侯爵と約束の魔女 一目惚れから始まる恋

太もやし

ジョンのたじらい


 怒りに満ちていた者はカラスの群れを東の空に見つけた。
 その怒りは憎しみの炎の燃焼剤となり、邪悪に染まった心は次の手を考えた。


 エヴァが恰幅のよいメイドに案内された部屋は、キングレイ邸の客室の中で最も眺めがいい部屋だった。
 エヴァが部屋に入ると、細身のメイドが大急ぎで部屋を整えていた。彼女はエヴァに申し訳なさそうな笑みを浮かべ、作業の手を止める。

「申し訳ありません、お嬢様。もう少々、お時間をいただけますか?」

 エヴァはにっこりと微笑み、杖を取り出した。

「大丈夫よ、あとは私がやるわ」

 するとメイドは焦り、手を体の前で振った。

「お嬢様にそんなことをしていただく訳にはいきません。本当に、あと少しで終わりますから!」

 エヴァは目の前で振られる手を掴んで、目と目を合わせた。

「私のことはエヴァと呼んで。それに私、あなたみたいにジョンのために働くの。あなた、お名前は?」

「ベスです、おじょう……エヴァ様。でも、これが私の仕事なんですよ」

 ベスはかたくなだったが、エヴァはそれ以上だった。エヴァは《戦乙女》でつちかった、自分の意見を通す方法を使うことにした。

「ここは私の部屋になるんでしょう? なら私にやらせて」

 ゆっくりと言い聞かせるような声でエヴァは言う。ついでにウインクも付け加えた。
 ついにベスはエヴァの意思に負け、諦めの笑みを浮かべたあと、瞳を好奇心に輝かせた。

「じゃあ、お願いします。あの、そばで魔法を見させてもらっても、いいですか? 私、いえ大半の人がそうだろうと思うんですけど、ミュルディスの方にお会いになることが初めてなんです」

 意思を通したエヴァはにっこりと微笑み、頷いた。

「もちろん、いいわよ。ミュルディスは隠れ里に住んでいるから、会えなくて当然だもの」

 そうしてエヴァは、ベスから手を離した。杖を指揮棒のように振り、韻を踏んだ呪文を唱える。軍では整理整頓が求められる。そのことはエヴァが最も苦手とするものだったため、試行錯誤の末に呪文を生み出したのだった。エヴァは宿舎にある自室以外で、この魔法を使ったが、効果は上々だった。

 シーツは空中でピンと張り、マットを包む。エヴァのホウキが踊りホコリをまとめ、またまったホコリはゴミ箱に入っていく。エヴァのカバンから荷物が飛び出て、鏡台やサイドチェストにその身を落ち着かせる。

 初めて見る魔法に、ベスは歓声を上げた。

「すごいです、エヴァ様! 魔法って、こんなこともできるんですね!」

 エヴァは鼻高々になった。魔法を使ったくらいで、こんなに喜ばれたことは初めてだったからだ。

「ありがとう、ベス。ねえ、お風呂に入りたいんだけど……」

 綺麗な部屋には綺麗な体でいたいわ。エヴァは空の旅でついた汚れを落としたかった。

「それなら、あのドアの向こうがバスルームです。先代がジョン様に勧められて、どの部屋にも最新鋭のバスルームをつけたんですよ」

 そうしてベスは満足した笑みを絶やさずに部屋を出て行った。使用人部屋では、このことが一時の話題になることだろう。
 エヴァはバスルームの扉を開け、バスルームの様子に感嘆の声を漏らした。猫脚の白い浴槽に金色のシャワーがついていて、真っ白なタイルは輝いているようだ。上品なバスルームに、エヴァはとても喜んだ。

 そしてエヴァは、浴槽にお湯が待っている間にバルコニーに出て、大きく息を吸う。新鮮な空気が彼女の肺を満たした。
 バルコニーからの景色は圧巻だった。庭には子供が水遊びできるほど大きな噴水、綺麗に整えられている植木、美しく咲く花々があった。白い塀の外に目をやれば、豊かな森や整えられた道がある。エヴァはバルコニーの柵に手をついて、うっとりと外を眺めた。

