本日は性転ナリ。

漆湯講義

16,生きる意味。

 ぼうっとする頭で、まず私が思ったのは、"良かった"という単純な感情だった。そして私は再びゆっくりと瞼を閉じようとしたけど、何か大切な事を忘れている気がして、閉じ掛けた瞼をまたゆっくりと持ち上げたのだった。

 そこで私の視界に映ったのは見慣れた部屋……。でもそれは自分の部屋とは違った綺麗に整頓された棚、そして見覚えの無いぬいぐるみ達。いや、その中に見覚えのあるものある。そうか、暫く見ていなかったから随分と様変わりしているけど、ここは確かに記憶に残る莉結の部屋だ。

 "えっ……、でもなんで?"

「良かった……。もう大丈夫? その……、何があったの?」

 突然、枕元から莉結の声がした。それこそ声を漏らして驚いてしまった私だけど、よくよく考えればここは莉結の部屋な訳だし、本人が居ない訳がない。それはさて置き、そう訊ねられても私は答えられなかった。なぜなら頭の奥の方がぼやけているような不思議な感覚が私を包み、記憶の糸を辿ろうとも全く思い出すことができないからだ。というよりもむしろこの状況になった経緯を教えてもらいたいくらいだった。

「私で良かったら聞くよ?」

 いつもとは違う莉結の雰囲気に、心配を掛けてしまっているという申し訳ない気持ちと、私の身に何があったのかという不安が同時に襲いかかってくる。私は何をしたのだろう。あともう少しで何かを思い出せそうなのだけれど、記憶の蓋を開けようとすればするほどに集中できなくなっていく。何度か繰り返すうちに、それはもしかしたら思い出さないほうが私にとって都合の良い事なのでは、とも思えた。
 
「何でもないと……思う。なんか迷惑掛けたみたいで本当にごめんね」

 "本当にごめんなさい"

 その瞬間、その言葉が私の脳裏に鳴り響き、あの時母さんが口にした言葉のひとつひとつが鮮明に蘇ってきた。そしてその言葉たちは瞬く間に私の頭の中を埋め尽くしたのだった。

 "やっぱり思い出さなきゃよかった"

 そう思った。目が覚めてから今まではほんの一瞬の安らぎだった。どうしてこうも記憶というものはしっかりと残ってしまっているのだろう。人間は失敗を糧にして成長するなんて言われているけど、糧にすらならない自分に不都合な記憶なんてすぐに忘れてしまえばいいのに。

「ごめん……、トイレ借りるね」

 私はそう言って立ち上がると、込み上げる熱いものを目頭に感じつつ逃げるようにして部屋を出た。
 莉結の部屋から短い廊下を進み、階段を駆け下りていく。そして、下り切った先の突き当たり、トイレのドアに寄りかかると、私の中で何かが崩れた。
 ……大粒の涙が止まらない。こんなに涙を零してしまったら、目が腫れて部屋に戻った時莉結に気付かれるかも知れない。だけどそんな風に思ってはみてもこの溢れ出る感情の粒たちをどうすることもできなかった。
 喉の奥から耐え切れず溢れ出ようとする声を抑え込む度に、大きく肩が震えた。ここのところ泣いてばかりだ。こんな弱い姿を莉結には絶対に見られたくない。
 するとドアの開く音と共に暗闇の中に一筋の光が差し込んだ。

「あらま……、いらっしゃい」

    優しくて、落ち着いたその声は、昔からずっと変わらない莉結のおばあちゃんのものだった。私は咄嗟に涙を拭い、無理矢理笑顔を作ると顔を背けて口を開いた。

「お邪魔してますっ……、あの、おばあちゃん、トイレ借りるねっ」

    そう言ってから、"あ、今の私は"衣瑠"なんだっけ……"と気付く。しかし、おばあちゃんは一瞬驚いたように少し口を開くと、すぐにいつもの優しい顔に戻ってこう言った。

「あぁ……、瑠衣かぁ。ちっとばか見んうちにまた背ぇ伸びたかねぇ」

 そして少しの間を置いてから"まぁこっちきんしゃい"と私を手招きしておばあちゃんは居間へと戻っていく。
 私は"瑠衣"と呼ばれた事に驚きを隠せなかった。もしかしたら私は元の姿に戻っているのかも、なんて思って胸に手を当てる。しかし変わらずにその胸の感触が伝わった。何で私を瑠衣と呼んだのか……。もしかしたらお婆ちゃんは呆けてしまっていて、ここに訪れる同年代の子供が全て"瑠衣"だと思ってしまっているんじゃないか、それとも薄暗い廊下に立っていた私の雰囲気や喋り方で何となく"瑠衣"だと思ったか……。それでもそんな風には思えず、いつもと変わらない様子のおばあちゃんに戸惑いながらも、私は居間へと入っていったのだった。

