TRICOLORE総務部ヒロインズ!〜もしも明日、会社が消滅するとしたら?!~
3-1 恋愛情報漏洩問題?!
営業部に用意された巨大なオープンスペースは色々な部署が集まってくる会社内のビジネススポットだ。
例えば、中央の一番大きなスペースには、飲み会に絶対参加しないIT管理部の竹林次長と、営業部有志の営業が多分顧客システム会議中。その奥には、怒られながらPCを叩いている営業部隊(モブ過ぎて覚えていません)と、呆れ顔のベテラン営業の鷲見さん。更に奥では国際営業部と秘書の山崎主任、それに経理部の細居副主任と顧問。多分社長ウイングさまの出張費のお話の最中。
――で。
すみっこに鈴子と、安藤が憮然と座っているわけで。
「……リンゴ、さっさと終わらせよう。ちなみに、俺はPMSは全く知らないので、イニシアチブは譲る」
安藤は超仏頂面をしたかと思うと、思わぬところで、くくっと一人で笑ったりする。その笑顔はふわっとして可愛い。しかし、タイプではない。
鈴子は(早く終わらせるに限る)と営業部用のフローチャートを机に広げた。あまりに行程が多いので、A3用紙を貼り付けて拡大してある。
さっそく安藤が興味を示した。
「これ、リンゴがやったの?」
「お局主任と一緒にだけどね! でね、営業部の個人情報の受け渡しって、突然廃棄になるんだけど、保管義務の書類が足りないし、《個人情報一覧表》も帳尻が合ってない。じゅんじゅん、そこ何とかしなよ!」
安藤はふわあ、と欠伸をしてみせる。鈴子の頬がリンゴのように赤くなった。
「あのさあ。始まって5分も経ってないんだけど!」
「いや、元気だなって。――クス」
(あ、無表情で笑われた)重ねて言うが、安藤の笑うポイントは未だに判らない。これが尾城林だと、すぐに判る。朗らかさの種類が違うのだろうと思うが、もっと、こう……。
「佐々木主任あたりに相談してみるかな。俺じゃやれることの限度があるし」
「あたしもそうだよ。でも、この仕事はやり遂げたい」
――やり遂げる。ちょっと、あたし、格好いいぞ? と思って台詞に自画自賛していると、安藤の爆撃に遭った。
「リンゴさあ、尾城林ラブだろ」
べしゃ。フレッシュな新入社員は反射神経も大変宜しい。鈴子はフローチャートの上に倒れ込んで思わず叫んだ。
「なんであたしの超! 超! 恋の個人情報洩れてんの――っ!」
「聞こえてきたんだよ」
「だから、どこで!」
安藤は「あー……」と口元を隠して目線を逸らせた。鈴子は確かに課長ラブだが、それは総務部内に止めている。雪乃のような「ぽわわん」なタイプでもないし、海空のような「ついてこい!」タイプでもない。
それに、人間関係を巧くやるなら、弱味は隠せ。敵を欺くには味方から。
(主任たちかな……でも、安藤と接点ないし。だいたい、「ウチの鈴子ってば課長ラブなのよぉ」なんて噂はしない気がする)
――と、すると課長? 恋の個人情報のフローチャートを思い浮かべるが、さっぱりである。恐るべし、羽山カンパニー。
「どうなんだ」よ、と恐らく鈴子に聞こうとしたのだろうが、安藤は背後の気配に気付いて、会話を止めた。
「お待たせ」とはもう一名のPMS委員、IT管理部の早乙女光奈。鈴子には同期が7人いるが、二人消えた。今回はフレッシャーズ三名でのPMSの資料会議である。
「ごめんね。ウチのサボり次長が来るまで待ってたら」と眼鏡の早乙女は中央のテーブルに座っているモサモサ頭の竹林を軽く睨んだ。
「あそこにちゃっかりいるし」
社内で「あられちゃん」と呼ばれる所以の黒丸眼鏡を押し上げて、サラサラの髪をきゅっと縛る。
「でも、あたしPMSってナニ?って段階だけど。次長が新入社員の仕事だーって言うから頷いちゃって」
