結末のわからない恋の物語

出雲沙之介

戒め

数日後

最近は朝顔を合わせても挨拶する程度だった里香ちゃんが、珍しく駆け寄ってきました。

ただ、その駆け寄り方が、なんか変な歩き方をしているような気がします。

わざと変な風におどけているんでしょうか?

「おはようございます店長さん」

「おはようございます。どうしたの?」

それでも、好意を持っているかもと思う女性が、自分の方へ駆けてきてくれるって、なんか嬉しいですね。

顔がにやけているのが自分ではっきりわかります。コントロールは無理そうです。

「足痛めちゃって…」

「え?そうなの?」

なるほど、だから変な歩き方になっていたんですね。

「どうしたらいいですか?」

「どうしたらと言われても、俺もよくわかんないから、友達に整体師いるから聞いとくよ」

「はい、ありがとうございます」

そう言うと、2回振り返りながら手を振って、足の痛そうな変な小走りで、『melt』へ駆けて行きました。

「可愛いなー」

彼女が店内に入ってからも、しばらく『melt』の入り口を眺め、思わずポツリとつぶやいていました。

「店長、おはようございまーす」

「おう!?あ、おはようマリちゃん」

突然、後ろから声をかけられてビックリしてふりかえると、マリちゃんでした。

「どうしたんですか、『melt』の方見てニヤニヤして。正直気持ち悪いですよ」

「いや、何でもないよ」

「そうしといてください」

なんだか今日のマリちゃんは言葉がキツイような気がします。

『あの日』かなと考えてしまうのは、男のイヤラシさでしょうかね。

兎にも角にも、「可愛いなー」が聞かれていなかったようなので良しとしますか。

里香ちゃんの足については、休憩時間にでも友人の整体師にLINEで相談してみようかな。



朝、里香ちゃんに声をかけられた。

たったそれだけで、上機嫌になっている自分に気付きます。

舞い上がってるなーと自分でも思うのですが、意外と仕事の効率もいいような気がして、特に気にもとめていませんでした。

他のスタッフたちには気付かれていないと思いますが、マリちゃんの視線だけはちょっと気を付けていたと思います。

マリちゃんが中で作業している隙に店頭へ出て、里香ちゃんの様子をチラ見しては店内に戻る。

そんなことをしていました。

時々里香ちゃんと目が合うと、こっそり手を振ってくれたり、可愛く小首を傾げるような仕草をしてくれて、それからまた私のテンションは上がって行きます。

休憩時間に知り合いの整体師に里香ちゃんの足については聞いてみると、逆に詳しい状態を聞かれ、何もわからないのでまた里香ちゃんと話せるチャンスを待つことにしました。

うーん、もどかしい。

夕方、里香ちゃんが帰る時間を見計らって、タイミングを合わせようとしていましたが、運悪く私が接客対応中に里香ちゃんが帰ってしまいました。

整体師に伝えることを聞けなかったという自分の中の建前よりも、単純に里香ちゃんに話しかけるチャンスを逃した残念感の方が強いのは、考えるまでもなかったです。

また明日かな。

明日の朝、できたら駐車場で話しかけられたらと考えていました。

里香ちゃんが帰ってからは、なんだかため息ばかりついていた気がします。

マリちゃんの視線も気にならないほどに。



その夜、家に帰ってからです。

ショッピングモールの閉店は23時で、そこから締め作業などをしていると、帰宅は日付けをまたぐことも多いです。

家族はみんな寝ており、私はいつも妻や娘の寝顔を眺めてから寝るのが習慣になっていました。

いつものように軽く食事を済まし、入浴して床に就こうと寝室に入り、開けっ放しの引き戸から隣の部屋の娘たちの寝顔を見て、そして隣で眠る妻の寝顔に視線を移しました。

「ん?」

なんとなく、違和感がありました。

よくわかりません。確かに寝ているのはいつもと変わらぬ妻なのですが……

不意に脳裏を過ぎったのは、里香ちゃんの笑顔でした。

その瞬間、私は気付いてしまいました。

里香ちゃんを好きになっていることに。

その夜は、妻に背中を向けて寝てしまいました。



翌朝、私が起きると妻は家事を済ませ、パートに出かける用意をしています。

娘たちは妻の用意した朝食を食べながら、朝の情報番組の占いや芸能ニュースを見ています。

そんな、毎朝繰り返される何の代わり映えのない我が家の風景に、何だか入ることが出来ませんでした。

「おはよー」

「おは」

「おはよ」

私が挨拶をすると、娘たちは返してくれますが、妻は自分のことに集中しているのか、返事をくれません。

「おーはーよー」

今度は妻に向かって声をかけます。

「ん?ああ、おはよ」

今度は気付いて返事をくれました。

いつもと同じ朝ですが、不意に妻の様子にこれまでと違う感情が芽生えます。

そういえば妻の方から朝の挨拶をしてくれたことがあっただろうか?

