TRICOLORE総務部ヒロインズ!〜もしも明日、会社が消滅するとしたら?!~

簗瀬 美梨架

【2-3】トリコロールに必要なんです

 ――ヤンデレ。病むほどデレること。何故かそんな言葉を思い浮かべながら、雪乃は眼の前の変貌した寿山に視線を投げ入れた。
「あは、恐い目。なぁにから、話そっかなあ~」と寿山はヒールを鳴らしながら口元を指で押さえて見せた。

「仕事だけ教えてください。あたし、総務部」
「秘書になりたいんだっけ~? おまえって」

(おまえ?)と怪訝に眉を下げたところで、寿山はキュ、と蛇口のコックを捻った。勢いよく水が出る。羨ましい。総務部の近くのトイレの水の出はあまり良くないし、お局海空の殴り書きで「節水!」と張り紙がしてあるのに。
 見れば、このフロアの化粧室は、パウダールームのような大きな鏡に、壁一面のタイルは柔らかいパープルで、化粧台やハンドクリームも置いてある。
 まるで待遇が違うじゃない――。

「そこの石鹸、お土産にどうぞぉ。出張先の海外のアメニティグッズが溜まっちゃってえ」

 クスス……と寿山は笑い、「あれえ?」とまた雪乃を覗き込んだ。

「もしかして、一重? ねえ、目、きっついよね。もしかして、細い?」

 目は雪乃の最大のコンプレックスだ。雪乃はカッ、と目を吊り上げた。元々刺々しい目をしているので、パウダーブローで誤魔化して、アイライナーも無理してでも高い「MICS・FACTOR」製品を使っている。それだけではまだとげとげしいので、美容部員さんに相談して、パールホワイトの二段重ね。眉は仕方なくアーチにして。
 細い眼は最悪だ。写真写りを考えると、アイラインを7ミリの太さで、粘膜まで描いてやっと普通。立体感を出すために……。

「ファンデも、粉吹いてるよ? 粉ふきいもみたいに見えるけど。そうそう、白ってなあにもないんだって。白の色って、神経質であたし嫌いなんだよねー。青と赤とは違う。なあんにもないの」

 雪乃は本能で察した。ここに来るべきではなかった。寿山に劣等感を植え付けられて、動けなくなる前に逃げないと、足元にいつかの化け物が忍び寄ってくる。
 それは、メイクが上達しても、呑み込んでやろうと足元で待ち構えている、雪乃の顔をした化け物だ。

「秘書って大変なんだけど、まずは身なりなんだよね。そうだ! 空港に行くし、指輪嵌めちゃおうかな」

 ――もう、逃げたい。しかし、雪乃の顔の化け物は目までを出して、雪乃の足首に取り憑いている。逃げるなと囁く化け物だ。逃げれば負けだと縛り付けてくる自戒の化け物。いつだって、この化け物と一緒にやって来た。
 しかし、雪乃の前に翳された寿山のリングに息を飲んだ。全く同じ指輪を寿山もまた嵌めていたのである。

「それ……」
「雪乃さんのが素敵だったからぁ、お・ね・だ・り? したの。鷺原に。すぐに買ってくれたよお? 桃加さんの希望ならって。聞いてるでしょ? 鷺原眞守さんの素性。だって、付き合ってるんだもんねえ?」

 ――今に痛いメに遭うわよ。海空の言葉が急激に雪乃の中に響き渡った。

これが痛いメなんて認めない。篠山雪乃は弱くない! あたしは強い、あたしは強い!

〝白って、なあんにもないの〟

 寿山の言葉のナイフは雪乃の弱った心を一点集中で振りかざした。

「え? 知らないんだあ? ねえ、雪乃さあん」

 寿山は流したままの蛇口に手を当てて、指で水を押しつぶした。忽ち水飛沫が雪乃を襲う。指で潰された水は、寿山の指先の角度で、雪乃の顔に襲いかかる凶器になった。

「やめて! 化粧落ちちゃう!」
「メイク下手だからぁ、落としてあげようと思って。あーあ。半分崩れちゃった」

 今度は床に落ちていた雑巾を足で蹴り上げて「拭いてあ・げ・る」と近寄って来る。雑巾の雑菌と、生乾きの臭い、床の埃の臭いが雪乃に迫った。

「や、いや……」
 ――と、その時。寿山は雪乃の手を持ち上げ、指輪を指で引き抜いた。指で「本物かあ」と呟きながら、個室に入り込んだ。
(え?)
 まさか、だよね?
「ちょっと、返して!」ドアに縋るも遅く。カラララン……。指輪が落とされる音。続いて、無慈悲な水の流れる音が響き。

(流され……ちゃった……?)