(こっちもか!)鈴子はたちまち頭痛が起こった気になった。しかし、母が頑丈に産み落としたので、風邪には無縁である。
雨だろうが、雪だろうが、いつでも元気。元気だけが取り柄の、新入社員の筆頭だ。
「この会社ってさ、なんでも「勉強だから」って新入社員に押しつけるんだよな。営業先でもさ、困ってて」
「あ、わかるう! そうそう。教わってもいないのにさー、「教えたよね」って嘘つくの! 知りませんよって言うと、いやーな顔すんのよ。マシンガンがあったら、あいつ撃ってるわ」
安藤と早乙女のたちまち愚痴会議を聞きながら、鈴子は(あたしは違うなー)と海空を思い浮かべた。海空はぎりぎりまで助けないで、どこが出来ないのかを判らせてから、ポイントを絞る。その際に、何度聞いても怒らない。
(いい上司、なのかな……佐東主任)
「このあいだもねー、停電あったじゃんー? アレの時のデータが壊れてないか、調べろとかー」早乙女の愚痴は続いている。まずい! と鈴子は海空がやるように机をばしこん、と叩いた。
「愚痴大会じゃないから! これ、さっさと仕上げてよ。営業部もITも組織図用意して欲しいんだけど」
「お局そっくり」と安藤の悪気のない一言に「だからナニか?」と言い返してやった。
「でも、嬉しいよね」とは早乙女。「出来るかもって任されるの、嬉しいよね。さっさとやっつけて、ご飯いこ、三人で。安藤、外回り?」
「いや、今日は事務と電話番」
「リンゴは?」と聞かれて、鈴子は困惑して「んーっと」と誤魔化した。友達とのご飯は大切だが、実は今日は尾城林との待ちに待ったランチの予定が入っている。
他の上司にご飯を強請っていたら、尾城林にクレームが来たらしいが、最終的に大物が釣れたので、それはヨシとして。
しかし、これからPMSのプロジェクトをやるメンバーなのに、初日からお断りはしにくい。ましてやこの会社は、新入社員の交流を後押ししているフシもあり、安藤と早乙女は一緒に研修や、ごはん、体験学習、外回り同行、と全部署の研修期間2ヶ月を過ごした仲間だ。今後会社を生きるのに、必要なお友達ネットワーク。恋か、友人か。鈴子は迷いに迷って、頭をひねって、結論を出した。
「うん、一緒に行くよ! 総務部に寄ってくれる? 主任たちに言わなきゃ」
安藤が、また「クス」と眉を下げて笑った。なんなんだ、一体。
鈴子は「ともかく!」と仕切屋の顔を出して、机を立ち上がった。「営業部は事務が駄目だって佐東主任が激オコになるから、ちゃんとやって」
じろ。四方八方から視線を投げられて、三人はそそっと固まって机に伏せた。
(リンゴちゃん、ここ営業部だってば。営業部で営業部の悪口言っちゃだめ)
(りょ。……ごはんどこ行こうかね)
ひそひそ声で会話を交わしたところで、ざわっと営業部全体がざわめいた。
(なに?)と思うと、尾城林の姿が見えた。尾城林は「おー、いたいた」と鈴子に片手を挙げた。
――異様な雰囲気が漂い始める。営業たちは尾城林に視線を向けないように椅子の位置を変えているのだ。
その光景は、新入社員には余りにも異世界で、奇妙で、理解ができないものだった。苛めとも言えない、差別とも言えない。オトナならではの防護壁とでも言おうか。
(なに……? この、雰囲気……)
全員の目が浮かび上がって吸い付いて、尾城林を見張っているように見える。
よく見る万引き防止の監視ポスター《ダレか見てるゾ》そう、あんな感じだ。
ぶるっと震えた鈴子に気付いて、安藤もまた声を潜めた。
(営業部では尾城林課長の話題はタブーなんだよ。リンゴ。用事があるなら、行けばいい。早くこの場所から引き出したほうがいいんじゃないか)
(うん……ねえ、じゅんじゅん、何があったんさ?)
