本日は性転ナリ。

漆湯講義

51.母から"娘"へ

 バスに揺られて来た道を戻っていく。"あの人"が乗っていた車があった場所も、何事も無かったかのように静けさを取り戻している。あの人は今頃どうしているんだろう。そんな事がふと頭に浮かぶ。きっとあの人は更生を終えれば幸せな人生を送れるはずだ、なんて頭の隅に湧き出た"罪を犯した者の行末は惨めなものだ"というテレビで聞いたコメンテーターの言葉を押し殺してから、私はその場所から視線を引き剥がした。
 そしてあのトイレを過ぎると森を抜け、あっという間に空の明るさがバスを包みこむ。そう、私たちはまたいつもの日常へと戻っていくのだ。
 いつもの……、私の、いや俺のいつもの日常はいつ戻ってくるんだろう。そんな事を考えると全てが真っ黒に染まってしまいそうで、私はソレを遠く消えていく森に投げ飛ばした。
 でもこの林間学校で私の中で何かが変わったと思う。それは悪い意味じゃなくっていい意味で。そんな事をぼうっと考えていたら突然暗闇の中で莉結の声がして、私の隣に座っていたはずの莉結が、座席の横に立って私を見つめていた。どうやら私はいつの間にか寝てしまっていたみたいだ。
 反射的に車内を見渡すと他の生徒の姿が無く、私は慌てて席を立つ。すると視界の端に莉結の口元が緩むのが見えて、少し恥ずかしいような、嬉しいような、何だか不思議な気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
 窓の外には見慣れた校舎。バスの外では大きなバッグを持った生徒たちが楽し気に喋っている声が響いている。
 あぁ、戻って来たんだな。なんて当たり前の事が頭に浮かぶ。そう考えるとやっぱり私は林間学校を楽しめてたのかもしれない。
 クラス毎に集まって点呼を終えると、眠そうな顔をした莉結と並んで茜色に染まった空の下、帰路につく。歩いている間、莉結は目蓋を必死に持ち上げながらもずっと何かの鼻歌をうたっていて、私はそんな莉結を見ながら、いつもの日常へと溶け込んでいく幸せを感じた。

「帰ったらすぐ寝なよ」

 私の家の前で莉結にそう言って別れると、小さな背中が見えなくなるまで見送って、私は玄関へと向かった。
 そして私はいつも通り鍵穴に鍵を差し込んで……、手を止めた。母さんは居るのかな……。もし居たら、なんて言ってくるんだろう……。おかえり? それとも私の身体を気遣ってくれたり……する訳ないか……。たぶん、また"ごめんね"だ。そんな勝手な妄想をしながらも、諦めたように溜息と一緒に鍵を回した。カチャッという音がやけに大きく聞こえる。そして私がドアをゆっくり開けると、そこはいつもの……、何も無い静かな玄関だった。
 胸の奥に息苦しさを覚えながらも靴を揃える。そして小さな期待を抱いていた自分に呆れながら、取り敢えず水でも飲もうかと、玄関にバッグを置いてキッチンへと入った。するとダイニングテーブルの上に置かれた一枚の紙が目に入る。それは普通の家庭では当たり前の光景なのかも知れないけどここでは違う。いつも何一つ変わらなかった部屋の風景に現れた異質なモノ。だって母さんは帰ってきても自分の部屋に少し寄ってすぐに出て行ってしまうし、故意的なのか、自分の痕跡を一切残さないのだ。私は恐る恐るその紙を手に取ると、懐かしい筆跡に目を細め、視線を落とした。

"瑠衣へ

 おかえりなさい。林間学校はどうでしたか?母さんはあの日瑠衣と話をして本当に酷いことをしてしまったと後悔しています。ですが、これからはちゃんと向き合って本来の瑠衣の成長を見守っていきたいと思っています。今更遅いかもしれませんが母さんの勝手なワガママを許してね。
今日は出来るだけ帰れるように調整します。

母さんより"

