功剣の異端者育成講座!

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プロローグ



──私にはね、名前がないの。

 暖かな潮風に撫でられた山吹色の髪の彼女は、どこか寂しそうなほほ笑みを浮かべて言った。剣士に成り立ての俺は、とある出来事をきっかけに彼女と出会い、初めてそのことを告げられた。あまりの衝撃に固唾を飲んで聞くことしかできなかった。

 誰もいない砂浜に座って、二人で夕焼け空を眺める。静かに満ち引きを続ける海だけがこの空間を支配していた。俺はただ黙って、彼女の人差し指を俺の中指に絡めた。冷たく華奢な指は、力なく弱々しい。ふと彼女の横顔を見た。凛々しさ溢れる顔立ちだが、色が失われている。この色を取り戻したい。守りたい。僅かに自分の指へと力が籠る。しかし、俺が今出来ることは彼女の傍にいてあげることだけだ。
 気持ち数センチ分、彼女との距離を詰めた。これが臆病な俺の精一杯だった。



──ナナ?それが私の名前?……うん、すごくいい!ハバキリくん、ありがとう!!

 肌寒さが生まれた風は彼女の頬を伝う涙を微かに揺らす。そして、彼女は喜びを露わにするかのように、力強く俺に抱きついた。

 名前、それは彼女に初めて贈った誕生日プレゼント。そこそこの立場にいた俺は、頭を下げて王国から戸籍を発行して貰っていた。その戸籍証明書を彼女に贈った。それなりにお金はかかった。周りから蔑んだような目で見られた。それでも、彼女の満開に咲き誇る笑顔があったから、全て甘んじて受け入れられた。



──ねぇ……ううん!なんでもない!!

 針指すような寒さを含んだ風は、確かに俺の隣に座る彼女を、ほんのり紅く染めた。

 最近、彼女がよそよそしくなった。目を合わせると背けられ、何か言いたげな顔をする。尋ねても、くぐもった声で呟くのみで、なかなか答えてくれない。行動のひとつひとつに距離を感じるようになった。嫌われてしまったのだろうか?胸焼けしそうなほどのモヤモヤが不安と恐怖を掻き立てる。
 しかし、それでも彼女はずっと俺の隣にいてくれる。それだけが俺をほっとさせてくれる。今日も、静かに二人で手を絡めあって帰路を歩いた。
 向かう先は少し前に買った小さなマイホーム。でも二人入るには充分過ぎる家だった。



──行かないで!!私は……キリくんとずっと一緒にいたいの!

 柔らかく、温もりの感じるその風は、その彼女の手は、決意を固めた俺を再び揺るがせた。

 国王から剣の腕を認められた俺は、明後日に戦場へ向かうのだ。現地で指揮をとり、先陣をきって国のために戦う。そのため、彼女とは暫くの間だが、別れることになってしまうのだ。

 彼女なら実力が認められたことを自分のことのように喜び、笑顔で見送ってくれるはずだ。そう思っていた。ところが彼女は喜ぶどころか、怒鳴りつけるように俺を引き留めようとした。俺はなぜだか分からなかった。たじろぎ、混乱した。

 この日初めて、二人で本音を言い合った。つまるところ、大喧嘩をした。
 結局、彼女は目尻を赤くしながら、俺を見送ってくれた。戦場へ向かったのは予定よりも三日遅れた日のことだった。現地でその事を伝え、部隊長に謝罪すると、腹を抱えて笑われた。その日の夜、戦時中にも関わらず、簡易宿で宴が行われた。他の兵士にも同じ話をすると、部隊長と差異のない反応をして酒を酌み交わした。この状況を何も理解できなかった。

 とにかくあの時は、本当に敵が攻めて来なくて良かったと心の底から思った。

 それから数ヶ月後、戦争の状況が芳しくない中、俺を心配した彼女が体一つで戦場へと訪れた。仲間の兵士が行き倒れになっている彼女を見つけて、簡易宿で保護された。俺は怒らなかった。彼女がどんなに俺を心配していたことか想像もできなかったからだ。ただ彼女の山吹色の髪をそっと撫でて、心配させてごめん、と一言言った。彼女はそれだけで満足してくれた。



──生きて、キリくん。私のことなんか忘れるくらいに、ずっと遠いところで幸せに暮らして……

 そして、初めて出会ったあの日のような暖かい風は、彼女の脇腹から絶え間なく流れる鮮血を嘲笑うかのように包み込んだ。彼女のいた簡易宿が敵兵に見つかり、敵国の賢者の巧みな統制の下で奇襲攻撃を受けた。

 俺は簡易宿からかなり離されたところまでおびき寄せられていた。その事に気付き、全速力で帰るとそこには地獄絵図が広がっていた。その中心で彼女は腹を引き裂かれてうずくまっていた。

 俺は彼女を抱き抱える。小さく、軽いその身体からは、みるみるうちに体温が失われていく。彼女はもがきながら最後の力を振り絞って微かに声を出す。俺はそれを呆然として見つめることしか出来ない。彼女の言葉のひとつひとつが、重くのしかかった。


 言うな、言わないでくれ。なんでそんなことを言うんだよ。まだ、お前と話したいことが沢山あるんだよ。まだ、お前と一緒にいたいんだよ。
 どうしようもない俺を助けてくれたのはお前だろ?恩返しの半分もしていないじゃないか。もう少し、もう少しでこの国で一番強くなるんだ。そうしたら、もっとお前を喜ばせることが出来るんだ。ずっと一緒にいれるんだ。だから、だから……!