(聞いてるけど、あまり良く知らなくて)
――営業部からの異動だと聞いている。鈴子はごくりとツバを飲み下した。
明かに違う。尾城林課長を見る営業の目は、ジャングルの中に潜む野生動物の目だった。
あまりに目が恐くて、尾城林がランチをどこかに決めたと言った時でさえ、鈴子は聞き逃していた――。
***
「おい、鈴子。俺の話聞いてる?」
駅前の京都所縁の老舗の蕎麦屋。旅籠をモチーフにした店内は、ずっと階段を降りて、個室の造である。蕎麦屋で鈴子は顔を上げた。
「おまえがあっちこっちの重役やら上司やらにご飯強請るから、俺にクレームが来たって話。まあ、判らないでもないけどな……」
尾城林は優しい。鈴子の履歴書と面接の家族確認の話を覚えているのだろう。鈴子には父親がいない。小さい頃に父は母と別れ、顔も覚えてはいない。しかし母は一生懸命育ててくれた。一流の羽山カンパニーに入ることで、母には恩返しが出来た。
「親父の愛に飢えて、エンコーなんかやられちゃたまんねーし。ほら、ざるそばでいいんだろ」
――無意識にざるそばを頼んだらしい。全く覚えがない。それほど営業の尾城林を見る目は恐かった。数字の争いの世界だ。色々な確執があるのだろうけど。
鈴子は頭を振って、両手で頬をパン! と叩いた。
(あたしらしくない。明るい話題、こういうときは、佐東主任!)
「何がよ」と脳裏で海空が不満げに鼻をならすが、お構いなしに割り箸を割る。
「いっただっきまーす! ごちになります!」
「おう」と尾城林が嬉しそうに頷いて見せたので、蕎麦を噴きそうになった。上目使いで改めて捕獲した大物を観察してみた。大きい手、ごつごつした喉、清潔そうな襟元。切れ長の意志の強そうな眼。
『おー、鴻B型かぁ。決定』
信じられないほど明るく言い放った唇……から飛び出た蕎麦が揺れた。
「おい、鈴子。凝視すんじゃねえ。蕎麦が食えないだろが」
「なんっであたしがかちょおを好きなのバレてんのかなぁって」
ぶうぅっ。お茶を噴いて、尾城林は「なぬ?」と口元を拭き、「そりゃ、スピーカーがいるからな」と遠い目をした。
「スピーカー?」「お局と篠山がな……五階の用事を済ませた後、エレベーターを使わずに階段で下りたらしくて。その時に、ずーっと噂話をしていたらしい」
「――は?!」
「要するにだ。歩きながら、『えーっ? あの鈴子がぁ?! マジなんですか!』と篠山が声を上げて、お局が『ここだけの話だけどね』と声を潜めたが、あいつの声全然小さくなかったらしい。ここだけの話、朗々と響いてたってよ。俺な、経理部に聞かれたよ。監査室に目をつけられますよって。コンプライアンス査定にかけられるって」
聞いた途端、お腹の横隔膜がひくひくと動き始めた。
――PMS個人情報保護はしっかり教えるくせに! あたしの恋の個人情報も保護してよーっ!
「あいつらには言っておくが、五階から、一階までずーっとくっちゃべってて。大半が俺の悪口と、鈴子の話だったらしくてな」
ぱくぱくと口が塞がらない前で、尾城林は「年を食うと、オンナは噂好きのオバチャン」と海空が聞けばガムテープが箱ごと降って来そうな悪態をついた。
「そっか、それで……じゅんじゅんも知ってたんだ」
「鈴子」
(なぁんか、納得)と些末ではあったが、事実がすとんと胸に落ちた。(さあ、おそば)と蕎麦と一緒に啜っていると、尾城林が鋭い眼を向けてきた。
「おまえ、営業のフレッシュマンに告られたんか。やるなぁ、新入社員」
蕎麦の上に突っ伏しそうになった。
――だーから! あたしの恋の個人情報保護はどこ行ったんだよっ!
