本日は性転ナリ。

漆湯講義

36.おやすみの前に

 ……部屋の電気が消えると、辺りが一瞬にして暗闇に包まれる。それでも部屋の中には、外から聞こえてくる木々の葉音にも似た、囁くような会話は止まる事が無く、時には驚嘆や声を潜めて笑う声が響いていた。
 私は、隣で布団に包まる莉結の方を向くと、「ねぇ莉結っ」と、ひっそりと話しかける。

「月がこんなに明るいなんて知らなかったよね」

 窓から差し込む月明かりは、誰に邪魔される事も無く、その美しい輝きをそのままに私達の居る部屋まで届けていた。

「うん。本当に綺麗……嫌な事も全部忘れられちゃいそう……」

 嫌な事……か。あの時は本当に辛くて怖くなったけど……今、大丈夫なのは莉結が居てくれたから。もしかしたら莉結は私にとって月みたいなものなのかも。
 そんな事を考えていたら、なんだか急に莉結にお礼を言いたくなった。私は、月明かりにぼんやりと照らされる莉結の顔を見ながら、吐息のように小さな声でこう言った。

「本当に、ありがとう」

 すると、返事の代わりに"すぅすぅ"という静かな寝息が返ってくる。
 ……疲れたよね。ありがとう、莉結。明日もよろしくね。


 いつの間にか辺りはとても静かだ。聞き慣れたバイクの音や、車のエンジン音、遠くで聞こえるパトカーや救急車のサイレンも聞こえてこない。……聞こえるのは風と風に揺られる枝の音。

 ……そしてそんな静まり返った室内で、囁くように……私を呼ぶ声?

「衣瑠ちゃん……起きてる?」

 後ろから聞こえたその声の主は……ほのかさんだった。

「びっくりしたなぁ……まだ起きてたの?」
 私は後ろに寝返ると、同じように囁いて返事をした。何か、こういうのって"秘密の取引"みたいでワクワクする。

「莉結ちゃんは?」

「莉結は……もう寝ちゃったみたいだけど」

「なら良かった」

 そう言うと、ほのかさんの布団の膨らみがこちら側にモコモコと移動してくる。

「さっき言ってた事ってホント?」

「えっと……どの事?」

「衣瑠ちゃん本当にキスしようとして無かったの?」

「当たり前じゃんっ!」

 唐突な質問に、私はつい大きな声をだしてしまった。その声に反応したのか、部屋の何処からか、むにゃむにゃと言葉になっていないような声が聞こえた。

「そっか、ごめんごめんっ! ところで衣瑠ちゃんは莉結ちゃんとお付き合いしてるの?」

 これまた唐突な質問だ……もしかしてほのかさんは、これを聞くために起き続けてたのかな……そうだとしたら、ほのかさんはちょっと面倒臭い人なのかも知れない。

「付き合ってないって。聞きたいのはそれだけ?」

「まぁ……あっ、それじゃぁ衣瑠ちゃんは莉結ちゃんの事好きなんだよねっ?」

 消灯前に私の後ろで散々話していた話題が、まだ話し足りないのか……女子は何でそういう話が大好きなんだろう。別に他人が誰を好きであっても、自分には関係ない事のような気がするのに。いや、もしかしてほのかさんは、莉結の事が……そんな訳ないか、女だし。

「好きだよっ?」

 少しからかってやろうと思って、私はあえてそれより先は言わなかった。案の定ほのかさんは少し動揺したようで、私の言葉への返事は返ってこない。私は、どんな反応をするんだろう、と様子を伺っているうちに、ほのかさんの異変に気付いてしまう。

「ほのか……さん? おーい」

 私は慌ててほのかさんに顔を近づけた。すると、すやすやと小さな寝息を立てて目を瞑るほのかさんの顔が月明かりにぼんやりと映し出されたのだ。

「ちょっと……どこまで起きてたんだよ」

 私は溜息を吐いて仰向けになると、「ま、いっか……」と呟いて瞼を閉じた。





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