 ……あの頃と変わらない部屋。今となってはどこを探しても見当たらないような昔ながらの造りをした大きな部屋。太い木の枠組みに馴染んだ土壁が部屋の真ん中にある囲炉裏の温かな光を反射している。そして私を包む妙に落ち着く炭の香りとパチパチと乾いた木炭の弾ける音。

「まぁ座んねぇ」

 そう言って台所に向かったおばあちゃんに小さく会釈をすると、私は囲炉裏の前に座り、落ち着かない気持ちを抑えるように煌々と輝く炭をジッと見つめた。
 ……何にも変わってないな。そういえば小さい頃はここでよくマシュマロなんかを焼いていたっけ、なんて昨日の事のように思い浮かんだ昔の記憶に目を細めていると、私の膝元に湯気の立つ湯呑みが置かれる。

「熱いでねぇ」

 私との間にお盆を置いたおばあちゃんは、その隣にそっと腰を下ろして囲炉裏の方をぼぅっと見つめている。その僅かな時間でも、お婆ちゃんの真意を知り得ぬ私の心臓はトクトクと忙しない鼓動を伝える。
 すると、お婆ちゃんは静かにお茶を啜るり、視線はそのままに語りかけるような優しい口調で口を開いた。

「人生色んな事があるもんだねぇ。だけん自分でも驚くほど平然としとるわね」

 それは私の事を瑠衣と分かっての言葉だと思った。でも臆病な私はそれに答える事ができず、無言のまま囲炉裏の中心を見つめた。

「あんなぁ、人生なんて難しく考えちゃぁいかんよ。今の世の中はしっかりしてるけえが、しっかりし過ぎて自分を世の中に合わせなきゃぁ生きていけんようになっとる。もちろん、それは大切な事だけどなぁ、人間なんて元々そういう風にできちゃあいん。みんな違って当たり前。違うのが人間さえ。たとえそれが周りの人間と大きく違ったって普通なのが本当なのになぁ……。今の世の中じゃぁその違いも周りの人間と同じくらいじゃなきゃぁいかん……。だけどなぁ、この歳んなるとそういうのに振り回されて生きてきた事が勿体なかったなぁって思うんだ。まぁ簡単に言やあ見たくれや世間体なんぞ気にせずにもっと気楽に生きたらえぇっちゅう話だねぇ」

    まるで私の気持ちを見透かしたみたいだった。例えどんな容姿だろうと、今の自分を自分として気楽に生きろ、と。いとも簡単に私の心へと真っ直ぐに入り込んだその言葉は、私の奥底にこぞんだドロドロした感情をすくい上げていった。

「あたしゃもう先は長かないけぇが、瑠衣にゃあ、うちの莉結がいるでさ。あの子は本当にいい子で瑠衣くんの事好いとるで。まだ若いけえ感情に振り回される事もあると思うけが、あの子もあの子で爺さんに似て頼られる事嫌いじゃないでねぇ、なんかあったら莉結に相談してやってや。今の瑠衣がもし"自分の生きる意味"が分からなくなっちまってるならまずそれを見つけなきゃいかんね」

    おばあちゃんはそう言ってまた優しい笑顔を見せた。生きる意味……。それはこの姿である理由という事だろうか。私は突然こんな姿になって、それにも理由があった? 私はそう思う事ができない。単純に病気のせいでこうなって、私は瑠衣で居られなくなった。そんな事に理由なんてある訳ない。

「おばあちゃん……、意味なんて本当にあるのかな」

「あるよぅ、意味を持たない人間なんさこの世にいないだもんで。例えば生きる意味ってのは銭稼ぎでも人の為でもなくて自分の為にあるもんだ。自分が最期にどれだけ満足できたかっちゅう事かも知れんね。その人間の意味は人様が決めるもんじゃぁなくて自分で導き出すもんだと婆さんは思ってる。んまぁそれが分かるのはいつになるか分からんけぇがさ。いつか分かるで。生きる意味。だからなぁ、それまではあんな顔しちゃいかんよ」

 おばあちゃんはそう言ってまた笑った。
 それからお婆ちゃんは私の頭を優しく撫でると、ゆっくり立ち上がってから囲炉裏を見つめてこう言った。

「莉結も自分の人生、大切にしにゃぁいかんよ」

 すると私の後ろ側、部屋のドアが開く。莉結は視線を部屋の端から端に移動させると、少し俯いたまま口を開いた。

「お婆ちゃん……、いつ分かったの?」

「自分の子くらい見りゃあ分かる」

    おばあちゃんはまた優しく微笑んで莉結に目をやると台所へと向かっていく。そしてふとその足が止まったかと思うと、「じきに分かるで。さっ、ばあちゃんは晩御飯の支度するでな。できたら呼ぶで部屋戻り」と昔みたいに私達に言ったのだった。


 莉結は不思議そうに首を傾げる。私は、まだ冷めないお茶をぐっと飲み干すと、湯飲みを台所に持っていって、「おばあちゃん……、ありがとっ」とその横顔に囁いてから莉結の部屋へと戻った。



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