脳髄夢遊録

脳髄さんと睡魔

 【睡魔】 
  
 眠気が催すのを魔物の力にたとえて言う語。 
  
  
 えー、皆様こんばんは。時刻は午前二時を回りました。草木も眠る丑三つ時です。こんばんは。
 さて、丑三つ時と言うと、どうしても幽霊というイメージがありますが、特にホラーの要素はありませんのでご安心ください。というか、草木も眠ると言いますが、そもそも草木がこの時間帯に睡眠をとっているなんて、誰が言い出したんでしょうか。だって、草や木が寝ているなんてどうやって判断するって言うんですか。夜でも変わらないじゃないですか。見た目とか、位置とか。そもそも、草や木って、どうやって眠るのでしょうね。枕とか使うんですかね。・・・枕木? ・・・草枕? やっぱり、木が枕木を枕にして眠るのって、なんか変じゃないですか?それともあれですか。人間で言うところの膝枕みたいな。でも、ほとんどの木は真っ直ぐ大地に根を下ろしたまま眠っているように見えます。彼らは本当に眠っているのでしょうか。
  
 午前二時半になりました。普段なら床に就いている時間帯です。眠いです。しかし、今日は眠るわけにはいかないのです。草や木ですら眠っているというのに、何故私が無理をしてまで起きていようとしているのか。それはですね、一度勝ってみたいからです。睡魔に。生まれてこの方何度か試してみたのですが、朝を迎えるより先に睡魔に倒されてしまうのです。奴は音もなく忍び寄り、静かに、それでいて素早く私を愛すべき生涯の伴侶お布団の中へと昏倒させるのです。何度も何度も戦いを挑み、何度も何度も負けました。ですが今晩は違います。長い夜を乗り越え、この目で東の空から昇る太陽を拝むのです。私は今夜は絶対に眠りません。部屋に一人引き篭もって朝が来るのをじっと待ちます。 
 ・・・それにしても夜と朝の境目って実に曖昧ですよね。日が昇ってからが朝だとしても、日が昇る前もちょっとだけ明るいじゃないですか。あの時間帯も朝って呼んでもいいと思うんです。
 日本語って曖昧ですよね。でも、そんな曖昧さが日本語のなんとも言えない奥ゆかしさを醸し出しているのかも知れませんよ。例えば、大人って言葉。大人って何歳から大人なのでしょうか。そりゃあ成人してからなのですが、成人しても子供のような振る舞いをする方もいらっしゃるわけです。では結局、大人って何でしょうか。電車の切符を大人料金で買うようになったら大人?桃色映像をレンタルできるようになったら大人?ブラックでコーヒー飲めるようになったら大人?ほら、曖昧です。でも「大人」って響き、何だか浪漫を感じませんか? 
 定義付けができない言葉というものは、一つの言葉で括ることの出来ない人間の本質にかなり近いのかも知れません。だからこそ惹かれるのだと思うんです。例えば恋とか、夢とか、未来とか。ほら、なんか素敵です。 
  
 さて、午前三時です。草木は眠っているのか、それとももう起きているのか。今は朝なのか夜なのか。朝とも言えますし、夜とも言える気がします。考えていたら眠くなってきました。果たして私は寝ているのか起きているのか。あぁ、いえ、起きてます。起きてますとも。そうです。今日こそは負けません。飲めないブラックコーヒー飲んで戦います。あ、ブラックでコーヒーを飲めない私は、まだ大人じゃないのかも知れません。 
 いやはや、それにしてもなんだか不思議ですよね。昼の喧騒が嘘のようです。やっぱり草木も眠るって本当なのかも知れません。聞こえるのは虫の声のみ。まるで、地球上に私一人取り残されたような、そんな感覚に陥ります。 
 もし、ある朝目が覚めたら自分以外の生物がいなくなっていたら。そう考えると恐ろしいですね。怖くて眠れません。あ、すみません。最初にホラーの要素は無いと言ったのにも関わらず、申し訳ありません。怖い話はやめておきましょう。
 ・・・それにしても、もし本当に突然一人になってしまったらどうしましょう。あ、いえ、この場合の一人というのはどちらかと言えば「独り」の方が近いかも知れません。物理的と言うよりも精神的な一人です。ただ人恋しい。そんなレベルではなく。もうどうしようもなく寂しくて仕方が無い。どんなに満たされた環境にいても、寂しいと感じてしまう。もし、そうなったら。私は・・・。ちょっと本当に怖くなってきたのでこの話はここまでです。 
  
