わず相槌を打ちそうになった私は、天堂さんに驚愕の眼差しを向ける。

「え、今なんて?」

「だから私の命は貴女のモノよ。気づいてしまったの。私を幸せにできるのは貴女しかいないって」

 何かを言わなければと頭で考えているのに、私の口は金魚みたいに小さく動くだけで言葉が出なかった。

「これからは貴女の為にこの命、使わせていただくわ」

 追い討ちをかけるように天堂さんの言葉が頭の中に響いた。
 私はこの流れを変えなければと必死に言葉を探した。そしてようやく思いついたのが、私を殺めようとしたあの日の事件。

「だ、だって天堂さんは私の事崖から落とそうとしてたじゃん」

 しかし天堂さんは顔色一つ変える事なく
"そんな過去どうでもいいじゃない"と一笑した。
 そして伏目がちにこう付け足したのだ。

「あそこまでされたら気持ちだって変わってしまうわよ」と。

 あそこまで……。それはきっと人質になった天堂さんの代わりを名乗り出た事だ。
 あの時は私も必死で、何故あんな事をしようと思ったかはあまり覚えていない。ただ、勝手に身体が動いていたのだ。

「いや、あれは本能的に助けなきゃって思っただけで別に深い意味は……」

「それだけあれば充分よ。今日貴女が此処へ来たのも運命なの」
 
 天堂さんは恍惚(こうこつ)とした表情で頬に手を当てた。
 この女は大きな勘違い、いや思い込みをしている……。それは悪い意味合いではないけれど、このままにしておく訳にはいかない。私に焦りと動揺が滲み出る。

「ちょっと、なんか勘違いっていうか誤解……してないかな?」

「勘違い? そうだとしても私にはその事実があるだけで構わない。とにかく、私は貴女にこの命を捧げるの」

「勝手に決めないでよ! 私は別に……」

「邪魔だというのなら私はこの世界から消える……、それだけよ」

 そう言って天堂さんは満面の笑みをみせたのだった。

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