 ホント勝手な事……、今更許せないよ。
 その感情と裏腹に、溢れ出てきたモノは
怒りではなく、大粒の涙だった。そしてそれと同時に、私をふんわりとした優しい気持ちが包み込んだのだった。
 私は母さんとどういう関係を望んでいるんだろう……。なんて色々と考えているうちにどっと疲れが押し寄せてきて、私はその感情を大切に胸へと仕舞うと、さっき莉結が口遊んでいた鼻歌を真似しながらシャワーを浴びにいった。
 部屋に戻ってからも、半乾きの髪のままベッドで横になってさっきの気持ちの正体を考えていたけど、ぐるぐるといろんな思いが頭の中を乱すだけでまとまらず、その答えが分からないまま、私はゆっくりと夢の国へと踏み入れていく。

 ……あぁ、いい匂いだな。なんか懐かしいなぁ……。そんな温かい感触が私を包みこむ。
 そして私はその春の陽だまりのようなものを確かめる為にゆっくりと目蓋を持ち上げた。

「母……さん?」

 驚く事に目の前には暗闇にぼんやりと浮かぶ母さんの姿が見えた。そしてその腕は私を優しく包んでいた。
 私は戸惑いながらもこみ上げてくる熱いモノを感じる。こんな母親らしい事、もう二度としてくれない、自分もさせないと思っていたのに、今こうして私は……、ちゃんと母さんの子供として抱きしめられている。
 そこで私は……、俺は、本当に母さんの子供なんだって思えた。当たり前の事なのに、私は今までそう思う事ができてなかったから。避けられている自分。愛されていない自分。きっと俺の事が邪魔なんだろうな……、ってずっと思っていたのに。
 そう思うようになっていたのはいつからだろう。父さんが生きていた頃はたぶん……違った。だけどその時の記憶には靄がかかっていて、私の記憶に残っている頃からはずっとそう思っていた気がする。それは些細な事の積み重ね。いつも母さんの笑顔が自分から逸れる瞬間、真顔に変わる事。最低限の時間しか構ってもらえない事。時折私を見つめる目が辛そうな事。
 でも今、そんな昔の事がなんだかどうでもよく思えた。そして私の中の何かがプツンと音を立てて千切れて、その中に詰まっていたであろうモノが目から次々と溢れ出して止まらなくなった。
 私は必死に声を殺して涙を流し続けた。そして震えるその手をそっと母さんの背中へと回すと、想像していたよりもゴツゴツとした、小さな背中に胸が痛くなる。
 あんなに大きいと思ってたのに、あの頃のまんまだと、思ってたのにな。
 その背中に伸びた艶の薄れてきた髪の毛を指に絡ませて「ごめんね……」と呟く。母さんも凄く辛かったんだって事が伝わったから。
 すると自然と腕に力が入り、私は母さんをギュッと抱きしめて、遂に声を出して泣いてしまう。こうなるともう歯止めなどきかない。私はその温かい感触を抱きしめながら子供に戻ったように泣いた。焦りや不安、嫌な思い出さえも涙へと変わって目から流れていくのを感じながら、私はだんだんと心地のよい夢の中へと吸い込まれていった。


 顔が温かい……。目を開けると眩しい陽の光が差し込んでいる。時計を見ると、もうすぐ正午になろうとしていた。ふと空っぽになった横を見つめて少しがっかりしている自分がいた。それからしばらく天井を見つめてぼうっとあの感触を思い出していた。
 そしてふと部屋のドアに目をやると、手前の小さなテーブルに何かが置いてあるのが見えた。
 ……なんだろう?
 身体を起こしてまとまりのない前髪を手櫛で直しつつ、その何かに近寄ると、小さなピンク色の紙袋だった。私は不思議に思いつつもそれを手に取り振ってみる。中には何か硬いモノが入っているみたいだった。するとその紙袋の隅に、小さく"瑠衣へ"と書かれている事に気付く。その字は間違いなく母さんのものだった。トクトクと鼓動を早めだした胸をギュッと握ると、私はゆっくりとその紙袋を開く。……すると中には小指の爪ほどで、ハート型の葉をしたサトイモみたいな植物の装飾が付いた黒色のバレッタが入っていた。
 これは"俺"ではなく"私"にくれたもの……。それは、母さんが今の私をちゃんと見ようとしてくれている証拠なんだって嬉しかった。

「ありがとう母さん……、私、頑張るから……」

 私はバレッタをギュッと握りしめ、それから後ろ手に髪を纏めると、このなんとも不思議なデザインのバレッタで髪を留めた。そこでふと目に映った姿見には満面の笑みの私が映っていた。








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