昔はあったかもしれないが、最近は覚えがない。

今まで気にしたことがなかってのですが、なんだか妙に気になりました。

私が起きた15分後に、妻は出かけて行きます。

順に娘2人も学校へと行き、最後に私が家を出るのですが

テーブルに残された弁当箱を見て

今度は凄く罪悪感が芽生えてきました。

ふと外を見れば洗濯物が干してあります。

洗面所もトイレも風呂も、私は一人暮らしの経験があるのでよくわかりますが、こんな綺麗な状態をキープするのには、毎日の清掃は欠かせません。

誰がやってくれているのか

そんなことは考えるまでもありません。

妻を裏切ることはできない。

昨夜気付いた自分の感情を、私はなかったことにする努力を決意しました。

しかし、その決意も虚しく

「あ、店長さんおはようございます!!」

やたらハイテンションでウキウキしている里香ちゃんが、朝から元気に挨拶してくれただけで

「おはよー里香ちゃん」

自分の台詞の語尾にハートマークが付くのがはっきりわかりました。

ダメですね。

顔を見てしまうと、声を聞いてしまうと

まるで水道の蛇口を捻るように、簡単に感情が溢れ出てきてしまいます。

今まで錆びついて動かなかった分、緩くなってしまったのか

止めるのがとても難しいです。

「あ、店長さん、私の足なんですけど」

「はいはい」

「ネットで調べたら『足底筋膜炎』?とかいうやつらしいです」

「あ、それ知ってる。俺もなったことあるんだよ」

「え!本当ですか!やったー嬉しいな♪店長さんとお揃いだ♪」

「いやいや、お揃いってwww」

この会話の最中、2人の距離はとても近く、170cmの私と150cmちょうどぐらいの里香ちゃんとだと、絶妙な感じの上目使いになるんですよね。

私、昔から上目使いに物凄く弱くて、このほんの1分程度の時間でも簡単に心が崩されてしまうんです。

「じゃあ、お仕事頑張ってくださいね」

「うん、ありがと。里香ちゃんもね」

互いに手を振り、それぞれの店舗へ入って行きました。

ハッとして辺りを見回し、マリちゃんがいないことを確認しました(笑)



休憩時間、整体師に『足底筋膜炎』について聞いて、アドバイスをもらいました。

というか、私がなった時も彼に見てもらったのですが、数年前なのでどんなアドバイスをしてもらったのか忘れてました。

そして、今朝の里香ちゃんを思い出していました。

明るく元気な笑顔で挨拶をしてくれた里香ちゃん。

テナントが別とはいえ、彼女は新人で私は店長さん。

彼女が私に挨拶をしてくれるのは、社会的にも礼儀に適っていることなので当たり前かもしれませんが

つい、今朝の妻と比較してしまいました。

2度目でやっと気付き、返事をした妻。

新婚時代まで遡らないと、妻の方から「おはよう」と言ってくれた記憶がありません。

普通のご家庭がどんななのかはわかりませんが、私が求めすぎなのでしょうか。

そんな些細なことを比較しては、自分が里香ちゃんに対して抱いてしまった感情を、正当化しようとしていることに、情けなさと罪悪感を感じます。

どうしましょうね、本当。困ったものです。



そんなこんなでまた休みの日が来て、私は堤防のジョギングコースを一人で走っていました。

ここ最近、里香ちゃんとの距離が縮まってきてから、なんだか自分がよく分からなくなっていました。

そんな感情を振り払おうと、いつもより若干ペースが速かったかもしれません。

1kmを過ぎたあたりから右脚のふくらはぎが痛くなり、とてもこの先走りきれる状態じゃなくなってしまいました。

私はびっこを引きながら車まで戻り、なんとか家に帰りました。

確かに、今朝はちょっとストレッチがおろそかだったかもしれませんし、ペースもはやかったかもしれません。

それでも今までジョギングをしてきてこんなことになったことは初めてでした。

とりあえず、救急箱をあさるとテーピングが出てきたので、ネットでテーピングを調べて応急処置をしながら、ふと思いました。

里香ちゃんも足を痛めていました。

私とマラソン大会に出ると決まった2日か3日後です。

これはもしかしたら、イケない恋に落ちそうな私たちに、神様か誰かが戒めとして与えた罰なのではないか

つい、そんな風に考え

会ったこともない里香ちゃんのご主人の顔を、思い浮かべていました。

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