「あたしは課長が好きなんだってば」
「幻想だよ」課長はにっこり笑った。「親父を知らないから、俺を重ねてるってこと。ま、おまえに許された特権かもな」
――そうなのだろうか。鈴子は聞き出したかったが、元営業に適うような話術スキルはなく、諦めるしかなかった。
***
(疲れた。めっさ疲れた)
よろよろと会社に戻って、尾城林は「じゃ」と総務部に帰っていき、鈴子はまた営業部に向かったが、ワイワイしていた営業の姿は減っていて、端っこで安藤が組織図を広げていた。
(うっ)と思いつつも、「光奈さんは?」と聞いてみる。
「早乙女は次長を追いかけてってそのまんま」と安藤は持ち前の素っ気なさで答え、組織図と人事構成表を見比べていた。営業部は人数が多い。誰がなんの個人情報を持っているかだけでも一苦労だ。
「手伝うよ」と椅子を引いた途端、安藤の腕が伸びた。
――ダン。鈴子は(え~~~……?)と肩を落とす。古。壁ドン、古!
「あのさぁ」
「俺のこと、嫌い?」じっと見詰めると、安藤は「返事」と聞いてきた。
(なんで営業部の端っこで壁ドンで迫られているんだろうあたしは。ここ、会社じゃなかったかな……)
げっそりして、鈴子は「きらいじゃないから!」と言い張った。
「そんならいいや。PMSやるべ」と安藤の腕が引いた。
――なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ! みんなして新入社員の個人情報なんだと思ってる!
三時間を会議と書類確認に費やして、終業ギリギリで総務部に戻れば、今度は海空が怒りの形相でPCを叩いていた。
(なんか今日、疲れました)
「もーどーりーまーしーたー」
海空は「おかえり!」と手短に告げて、またPCと取っ組み合い始める。
「なんて杜撰な書類なんだと、Wordで作り直してたら,結構大変で! これ、残業しないと終わらなくて焦ってる。今日はホットケーキ食べるのに! ふわっふわの」
「……それ、やりましょか」
「えっ? あ、助かるけど、あんたインデント出来る? じゃあ、たたき台だけでいいから。あたし、六ピタ(六時丁度に上がること)で定時ダッシュ。あ、尾城林は直帰した。雪乃は今日は半日有給よ」
――はいはい、どうぞ。みんな好きに散ってください。
「じゃあ、頼むわね。うふ、わんころのケーキケーキ」と海空はイソイソルンルンと上がって行き……。
静寂の漂う総務部で。
……なんか色々めんどくせ……と、一日の知恵熱か、頭から湯気だした鈴子はノートパソコンの上に伸びたのだった――。
例えば、中央の一番大きなスペースには、飲み会に絶対参加しないIT管理部の竹林次長と、営業部有志の営業が多分顧客システム会議中。その奥には、怒られながらPCを叩いている営業部隊(モブ過ぎて覚えていません)と、呆れ顔のベテラン営業の鷲見さん。更に奥では国際営業部と秘書の山崎主任、それに経理部の細居副主任と顧問。多分社長ウイングさまの出張費のお話の最中。
――で。
すみっこに鈴子と、安藤が憮然と座っているわけで。
「……リンゴ、さっさと終わらせよう。ちなみに、俺はPMSは全く知らないので、イニシアチブは譲る」
安藤は超仏頂面をしたかと思うと、思わぬところで、くくっと一人で笑ったりする。その笑顔はふわっとして可愛い。しかし、タイプではない。
鈴子は(早く終わらせるに限る)と営業部用のフローチャートを机に広げた。あまりに行程が多いので、A3用紙を貼り付けて拡大してある。
さっそく安藤が興味を示した。
「これ、リンゴがやったの?」
「お局主任と一緒にだけどね! でね、営業部の個人情報の受け渡しって、突然廃棄になるんだけど、保管義務の書類が足りないし、《個人情報一覧表》も帳尻が合ってない。じゅんじゅん、そこ何とかしなよ!」
