本日は性転ナリ。

漆湯講義

41.人質

「ごめんなさい……でもこうするしか無いの」

 すると突然、顔に冷たい感触が広がった。それは……そう、霧吹きで顔に噴射されたような、そんな感覚。
 そんな事を考えているうちに、自分の意思に関係無く、私は身体を地面へと打ち付けていた。
 倒れる、そう分かったのに手が……身体が動かなかった。身体中にピリピリとした感覚が走っていて、例えるなら、身体中が正座をし続けて痺れた足先の様な感覚なのだ。
 人形のように地面へと倒れ込んだ、混乱が解けないままの私の視界に天堂さんの靴が映ると、すっと影が広がり、耳元に囁き声が響く。

「ごめんなさい……トイレの件や鞄の件は、気付いたら"私が"してしまっていたの。貴女は何も知らないまま終わらせてあげるつもりだったけれど……すぐ終わらせるわね」

 次の瞬間、刹那に響いた天堂さんの小さな声と共に、私の顔に柔らかな土の冷たい感触が伝わる。するとそれと同時に、声にもならない悲鳴のようなものが私の耳へと届き、それに続いて電波の悪いラジオのような女の子の声が聞こえた。

「あら……、どうして来てしまったの?」

 天堂さんの冷たい声。それから地面を後退りするような音。そしてその直後に微かに聞こえた天堂さんに助けを求める声が、その正体がほのかさんである事を私に認識させた。
 再び聞こえたスプレーのような音に続き、落ち葉の潰れる音と同時に私の身体へと伝わる振動。私の心臓はストッパーが外れてしまったみたいに荒打ち、頭の中には倒れ込むほのかさんの姿がぐるぐると渦巻いた。

「貴女に恨みは無いのだけれど……、二人仲良く崖の下で眠ってもらうわ」

 その悪魔の囁きの直後、小さな悲鳴と共に何か固いものが私の背中を二、三回突いた。天堂さんだろうか、もがくような吐息と衣服の擦れる音が響き続けている。するとまた聞いた事の無い、今度は低い男の声がした。

「神経系の毒か何かか……」

 それは明らかに聞き覚えの無い壮年者の声だった。私は更なる恐怖を覚え、やっとの事で視線を声のした方に向けた。すると視界の端に暗い色の服を着た大きな男と、その腕を首元に回されもがく天堂さんの姿がぼんやりと映ったのだ。

「ねぇ! やめてっ、汚い手で触らないで! 私は……健太くんっ、助けて」

 天堂さんが必死にもがいている。しかし所詮は少女の力だ。大人の男に勝てるわけもなく、風に揺れる風鈴の短冊のように、天堂さんの手足だけが宙を舞っている。すると男は、その腕でギュッと天堂さんの首元を締め付けると、声を潜めつつ、それでも力強くこう言った。

「黙れっ! 静かにしろっ! 大人しくしないなら殺すぞっ」

 よく見ると、男の手には鈍い光を反射する刃物みたいなものが握られていて、その男の表情からは、極度の疲労と興奮状態が伺える。そうなるときっと……、いや間違いなく逃亡中の強盗犯だということになる。最悪の展開だ。どう転んでも私にはこの森を生きて出られる気がしなかった。
 痺れは治りつつあるが、まだ身体にうまく力が入らない。あともう少しだけ……。私はそう神に願って何事も無く時間が過ぎてくれるのを待った。
 
「殺したければ……殺せばいい」

 突然聞こえたのは天堂さんの声だった。あのトイレで聞いた、低くゆっくりとしたあの声だ。

「私を殺せば必ず貴方は捕まる。どうせ私はここで死ぬつもりだったんだから、強盗犯に殺された悲劇のヒロインってのも悪くないと思うの」

 森の中に、小さな気味の悪い笑い声が響く。死ぬつもりだった……? 私はなんだか遣る瀬無い気持ちに包まれる。私を殺して、自分も死ぬ? そんなの許せるわけがない。すると私は、身体にまだ残る痺れを感じつつも、男に向かってこう叫んでいた。

「人質なら私が代わる! だから……その子を離して!」

 そう言うと、男と天堂さんの視線が私に向けられる。

「なんで…….? 分からない」

 天堂さんが私を真っ直ぐ見つめる。その瞳には様々な感情が入り混じっていて、不思議なその感覚が私の脳裏にはっきりと刻まれる音がした。
 すると鈍い音と共に男の腕から天堂さんの身体が地面へと崩れ落ちる。そしてゆっくりと私を見た男が、震えた声でこう言った。

「そう……だな、君の方が良さそうだ。大人しくしろよ……来いっ」

 こうして馬鹿な私は、自ら強盗犯の人質となってしまったのだった。

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