本日は性転ナリ。

漆湯講義

30."死んでもいいわ"はまだ聞けない

 広場に戻る事にした私達は、保健の先生にお礼を言うと宿泊棟を後にした。
 外に出ると、冷たい風が私達の髪を靡かせ、樹々の揺れる音と共にキャンプファイヤーの方から陽気な音楽が聞こえてきた。その音楽とは裏腹に、私は何だか胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚を覚えた。そしてその気持ちは、自然と足を止めさせる。
 そして、広場の周りに生い茂った木の上に見える空に小さな赤い光の粒が昇っていくのを見つめながら、私は「ごめん、やっぱり……戻りたくない」と呟いた。

 すると莉結は立ち止まり、私に振り返ると「うんっ、宿泊棟に戻ろっ」と微笑む。でも、私はそんな莉結にできる限りの笑顔を造ってこう言った。

「莉結は行って来なよっ、一生に一度の林間学校だしさっ」

 自分の身勝手に莉結を巻き込みたくは無かったのだ。だから私は……大人のフリをした。

「それじゃ、楽しんできなよっ」

 私はそう言って来た道に足を進めた。すると私の背中に小さな声が響いた。

「……無いからっ」

 その声に私が振り向こうとすると、背中に柔らかな感触がぶつかった。

「衣瑠が居なきゃ意味無いからっ。戻ろっ」

 ……また私の目頭が熱くなる。だけどそれは、さっきとは違って、温かさに溢れていた。

「莉結……」

 私が振り返ると、そこには雲ひとつない空と、そこに浮かぶ満月。

「綺麗……」

 私の口から自然と声が漏れた。すると、それを聞いた莉結が、私の視線の先を見て小さく呟いた。

「月が綺麗ですね」

「うん、そうだねっ」

「……だよねっ、そう言うと思った」

 莉結は月を見つめたままそう言って笑った。

「えっ、何でっ?」

「いつか衣瑠が分かってくれる日が来る事を願ってますっ」

 私の肩をポンと叩いた莉結の顔は、何だか昔の莉結を見ているみたいで……その無垢な笑顔は、私の心に掛かった靄(もや)を一瞬にして吹き飛ばしてしまった。

「莉結……ありがとっ」

 私はそう言うと、莉結の手を取って走り出す。

「ちょっ……何で走るのっ?」

「そういう気分だからっ!」

 もう何でもいいやっ……私には沢山の敵と、それよりもっともっと沢山の味方、そして莉結が居る。もし味方が一人も居なくたって、私には莉結が居ればいい、莉結だけは居て欲しいなって思った。
 夜空に響く楽しげな声達から逃げるように走っていく私達は、何だか悪い事をしているみたいで……これが青春っていうのかな、なんて思ったりした。
 そして、宿泊棟の灯りが段々と大きくなって来た時、私達は……宙を舞った。



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