 さて、午前三時半。今のところ眠気よりも、寝てたまるかという気持ちの方が勝ってます。 深夜テンションというか、ナチュラル・ハイというか、ここまで来たらもう成し遂げるしかありませんね。
 頑張れ私。朝日を拝んだところで誰も褒めてくれやしないが、いいじゃないか。全ては自分だ。自分がそうしたいからやっているんだろう。負けるな私。 ・・・そう言えば私は何と戦っているんでしたっけ。
 あ、睡魔か。ん?何だ睡魔って。「睡」はいいよ、でも何で「魔」なんだ。「魔」って悪いものだよな。魔が差すって言うもんな。つまりあれか、睡魔は「眠る事は悪である」ってことを前提に作られた言葉なのか?いや待て、ちょっとおかしくないか、睡眠欲は人間の三大欲求の一つだろう。そのくせに掌を返してそれを悪い事だなんて。もしかしてあれか。睡魔っていうのは人文主義が提唱されるルネサンス期以前に出来た言葉なのか?人間の欲望を肯定しているのが人文主義だもんな。いやでもそんな言葉が現代に生きているものなのか・・・?言葉は常に変化すると言えど、変化しない言葉だってあるはずだ。でも、それに睡魔は含まれるのか?そもそも睡魔ってなんだ?居るのか?そういう怪物的な何かが。でも見たことないよな・・・。
 えー、皆さん大変です。私が現在進行形で戦っている睡魔さんなのですが、彼の正体が掴めません。日本語が曖昧という事もあるのですが、よく分かりません。睡魔って何だろう。 
  
 ふと時計をみたら午前四時でした。違う意味で睡魔と戦い、よくわからないという結論に至りましたが、見えない何かと戦い、勝利を収めるというのも悪くないかも知れません。そろそろ朝と言っても差し支えないのではないでしょうか。
 ・・・いや、まだです。日はまだ昇っていません。ここで眠ったらこれまでの努力がすべて水泡に帰してしまいます。負けません。勝つまで負けません。この目で朝日を拝めばゴールなのです。でも、その後は?朝日を拝んだ後は寝ていいのでしょうか。それでは睡魔に負けたという事になりませんかね?まぁいいです。日が昇ってから考えましょう。 
 私ね、思うんです。未来の事を考えるのも大事ですが、結局、今どうするべきかが大事なんだと思います。だって、我々が実際に体験できるのは「今」だけなんですから。まずは今、何をするべきかです。それを考えた上で「過去を振り返ろう」「未来の事を考えよう」という結論に至るわけです。今の行動が未来にどのような影響を及ぼすのかを考え、今という形で現れた未来を迎えるのです。 
 ですが、それを繰り返していくうちに人は死んでしまいます。私が大事にしたいのは、そのループの中で如何に人生を楽しむかという事ですね。せっかく産まれたのですから楽しまなきゃ損です。色々な人と関わって、楽しんで、人生の最期。体験できる「今」が無くなるその瞬間に「楽しかった」と言えるような。そんな人生を送りたいですね。 
 ・・・そう考えると、私は今何をやっているんでしょう。ただ睡魔に抗っているだけなのでしょうか?起きたまま夜を明かす事にどんな意味が?きっと答えは探しても見つからないでしょう。でも、こうして一晩中部屋に籠って考えた事は忘れる事などできない。そんな気がします。色々ある人生の経験の一つとして、思い出として今晩の事は大切にとっておくことにしましょう。もうすぐ、朝です。 
  



