Waif of Boundary
1-1
児玉市を知っているだろうか。
立地的には関東の隅にある。海岸線にギリギリまで迫った山に囲まれたそこそこの広さを持つ地方都市だ。
歴史はなかなかに深く弥生の頃には人が住んでいたらしい。市内には史跡が点々としており、ハイキングの目的地となる周囲の山とともにささやかな観光資源となっている。どちらにせよ全国から人が押し寄せる類いの土地ではないが、地元の人間はそれなり以上の愛着を抱いてこの街に生きている。
そして季節は春。どこにでもあるようなこの街が色めく年に何回かの日がやってくる。
本日、四月七日に児玉市内の学校は一斉に入学式を迎える。
桜並木から緩やかな風が花びらをさらう。それはひらひらと揺れながら宙を泳ぎ、そっと地面に落ちるかここからは見えないところへ飛んでいってしまう。
その繰り返しを眺めていると意外と待ち合わせも苦にならないものだなと思いながら少女はふっと空を見上げた。
背中まである黒髪をポニーテールにまとめた少女だった。しっかりしていそうな顔つきだがまだあどけなさも充分に残しており市内の高校の制服を着用していなければまだ中学生と言われても違和感はない。背筋を伸ばしているせいか若干小柄な体躯をそれほど目立たせることもなく川沿いのベンチ脇に佇ませていた。
道行く人が見れば待ち合わせをしているように見えただろう。そしてそれは間違っておらず、少女-小川優は二十五分前からベンチに腰も下ろさずに友人の到着を待っていた。といってもその相手が遅れているわけではない。実は待ち合わせの時間まではあと五分ある。よほどの事がなければ優は予定の十五分前には行動しており、デートの時には「待った?」と聞かれて「全然待ってないよ」と答えるタイプだった。彼氏がいたことは一度もないが。
その優をしていつもより行動を早めさせたのはひとえに入学式の朝という状況がある。優は昔からイベントの前日は不安や緊張、あるいは期待で寝付きが悪くなる質であり、本日も御多分に漏れず少し寝不足である。
待ち合わせの場所に着いてすぐはどことなく普段より浮わついて見える通行人を眺めたり、足元に寄ってきた猫と戯れたりしていたが今は桜の花びらの行方に御執心だった。
風に揺れて、舞い、落ちる。繰り返されるそれらを見ていると目に見える以上の意味があるように感じられて不思議と目を離せなかった。
おばあちゃんなら何て言うかな、と小学生の頃他界した祖母のことを考えた。十年以上前に別れたはずだが色々なものを見るたびに祖母を思い出すのはおばあちゃんっ子だった優の癖であり桜の花もその一つだった。
幼い頃、近所の神社に桜の花を見に連れていってもらったことがある。その時も少し風があり、舞い散る花びらを追う優を祖母は少し離れた所から見守っていてくれた。
-きれいだね、おばあちゃん!-
ひとしきりはしゃいだ後祖母とともに一休みしながら境内のベンチから桜を見上げて、ふと祖母にひとつ訊ねたことを覚えている。
-ねぇ、なんで桜の花はこんなにきれいなの?-
そんな無邪気な質問だったと思う。祖母は少しだけ考えた後、
-優にだけ教えてあげる。秘密だよ-
といって教えてくれた。「そこまで」は記憶にある。
問題はその「答え」をどうしても思い出せないことだ。祖母の言葉は子供心にも不思議で、納得できて、そして少しだけ恐ろしいと、そう思ったことまでは今でも覚えている。ただ答えだけがどうしても思い出せないのだ。
毎年目に入る桜の木を見てこんなことまで考えるのは今日が特別な日だからだろうか、それとも寝不足のせいだろうかと考えてみたが、どうしても肝心な祖母の教えてくれた「理由」が思い出せず、それが座りが悪い。考えあぐねた、そんな時一瞬不思議な感覚があった。
-今ならわかるような-
-声に出せるような-
その感覚に従って優は口を開いた。
「桜が美しいのは…」
「…どーして?」
「ひうっ」
思わず声が漏れ、後ろを振り向くと優と同じ制服を着た少女が立っていた。髪をショートにまとめた快活そうな少女でいたずらっぽく笑いかけると手をひらひらとさせた。
「優は詩人だねー。桜を見ながら美しさの訳を語るとは」
「お、おどかさないでよお雪!来てたんなら声ぐらい」
「やー、詩人小川優があまりにも一生懸命花の美しさについて考察してるから」
それらしいことを言いながら表情は笑ったままだ。面白がられているのにむっとして優がそっぽを向くと慌てたようにお雪-須藤小雪が回り込んでくる。
「ごめんごめん。でも真剣だったのは本当よ。お雪ちゃん惚れちゃいそう!