安藤はふわあ、と欠伸をしてみせる。鈴子の頬がリンゴのように赤くなった。
「あのさあ。始まって5分も経ってないんだけど!」
「いや、元気だなって。――クス」
(あ、無表情で笑われた)重ねて言うが、安藤の笑うポイントは未だに判らない。これが尾城林だと、すぐに判る。朗らかさの種類が違うのだろうと思うが、もっと、こう……。
「佐々木主任あたりに相談してみるかな。俺じゃやれることの限度があるし」
「あたしもそうだよ。でも、この仕事はやり遂げたい」
――やり遂げる。ちょっと、あたし、格好いいぞ? と思って台詞に自画自賛していると、安藤の爆撃に遭った。
「リンゴさあ、尾城林ラブだろ」
べしゃ。フレッシュな新入社員は反射神経も大変宜しい。鈴子はフローチャートの上に倒れ込んで思わず叫んだ。
「なんであたしの超! 超! 恋の個人情報洩れてんの――っ!」
「聞こえてきたんだよ」
「だから、どこで!」
安藤は「あー……」と口元を隠して目線を逸らせた。鈴子は確かに課長ラブだが、それは総務部内に止めている。雪乃のような「ぽわわん」なタイプでもないし、海空のような「ついてこい!」タイプでもない。
それに、人間関係を巧くやるなら、弱味は隠せ。敵を欺くには味方から。
(主任たちかな……でも、安藤と接点ないし。だいたい、「ウチの鈴子ってば課長ラブなのよぉ」なんて噂はしない気がする)
――と、すると課長? 恋の個人情報のフローチャートを思い浮かべるが、さっぱりである。恐るべし、羽山カンパニー。
「どうなんだ」よ、と恐らく鈴子に聞こうとしたのだろうが、安藤は背後の気配に気付いて、会話を止めた。
「お待たせ」とはもう一名のPMS委員、IT管理部の早乙女光奈。鈴子には同期が7人いるが、二人消えた。今回はフレッシャーズ三名でのPMSの資料会議である。
「ごめんね。ウチのサボり次長が来るまで待ってたら」と眼鏡の早乙女は中央のテーブルに座っているモサモサ頭の竹林を軽く睨んだ。
「あそこにちゃっかりいるし」
社内で「あられちゃん」と呼ばれる所以の黒丸眼鏡を押し上げて、サラサラの髪をきゅっと縛る。
「でも、あたしPMSってナニ?って段階だけど。次長が新入社員の仕事だーって言うから頷いちゃって」
(こっちもか!)鈴子はたちまち頭痛が起こった気になった。しかし、母が頑丈に産み落としたので、風邪には無縁である。
雨だろうが、雪だろうが、いつでも元気。元気だけが取り柄の、新入社員の筆頭だ。
「この会社ってさ、なんでも「勉強だから」って新入社員に押しつけるんだよな。営業先でもさ、困ってて」
「あ、わかるう! そうそう。教わってもいないのにさー、「教えたよね」って嘘つくの! 知りませんよって言うと、いやーな顔すんのよ。マシンガンがあったら、あいつ撃ってるわ」
安藤と早乙女のたちまち愚痴会議を聞きながら、鈴子は(あたしは違うなー)と海空を思い浮かべた。海空はぎりぎりまで助けないで、どこが出来ないのかを判らせてから、ポイントを絞る。その際に、何度聞いても怒らない。
(いい上司、なのかな……佐東主任)
「このあいだもねー、停電あったじゃんー? アレの時のデータが壊れてないか、調べろとかー」早乙女の愚痴は続いている。まずい! と鈴子は海空がやるように机をばしこん、と叩いた。
「愚痴大会じゃないから! これ、さっさと仕上げてよ。営業部もITも組織図用意して欲しいんだけど」
「お局そっくり」と安藤の悪気のない一言に「だからナニか?」と言い返してやった。
「でも、嬉しいよね」とは早乙女。「出来るかもって任されるの、嬉しいよね。さっさとやっつけて、ご飯いこ、三人で。安藤、外回り?」
「いや、今日は事務と電話番」