 お湯が溜まり、エヴァはキングレイの当主に会うために来ていた一張羅を脱ぎ、風呂に浸かった。凝り固まった筋肉が、暖かい湯にほぐされていく。エヴァはこの瞬間が大好きだった。


 エヴァは楽なドレスに身を包み、柔らかいマットの上でまどろんでいた。質感の良いシーツを手でなぞり、ふわふわの枕に頭を沈める。エヴァは天国にいる気分だった。
 朝日がエヴァの顔を照らす。エヴァはまどろみから一気に目覚め、飛び起きた。

「嘘、もう朝! 急いで用意しなきゃ!」

 エヴァはベッドの近くにある、メイドを呼ぶ紐を引っ張った。すると少し時間を置いてから、ベスが部屋に入ってきた。

「おはようございます、エヴァ様。お呼びでしょうか?」

 エヴァはドレスを着替え終え、鏡台の前で髪をとかしていた。エヴァはベスの方を振り返り、情けなそうな顔で尋ねた。

「おはよう、ベス。私、すごい寝ちゃってたみたい。もうジョンは起きてらっしゃる?」

 ベスは笑顔で答える。

「エヴァ様はお疲れだったのでしょう。ジョン様がそうおっしゃられていました。ジョン様はもう遠乗りに出かけていますよ」

 それを聞いたエヴァは、がっくりと肩を落とした。エヴァの妄想では、昨日の夕食で仲良くなり、遠乗りに誘ってもらう予定だったが、寝過ごしたせいで上手くいかなかったからだ。

「そう落ち込まないでください、エヴァ様。ジョン様がエヴァ様を好きなだけ寝かしてあげるようにと、私に命じられたのです」

 ベスにそう言われると、エヴァは考え方を変えることにした。彼は私を思いやってくれた、それって彼が気遣いもできる紳士ってことだわ。エヴァはジョンの優しさに感謝した。
 落ち込んだ雰囲気から上機嫌な雰囲気に変わったエヴァに、ベスは尋ねる。

「朝食はこちらにお運びしましょうか?」

 そう聞かれると、エヴァは急にお腹が空いてきた。

「いいえ、朝食室で頂くわ。昨日の昼食が美味しかったから、朝食も楽しみなの。このお屋敷には、素晴らしいシェフがいるのね」

「そうおっしゃって頂けると、彼も喜ぶと思います。今日の朝食も彼の自信作ですよ」

 エヴァが思ったとおり食事は素晴らしかった。こんなに美味しい朝食は初めて食べたと感動しながら、自室に帰ろうとしたとき、ジョンが遠乗りから帰ったとベスに教えられ、玄関に急いだ。

「おはよう、エヴァ。疲れはとれたかい?」

 ジョンはエヴァの姿を見つけると、優しく声をかけた。エヴァが玄関まで迎えに来てくれたことが嬉しかった。

 エヴァはジョンの姿に目を奪われていた。ジョンは真っ白なズボンに藍色の上着を合わせた乗馬服を着ている。上品ながらも雄々しさがある姿を、エヴァはうっとりと眺めた。

「エヴァ?」

 エヴァは名前を呼ばれたことで、我に帰った。彼女は咳払いを一つして、笑顔を浮かべた。

「はい、しっかり休むことができました……ベスから、昨日あなたが気遣ってくれたと聞きました。そのおかげです、ありがとうございます」

 ジョンは爽やかな笑顔で答えた。

「気にしなくていい。君がしっかり休めたなら、よかった」

 ジョンの笑顔の裏腹には、ジョンはエヴァとどんな風に喋ればいいのか、わからないという問題を抱えていた。彼は今まで女性と普通に話すことができた。しかしエヴァと喋るときには、どうも言葉が見つからず少なめになってしまう。大問題だ。

 沈黙が二人を包む。ジョンは言葉を探しているし、エヴァは彼をうっとりと眺めている。
 その膠着状態を破ったのは、クリスだった。

「ジョン様、どうかなされましたか?」

 その言葉で我に帰ったジョンは、思考を巡らせた。彼女と恋のゲームを楽しむことは、危険すぎる。ジョンは戦術的撤退を決めた。

「いや、何でもない。それではエヴァ、また後で。後で君に屋敷を案内させてくれ」

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