  
 結構時間が経ったと思うのですが、残念な事にいつの間にか時計が止まっており、正確な時刻が確認できません。今は何時なのでしょうか。ふと窓の外を見ます。まだ真っ暗でした。明かりが一切見えません。もうそろそろ日の光が見えてもいい頃なのですが・・・。しかし、何度見ても外は真っ暗。というか真っ黒。見れば見るほど不思議です。朝、ちゃんと来るのでしょうか。いや、来てくれないと困ります。勝てないじゃないですか。もう少し待ちましょう。 
  
 ・・・しばらく待ってみたのですが、窓からの景色は一向に変わりません。相変わらず真っ暗真っ黒。部屋の電灯の光すら反射していないのですがこれは一体どういう事なのでしょうか。先程試しに窓を開けてみたのですが、やはりそこには闇があるだけでした。黒です。虫の声もいつの間にか聞こえなくなっていました。あるのは闇と静寂のみ。 部屋の中もしんと静まり返っています。つけっぱなしの電灯が唯一の光源なのです。 
 さすがにこれはおかしい。待てども待てども静寂と闇です。もう朝が来てもおかしくない。なのにどうしてなのでしょうか。 
 草木は眠るどころか、気配さえも断ち切ってしまったようです。闇に溶けたか何処かへ逃げたか、草木よ草木、何処行った。
 というかそもそも今が朝なのか夜なのか判然としません。窓の外を見る限りは恐らくどちらでもないのです。朝なのか夜なのか。曖昧な時間帯とはいえ、まさかどちらでも無かったとは。
 ・・・もしやこの闇の中には私一人しかいないのでは?そんな事が頭をよぎりました。いつの間に闇の中に一人閉じ込められてしまったのでしょうか。・・・いやいや冗談じゃない。そんなはずない。私は少し怖くなり部屋の扉を開けました。しかし、そこに広がっていたのはいつもの廊下ではなく、丁度窓の外と同じような闇でした。一歩踏み出そうものならば闇に取り込まれていまいそうな気がして私は部屋の中に戻ります。 
 気がつけば睡魔なんて吹き飛んで、あるのは恐怖のみでした。早くここから出たい。しかしどうやって?分からない。見えない何かがここまで恐ろしいものだとは思いませんでした。
 ・・・ここで、ふとこんな考えが頭をよぎりました。もしや、この闇こそが睡魔なのではないか。睡魔に抗おうとした私に対する罰なのではないか。睡魔とは決して抗ってはいけない何かだったのではないか。私は知らぬ間に禁忌を犯してしまったのではないか。では、その何かとは。その正体とは。
 答えは依然として出ないままでした。 
 
 止まった時計を眺めます。針は丁度午前五時を指していました。午前五時、それが過去なのか、はたまた未来なのか、見当がつきません。 
  
 とにかくこの場から逃げ出したい。しかしどこへ向かえばいいのでしょう。外は真っ暗何も無い。そんな所へ出ていったら一体どうなってしまうのか。自らの体すら見えなくなり、意識のみが闇の中を彷徨う。
 嫌だ。そんなの嫌だ。怖い。助けて。
 いや無理だ。この世界には私一人。あぁそうだ、私は一人だ。一人。独り。孤独。あぁ、孤独なのだ。私は孤独。ずっと一人で独り。一人寂しく命尽きるまで。
 嫌だ。そんなの嫌だ。嫌だ。
 このまま死ぬなんて。そんなの・・・。 
  
  
  
 
  
 そこで、目が覚めました。 
 窓からは朝日が差し込み、柔らかな光を室内に投げかけています。それは紛うことなき朝の風景でした。目を擦り布団から起き上がります。よろよろと立ち上がり、窓を開けました。冷たい朝の風が部屋の中に流れ込んできます。もう、大丈夫なんだ。
  
 私は泣いていました。朝が来た。ただそれだけの事なのですが、私の心は喜びと、長い悪夢から開放されたような、清々しい気分で満たされていました。何故なのかは分かりません。ですが、酷く物悲しい夢を見ていた。そんな気がするのです。 

 夜の間何があったのか、不思議と思い出す事が出来ません。しかし、私はこの奇妙な出来事をきっと忘れる事はないのでしょう。 
 机の上には、冷めきった飲みかけのコーヒーが置かれていました。

コメント

  • 吟遊詩人

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