「リンゴは?」と聞かれて、鈴子は困惑して「んーっと」と誤魔化した。友達とのご飯は大切だが、実は今日は尾城林との待ちに待ったランチの予定が入っている。
他の上司にご飯を強請っていたら、尾城林にクレームが来たらしいが、最終的に大物が釣れたので、それはヨシとして。
しかし、これからPMSのプロジェクトをやるメンバーなのに、初日からお断りはしにくい。ましてやこの会社は、新入社員の交流を後押ししているフシもあり、安藤と早乙女は一緒に研修や、ごはん、体験学習、外回り同行、と全部署の研修期間2ヶ月を過ごした仲間だ。今後会社を生きるのに、必要なお友達ネットワーク。恋か、友人か。鈴子は迷いに迷って、頭をひねって、結論を出した。
「うん、一緒に行くよ! 総務部に寄ってくれる? 主任たちに言わなきゃ」
安藤が、また「クス」と眉を下げて笑った。なんなんだ、一体。
鈴子は「ともかく!」と仕切屋の顔を出して、机を立ち上がった。「営業部は事務が駄目だって佐東主任が激オコになるから、ちゃんとやって」
じろ。四方八方から視線を投げられて、三人はそそっと固まって机に伏せた。
(リンゴちゃん、ここ営業部だってば。営業部で営業部の悪口言っちゃだめ)
(りょ。……ごはんどこ行こうかね)
ひそひそ声で会話を交わしたところで、ざわっと営業部全体がざわめいた。
(なに?)と思うと、尾城林の姿が見えた。尾城林は「おー、いたいた」と鈴子に片手を挙げた。
――異様な雰囲気が漂い始める。営業たちは尾城林に視線を向けないように椅子の位置を変えているのだ。
その光景は、新入社員には余りにも異世界で、奇妙で、理解ができないものだった。苛めとも言えない、差別とも言えない。オトナならではの防護壁とでも言おうか。
(なに……? この、雰囲気……)
全員の目が浮かび上がって吸い付いて、尾城林を見張っているように見える。
よく見る万引き防止の監視ポスター《ダレか見てるゾ》そう、あんな感じだ。
ぶるっと震えた鈴子に気付いて、安藤もまた声を潜めた。
(営業部では尾城林課長の話題はタブーなんだよ。リンゴ。用事があるなら、行けばいい。早くこの場所から引き出したほうがいいんじゃないか)
(うん……ねえ、じゅんじゅん、何があったんさ?)
(聞いてるけど、あまり良く知らなくて)
――営業部からの異動だと聞いている。鈴子はごくりとツバを飲み下した。
明かに違う。尾城林課長を見る営業の目は、ジャングルの中に潜む野生動物の目だった。
あまりに目が恐くて、尾城林がランチをどこかに決めたと言った時でさえ、鈴子は聞き逃していた――。
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「おい、鈴子。俺の話聞いてる?」
駅前の京都所縁の老舗の蕎麦屋。旅籠をモチーフにした店内は、ずっと階段を降りて、個室の造である。蕎麦屋で鈴子は顔を上げた。
「おまえがあっちこっちの重役やら上司やらにご飯強請るから、俺にクレームが来たって話。まあ、判らないでもないけどな……」
尾城林は優しい。鈴子の履歴書と面接の家族確認の話を覚えているのだろう。鈴子には父親がいない。小さい頃に父は母と別れ、顔も覚えてはいない。しかし母は一生懸命育ててくれた。一流の羽山カンパニーに入ることで、母には恩返しが出来た。
「親父の愛に飢えて、エンコーなんかやられちゃたまんねーし。ほら、ざるそばでいいんだろ」
――無意識にざるそばを頼んだらしい。全く覚えがない。それほど営業の尾城林を見る目は恐かった。数字の争いの世界だ。色々な確執があるのだろうけど。
鈴子は頭を振って、両手で頬をパン! と叩いた。
(あたしらしくない。明るい話題、こういうときは、佐東主任!)
