心の砂利を沈める方法
前編
僕の彼女は取り巻く世界に絶望した。
その瞳に浮かぶは濁った黒い瞳。
それに至るに相応の経緯があった。
彼女は決して裕福な家庭ではなかった。
それどころか母親に対する父親のDV、その後の両親の離婚。そして、自分と母のギリギリな生活。
その環境下で彼女の表情はいつも笑顔だった。それは霞むもの無き一輪の花のように。
名は澄花。
僕は元気な彼女を見ると毎度のように笑いながらそう口にしていた。
「君はいつも無邪気に笑ってるね」
「私らしいでしょ!」
それに、澄花はいつも無邪気にそう答えていた。
僕らのデートは基本散歩のみ。
いつもと変わらぬ湖の外周を並んで歩く。
それはもう、穏やかな日々の習慣であった。
しかし、そんな毎日が壊れるのは突然の事であった。
この日も彼女と散歩の約束をしていた僕は、いつもの場所──近所の公園の湖のほとりの外周にある時計下のベンチに腰を下ろしていた。
そこから眺める湖は透明度が高くとても澄んで見えた。
時間は正午。頭上の時計でそれを伝える音が鳴り出す。その音で湖の表面は小さく波紋を作る。
そこで僕は違和感を覚えた。
僕達が散歩の約束をするのは、決まって日曜日の正午である。
しかし、普段はこの音が鳴る前には僕達は肩を並べて歩いていた。
彼女が遅れたことは一度もなかった。
僕は再び、湖に目線を移す。
その光景は数分前とは違い、濁りのある表面を写していた。
そう、まるで澄んでいた何かが濁りを見せ始める前兆を訴えている気がした。
僕はどうしてか不安と焦燥に駆られ、彼女の家へと駆け出す。
走って十五分程で、彼女が暮らす決して綺麗とも言えぬアパートへと辿り着いた。
キシッキシッと音を立てるアパートの階段に嫌悪を感じつつ、上り切ると見えたのは座り込むひとりの少女の姿が目に入る。
座り込んでいた場所は階段上がって三つ奥の扉、彼女の部屋の扉の前であった。
その少女は疑いようもなく澄花──探していた本人であった。
「澄花ッ!?」
僕は彼女の前に走ってしゃがみ込んだ。
肩を揺らして「何があった?」問いかけても、何の反応も示さない。
表情すら見えない彼女。
僕は顔上げさせようと彼女の顎に指をかける。
だが指をかける前に僕は一瞬、躊躇いを覚えた。
思い出すは濁った湖の光景。
澄んだものも何かの拍子で瞬く間に濁る。
湖は、たった数秒の音による波動でそこに沈んだ砂や土が上へと浮かび、透明感を失った。
心の深層には相当に複雑な根を張ったストレスがあったのではないのか、そして今目の前でその根を貼って抑えていた感情がむしり取られたのではないのか。
そういった思考が頭をよぎる。
少し悪い方へと脳が自分の思考を誘導する。
僕は頭を左右に振り、意を決して彼女の顎に指をかけゆっくりと持ち上げた。
それが、視界に入ると動けなくなった。
瞬きも無く、涙を流した跡も無く、ただただ瞳孔が大きく開いた瞳。
それは僕という存在を意ともせず吸い込んでしまうような、先程の湖とは比にならないくらい透明度を失っていた。
          
その瞳に浮かぶは濁った黒い瞳。
それに至るに相応の経緯があった。
彼女は決して裕福な家庭ではなかった。
それどころか母親に対する父親のDV、その後の両親の離婚。そして、自分と母のギリギリな生活。
その環境下で彼女の表情はいつも笑顔だった。それは霞むもの無き一輪の花のように。
名は澄花。
僕は元気な彼女を見ると毎度のように笑いながらそう口にしていた。
「君はいつも無邪気に笑ってるね」
「私らしいでしょ!」
それに、澄花はいつも無邪気にそう答えていた。
僕らのデートは基本散歩のみ。
いつもと変わらぬ湖の外周を並んで歩く。
それはもう、穏やかな日々の習慣であった。
しかし、そんな毎日が壊れるのは突然の事であった。
この日も彼女と散歩の約束をしていた僕は、いつもの場所──近所の公園の湖のほとりの外周にある時計下のベンチに腰を下ろしていた。
そこから眺める湖は透明度が高くとても澄んで見えた。
時間は正午。頭上の時計でそれを伝える音が鳴り出す。その音で湖の表面は小さく波紋を作る。
そこで僕は違和感を覚えた。
僕達が散歩の約束をするのは、決まって日曜日の正午である。
しかし、普段はこの音が鳴る前には僕達は肩を並べて歩いていた。
彼女が遅れたことは一度もなかった。
僕は再び、湖に目線を移す。
その光景は数分前とは違い、濁りのある表面を写していた。
そう、まるで澄んでいた何かが濁りを見せ始める前兆を訴えている気がした。
僕はどうしてか不安と焦燥に駆られ、彼女の家へと駆け出す。
走って十五分程で、彼女が暮らす決して綺麗とも言えぬアパートへと辿り着いた。
キシッキシッと音を立てるアパートの階段に嫌悪を感じつつ、上り切ると見えたのは座り込むひとりの少女の姿が目に入る。
座り込んでいた場所は階段上がって三つ奥の扉、彼女の部屋の扉の前であった。
その少女は疑いようもなく澄花──探していた本人であった。
「澄花ッ!?」
僕は彼女の前に走ってしゃがみ込んだ。
肩を揺らして「何があった?」問いかけても、何の反応も示さない。
表情すら見えない彼女。
僕は顔上げさせようと彼女の顎に指をかける。
だが指をかける前に僕は一瞬、躊躇いを覚えた。
思い出すは濁った湖の光景。
澄んだものも何かの拍子で瞬く間に濁る。
湖は、たった数秒の音による波動でそこに沈んだ砂や土が上へと浮かび、透明感を失った。
心の深層には相当に複雑な根を張ったストレスがあったのではないのか、そして今目の前でその根を貼って抑えていた感情がむしり取られたのではないのか。
そういった思考が頭をよぎる。
少し悪い方へと脳が自分の思考を誘導する。
僕は頭を左右に振り、意を決して彼女の顎に指をかけゆっくりと持ち上げた。
それが、視界に入ると動けなくなった。
瞬きも無く、涙を流した跡も無く、ただただ瞳孔が大きく開いた瞳。
それは僕という存在を意ともせず吸い込んでしまうような、先程の湖とは比にならないくらい透明度を失っていた。
          
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