 汚れているであろうトイレの床に座り込んだ雪乃の前を「あー、すっきりしたあ。あたし、あたしと同じモノってだあーっいきらい」軽快な甘え声に戻った寿山が嬉しそうに個室のドアを押し開け、仁王立ちで止まった。

 背中はとても強く、女性としての意地に染まっていた。横顔を僅かに見せる角度で、寿山は唇を噛んでいた。

「ねえ、あたしの友達のパパってある会社の社長なの。家の中、冷え切っててさあ、お金に苦労はしなかったみたい。そいつは言ってた。『お金より、パパとママがいたほうがいい。それなら、裸電球の部屋でもいい』からって」

 無言の雪乃に振り返って、しゃがみ込むと、寿山は膝を抱えて雪乃を覗き込む。

「……あたしはさ、高校に行けなくて、水商売の世界から、ここに来た。ガンガン巻き上げて楽しかった。どんなことでもやったよ。あんたは、あたしとは違って、普通のお嬢様。ねえ、ヌルいお嬢様がさ、針だらけでも生きて来たこの害虫のあたしに勝てる? あたしの両親は、その友達の親から無心してた。みっともないよねえ。そんで、しょっちゅうあたしを家から追いだしたの。ごはんなんかなかったよ」

 寿山の話なんか聞きたくないのに、耳を塞げない。両手を床につけてしまって、力が入らない。

 寿山は「ちょうどいい腰掛け」と雪乃の上に座ると、足を伸ばした。

「みんな優しかったなあ。ふふふ、給食の時とか、みーんな「お恵み」くださって……反吐が出るほどな。だから、あたしは誓ったんだ。あんたのようなお嬢には負けない。どんな手を使っても、欲しいモノは奪う。刃向かってくるなら叩き潰す。あんたに秘書になられたら、勝ち目ないじゃん。絶対にこの地位は渡さない」

《《 あんたに秘書になられたら、勝ち目ないじゃん。》》
 雪乃が顔を上げると、寿山は「あ、ようやく興味示した! 嬉しい!」と白々しい口調を続けながら、肩を揺すって笑った。雪乃は惨めさと、悲しさ、恐怖でやっと言葉を押し出せる心境だった。
 バカでも気付く。秘書課の異動の度の絶望は誰が仕組んでいたのか。寿山だ。秘書課が敵じゃない。寿山だけが、雪乃の敵なのだと。

「どうして……あんたは、全部持ってるじゃない……会社の秘書だって、可愛さだって。あたしには何もない」
「若さがあんだろ」寿山はぎりっと唇を噛み、雪乃の髪を掴んだ。
「若さは武器だよ。あんたはこれから数十年の栄華を手にする。あたしは精々数年。あんたはこの場所で、あたしよりも長く……っ! あたし以上の幸せが……っ!」

 廊下にまで響くような声量なのに、どうして、誰も助けに来ないのだろう。
 まるで、雪乃が蟻地獄に入り込むのを知っていたかのようだ。

〝今に痛いメ見るわよ〟また海空の声が甦った。

(佐東主任は……知っていた。知っていて、リングを外せ……と。でも、流されちゃった。あたしの御守り……トイレに消えちゃった。もう、手に取り返せない)

「あたしもかつては若かった。でも、若かった時には、見ず知らずの男に自分を切り売りしていた。この会社で秘書になったのも、峰山のお陰。人事部長を落とせば楽勝。あんたと私じゃ覚悟が違ったんだよ。最終通告。鷺原眞守から手を――……」

 最後の捨て台詞の途中で、「いっけなあい! 空港!」と寿山は立ち上がり、ヒールで後ろ足で雪乃の足首を蹴り、足の甲をぐりぐりやって、「蛍光灯、替えてね、総務さぁん」とトイレを出て行った。

***

 ポタポタと顔から雫が落ち続ける。ポタポタのまま、しがみつくようにして便器を覗いたが、そこには何もなかった。

〝あたしの話、聞いてないな? リングは外して〟
〝いやです〟
〝酷い目に遭うわよ。いや、あんたは酷い目に遭いなさい。尾城林の電話線切っちゃおうかな〟

 ――佐東主任、ごめんなさい。

 情けなくて、悔しくて、雪乃がしゃがみ込んだ時だった。

「――お知らせありがとうございます!」廊下で緊張しつつも一生懸命の鴻鈴子の声と、「雪乃―。さっさと業務に戻ってくれないかな」と佐東海空の声。
 二人がいる。
 驚いて顔を上げた雪乃の前に海空がやって来た。

「あ……主任」

 ――何か、優しい言葉をかけてくれるのだろうか。それならごめんなさい、言うから。しかし、願いも虚しく、海空は冷たく言い放った。

「あんたの内線鳴りっぱなし。手間増やさないでくれます?」

(ない、せん……?)