「何がよ」と脳裏で海空が不満げに鼻をならすが、お構いなしに割り箸を割る。
「いっただっきまーす! ごちになります!」
「おう」と尾城林が嬉しそうに頷いて見せたので、蕎麦を噴きそうになった。上目使いで改めて捕獲した大物を観察してみた。大きい手、ごつごつした喉、清潔そうな襟元。切れ長の意志の強そうな眼。
『おー、鴻B型かぁ。決定』
信じられないほど明るく言い放った唇……から飛び出た蕎麦が揺れた。
「おい、鈴子。凝視すんじゃねえ。蕎麦が食えないだろが」
「なんっであたしがかちょおを好きなのバレてんのかなぁって」
ぶうぅっ。お茶を噴いて、尾城林は「なぬ?」と口元を拭き、「そりゃ、スピーカーがいるからな」と遠い目をした。
「スピーカー?」「お局と篠山がな……五階の用事を済ませた後、エレベーターを使わずに階段で下りたらしくて。その時に、ずーっと噂話をしていたらしい」
「――は?!」
「要するにだ。歩きながら、『えーっ? あの鈴子がぁ?! マジなんですか!』と篠山が声を上げて、お局が『ここだけの話だけどね』と声を潜めたが、あいつの声全然小さくなかったらしい。ここだけの話、朗々と響いてたってよ。俺な、経理部に聞かれたよ。監査室に目をつけられますよって。コンプライアンス査定にかけられるって」
聞いた途端、お腹の横隔膜がひくひくと動き始めた。
――PMS個人情報保護はしっかり教えるくせに! あたしの恋の個人情報も保護してよーっ!
「あいつらには言っておくが、五階から、一階までずーっとくっちゃべってて。大半が俺の悪口と、鈴子の話だったらしくてな」
ぱくぱくと口が塞がらない前で、尾城林は「年を食うと、オンナは噂好きのオバチャン」と海空が聞けばガムテープが箱ごと降って来そうな悪態をついた。
「そっか、それで……じゅんじゅんも知ってたんだ」
「鈴子」
(なぁんか、納得)と些末ではあったが、事実がすとんと胸に落ちた。(さあ、おそば)と蕎麦と一緒に啜っていると、尾城林が鋭い眼を向けてきた。
「おまえ、営業のフレッシュマンに告られたんか。やるなぁ、新入社員」
蕎麦の上に突っ伏しそうになった。
――だーから! あたしの恋の個人情報保護はどこ行ったんだよっ!
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よろよろと会社に戻って、尾城林は「じゃ」と総務部に帰っていき、鈴子はまた営業部に向かったが、ワイワイしていた営業の姿は減っていて、端っこで安藤が組織図を広げていた。
(うっ)と思いつつも、「光奈さんは?」と聞いてみる。
「早乙女は次長を追いかけてってそのまんま」と安藤は持ち前の素っ気なさで答え、組織図と人事構成表を見比べていた。営業部は人数が多い。誰がなんの個人情報を持っているかだけでも一苦労だ。
「手伝うよ」と椅子を引いた途端、安藤の腕が伸びた。
――ダン。鈴子は(え~~~……?)と肩を落とす。古。壁ドン、古!
「あのさぁ」
「俺のこと、嫌い?」じっと見詰めると、安藤は「返事」と聞いてきた。
(なんで営業部の端っこで壁ドンで迫られているんだろうあたしは。ここ、会社じゃなかったかな……)
げっそりして、鈴子は「きらいじゃないから!」と言い張った。
「そんならいいや。PMSやるべ」と安藤の腕が引いた。
――なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ! みんなして新入社員の個人情報なんだと思ってる!
三時間を会議と書類確認に費やして、終業ギリギリで総務部に戻れば、今度は海空が怒りの形相でPCを叩いていた。
(なんか今日、疲れました)
「もーどーりーまーしーたー」
海空は「おかえり!」と手短に告げて、またPCと取っ組み合い始める。
「なんて杜撰な書類なんだと、Wordで作り直してたら,結構大変で! これ、残業しないと終わらなくて焦ってる。今日はホットケーキ食べるのに! ふわっふわの」
「……それ、やりましょか」
「えっ? あ、助かるけど、あんたインデント出来る? じゃあ、たたき台だけでいいから。あたし、六ピタ(六時丁度に上がること)で定時ダッシュ。あ、尾城林は直帰した。雪乃は今日は半日有給よ」
――はいはい、どうぞ。みんな好きに散ってください。
「じゃあ、頼むわね。うふ、わんころのケーキケーキ」と海空はイソイソルンルンと上がって行き……。
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