…で、なんでそんなこと考えてたの?」
「…教えないもん」
本気で怒っているわけではないが語るまでもないだろう。そう判断してふと時刻を確認する。
「…五分遅刻」
「それもごめん」
ぺこりと頭を下げる。ちなみに彼女はデートの時待たせる側である。
「はぁ…。もういいや。早く行こ」
諦めて促す。こういうノリも含めて親友だと思っている。
ありがとー、と抱きついてこようとする小雪をあしらいながら高校へ向かう道へと歩を進めかけて、すぐに足を止める。
最初の曲がり角だった。道の片隅に花が手向けてある。隣の小雪が呟いた。
「交通事故だってさ。三日くらい前」
その言葉に頷いて。そっと気づかれないように周囲を見回す。誰もいない。
「優?」
どしたの?と問いかける小雪にもう一度頷いて先を促し、今度こそ学校へ向けて歩き出した。
何か、大事なことを思い出せないような感覚を引きずりながら。
立地的には関東の隅にある。海岸線にギリギリまで迫った山に囲まれたそこそこの広さを持つ地方都市だ。
歴史はなかなかに深く弥生の頃には人が住んでいたらしい。市内には史跡が点々としており、ハイキングの目的地となる周囲の山とともにささやかな観光資源となっている。どちらにせよ全国から人が押し寄せる類いの土地ではないが、地元の人間はそれなり以上の愛着を抱いてこの街に生きている。
そして季節は春。どこにでもあるようなこの街が色めく年に何回かの日がやってくる。
本日、四月七日に児玉市内の学校は一斉に入学式を迎える。
桜並木から緩やかな風が花びらをさらう。それはひらひらと揺れながら宙を泳ぎ、そっと地面に落ちるかここからは見えないところへ飛んでいってしまう。
その繰り返しを眺めていると意外と待ち合わせも苦にならないものだなと思いながら少女はふっと空を見上げた。
背中まである黒髪をポニーテールにまとめた少女だった。しっかりしていそうな顔つきだがまだあどけなさも充分に残しており市内の高校の制服を着用していなければまだ中学生と言われても違和感はない。背筋を伸ばしているせいか若干小柄な体躯をそれほど目立たせることもなく川沿いのベンチ脇に佇ませていた。
道行く人が見れば待ち合わせをしているように見えただろう。そしてそれは間違っておらず、少女-小川優は二十五分前からベンチに腰も下ろさずに友人の到着を待っていた。といってもその相手が遅れているわけではない。実は待ち合わせの時間まではあと五分ある。よほどの事がなければ優は予定の十五分前には行動しており、デートの時には「待った?」と聞かれて「全然待ってないよ」と答えるタイプだった。彼氏がいたことは一度もないが。
その優をしていつもより行動を早めさせたのはひとえに入学式の朝という状況がある。優は昔からイベントの前日は不安や緊張、あるいは期待で寝付きが悪くなる質であり、本日も御多分に漏れず少し寝不足である。
待ち合わせの場所に着いてすぐはどことなく普段より浮わついて見える通行人を眺めたり、足元に寄ってきた猫と戯れたりしていたが今は桜の花びらの行方に御執心だった。
風に揺れて、舞い、落ちる。繰り返されるそれらを見ていると目に見える以上の意味があるように感じられて不思議と目を離せなかった。
おばあちゃんなら何て言うかな、と小学生の頃他界した祖母のことを考えた。十年以上前に別れたはずだが色々なものを見るたびに祖母を思い出すのはおばあちゃんっ子だった優の癖であり桜の花もその一つだった。
幼い頃、近所の神社に桜の花を見に連れていってもらったことがある。その時も少し風があり、舞い散る花びらを追う優を祖母は少し離れた所から見守っていてくれた。
-きれいだね、おばあちゃん!-
ひとしきりはしゃいだ後祖母とともに一休みしながら境内のベンチから桜を見上げて、ふと祖母にひとつ訊ねたことを覚えている。
-ねぇ、なんで桜の花はこんなにきれいなの?-
そんな無邪気な質問だったと思う。祖母は少しだけ考えた後、
-優にだけ教えてあげる。秘密だよ-
といって教えてくれた。「そこまで」は記憶にある。
問題はその「答え」をどうしても思い出せないことだ。祖母の言葉は子供心にも不思議で、納得できて、そして少しだけ恐ろしいと、そう思ったことまでは今でも覚えている。ただ答えだけがどうしても思い出せないのだ。
毎年目に入る桜の木を見てこんなことまで考えるのは今日が特別な日だからだろうか、それとも寝不足のせいだろうかと考えてみたが、どうしても肝心な祖母の教えてくれた「理由」が思い出せず、それが座りが悪い。考えあぐねた、そんな時一瞬不思議な感覚があった。
-今ならわかるような-
-声に出せるような-
その感覚に従って優は口を開いた。
「桜が美しいのは…」
「…どーして?」
「ひうっ」
思わず声が漏れ、後ろを振り向くと優と同じ制服を着た少女が立っていた。髪をショートにまとめた快活そうな少女でいたずらっぽく笑いかけると手をひらひらとさせた。
「優は詩人だねー。桜を見ながら美しさの訳を語るとは」
「お、おどかさないでよお雪!来てたんなら声ぐらい」
「やー、詩人小川優があまりにも一生懸命花の美しさについて考察してるから」
それらしいことを言いながら表情は笑ったままだ。面白がられているのにむっとして優がそっぽを向くと慌てたようにお雪-須藤小雪が回り込んでくる。
「ごめんごめん。でも真剣だったのは本当よ。お雪ちゃん惚れちゃいそう!
…で、なんでそんなこと考えてたの?」
「…教えないもん」
本気で怒っているわけではないが語るまでもないだろう。そう判断してふと時刻を確認する。
「…五分遅刻」
「それもごめん」
ぺこりと頭を下げる。ちなみに彼女はデートの時待たせる側である。
「はぁ…。もういいや。早く行こ」
諦めて促す。こういうノリも含めて親友だと思っている。
ありがとー、と抱きついてこようとする小雪をあしらいながら高校へ向かう道へと歩を進めかけて、すぐに足を止める。
最初の曲がり角だった。道の片隅に花が手向けてある。隣の小雪が呟いた。
「交通事故だってさ。三日くらい前」
その言葉に頷いて。そっと気づかれないように周囲を見回す。誰もいない。
「優?」
どしたの?と問いかける小雪にもう一度頷いて先を促し、今度こそ学校へ向けて歩き出した。
何か、大事なことを思い出せないような感覚を引きずりながら。
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