「あたし、泣いてるんですけど! 寿山に、指輪……流されちゃって……仕事なんかできないです」

 鈴子が「ええっ?」と心配そうに驚く中、「だから?」と海空はガーター剥き出しで靴をはき直して見せただけ。

「指輪、流されたんです!」
「だから?」海空は繰り返して苛ついたように背中を向けた。

「鈴子、戻るよ。時間を無駄にしたわ。雪乃、あんたさあ、どうして「助けて」が言えないの? あんた、あたし程強い女? 助けてを言わないほうが強いと思ってる? 自分1人で生きて行けてるなんて驕り、吐き気すんのよね」

 海空は続けた。

「会社でもそう。あんたはイヤだと言うけどね、総務部なしで、どんな生活すんのよ。そしてウチらの給料は誰が計算して、誰が持って来る。あんたの着てる服は? 食べ物は? 乗ってくる電車は? あんたが言わなくても、「助けてもらってる」んだっつーの」

 海空の言う通りだった。雪乃は足元の化け物を見下ろした。
『負けるな』『あたしは強い』『誰にも負けるな』化け物は段々と母の顔に変わって行く。そうだ。あたしは母にずっと言われ続けた。負けては駄目だと。それは、隣の同級生との競り合いで。最初に言われたのは幼稚園のとき――。


「3人で、トリコロールしましょ!」


 いきなりの鈴子。鈴子は「とりころーる。青、で、白、で、赤があたしですよね!」とはしゃぐように告げて、「トリコロール総務部は、白の雪乃さんがいなきゃ出来ないです」と言い切った。

「あたしがいなきゃ……?」
「はい! あたしと佐東主任だけじゃ、単なる赤鬼青鬼です。でも、雪乃さんが加わるとお洒落なフランスの国旗になる。鬼よりフランスの方が好き」

 そんな純粋無垢な無邪気さに、意固地な涙腺が緩まないはずがない。
 指輪を奪われたことも哀しいけれど、もっと哀しかったのは「何にも無い」の言葉だった。

「なあんにもないって言われた。青と赤と違って、白はなんにもないって……」
「そんなの、「あんたの給料紙切れにしたるぞ、コラァ!」って言っておきゃいい。ないはずないでしょ。地味顔の努力家ちゃん」

 ばっと顔を押さえる前で、海空は「あたしのメイクセット、使う?」とポーチを掲げて見せた。

「なにもない、なんて言葉は勝手に言わせておきゃいい。寿山は、ちょっと厄介だから、リング外せって言ったの。あいつはね……」

 海空は何を思ったか、話を中断した。雪乃を立たせると、「あんたの逃亡二回目。バツとして、来週一週間は加湿器の朝の掃除、それにシュレッダーに熔解手配ね」と笑いながら告げた。

 ……余計な仕事が増えた。あのシュレッダーの山を思い浮かべる雪乃である。
「え? シュレッダーはあたしの仕事です!」鈴子に「あんたにゃ次の仕事教えるから」と海空。

 ――増えたけど。でも、それは、「存在価値」を認められていると言うこと。

(なら、素直になろう。足元の化け物とはさよならして。言いたい言葉をちゃんと言おう。あたしは白。黒の道を行く人間にはならない。決して。
 秘書にはなりたい。でも、総務部を頑張らない理由にはならないはずだ)

「佐東主任」海空は「んー?」と腕を伸ばしながらエレベーターを待っている。


「トリコロールって……実は気に入ってるんです」

「そ。指輪なんか、鷺原に言えばまた買って来るって。あんた、寿山に目をつけられたみたいだから、気をつけなよ。ま、必要なら助けてって言ってくりゃいいんだけどねえ」

 意固地に拒否る。「助けて」が言えない。いつか、言えるようになるのだろうか。

「そうだ、寿山さん自ら、峰山と関係があるって聞きましたけど」

「げー」鈴子の唸り声に「……野心のある女と、生臭人事部長。きな臭いわねえ」と海空は呟いただけだった――。

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