 そこまで言ってようやく、彼女が目を閉じていることに気付いた。血は止まり、同時に温度も完全に失われている。

 暗闇の中照らされた、愛しい月白の彼女の魂はもうこの世にはない。医学的な知識が無くても、それだけを理解するのは容易いことだった。

 死体が蠢く中心で喉が擦り切れるまで叫んだ。彼女から一度たりとも離さなかった視界がぼやける。それが涙だと気付いた時、俺の目から湧き水のように溢れ出た。

 俺は憾んだ。関係のない彼女が犠牲になったこの争いを。

 俺は恨んだ。彼女を殺したあの国を。

 俺は怨んだ。命を懸けて守ると決めた彼女を、守りきれなかった自分を。

 これまでの疲労と、絶望が俺を闇の中へと誘う。俺はそこで意識が途絶えた。





 目を覚ませば、この国─ヤマト王国─の外れにある兵士団の医務室だった。

 俺は五日間寝ていたらしい。医者はその事を伝えた後に、これまでの経緯を説明してくれた。

 結論から言うと、戦争は終わったらしい。敵国の賢者と国王の全員が首を狩られて死んでいるのが分かり、敵国が降伏したのだ。それを行ったのは誰だろうなぁ、と考えていると、なんと俺だった。

 五日前、王国へ帰ってきた俺の手に握られていたのは、一本のタガーと敵国の首がごっそり入った麻袋だったという。俺という存在は、ヤマト王国を勝利に導いた立役者として国では大騒ぎになっているらしい。

 そんなことは記憶に全くなく、他人事のように話を聴いていた。俺はどこまで覚えているのだろうと、過去の1番新しい記憶を思い出そうとした。その瞬間、俺は空っぽの腹の中からあるったけの胃液を吐き出した。あの惨劇を思い出したのだ。

 医者は驚きながらも急いで布をかき集めて、手際よく器のようにして俺へ渡した。俺はその中へまた吐き続けた。

 彼女、ナナが死んだ衝撃は精神的に俺を追い詰めていた。


 それから少しの月日が過ぎ、彼女のいない生活は、胸に穴が空いたような寂しさを生み出した。彼女は戦争中、俺をこんな気持ちで帰りを待ち侘びたのだろうか。俺は、ベッドの上でうずくまる。何もかもがどうでも良くなった。

 それでも、やらなきゃいけないことがある。遺物の整理だ。本当はいつまでも残しておきたい。それでも、まとめなければ、隠さなければ、きっと自分は壊れてしまう。
 俺は重いからだにムチを打ち、木箱の中に一つ一つ物を詰めた。

 ふいに、引き出しの上に立てかけてあった絵が目に付く。西欧では『写真』と呼ばれているものだ。あぁ、夏祭りの日、あまりにも珍しかったから彼女と一緒に撮ったんだっけ。もう少しで夏祭りだ。また行こうかな。でも、彼女はもういない。

 乱雑に開けられたロッカーから手編みのマフラーを見つけた。初秋のころ、気の早かった彼女が作ってきたものだ。その上、気持ちが高揚していたのか、デザインが派手になったので、彼女は外に付けていくのは恥ずかしいと言っていた。俺は笑いながら、部屋で一緒に同じマフラーを巻いた。次からは、落ち着いた色でまとめてもらって、それを付けて二人で一緒に出かけよう。でも、彼女はもういない。

 彼女の引き出しの中から、質素な造りのネックレスが大切に保管されていた。冬、その日はクリスマスと言う特別な日だった。俺は部屋でゆっくり過ごしたかったが、彼女が必死に懇願したので、しぶしぶ二人で店をまわった。その時、彼女が欲しそうに眺めていたのを、俺がこっそり買ったのだ。初めてのクリスマスプレゼントに彼女は凄く喜んでくれた。また、何か買ってあげよう。でも、彼女はもういない。

 この家は彼女との思い出が詰まっていた。どこを探しても、どこを開けても彼女との思い出しかない。全て整理し終わった頃には、燦々と昇っていた日は暮れ、家の中はほとんど空っぽになっていた。

 最後に見つけたのは、真っ白のワンピースだった。俺が最初に贈った服だ。ボロボロになっても縫い合わせて、意地でも使おうとしていた。何を言っても断固として、着続けた。最近は見なかったが、まだ持っていてくれたのか。俺はワンピースを手に取ると、それを優しく抱き締めた。ほのかに彼女がいる。その匂いだけが、沈みきった気持ちを落ち着かせてくれる。彼女は死んだ。しかし、まだここにいる。

 名残惜しく、彼女のワンピースを離すと、俺は静かに木箱に閉まった。

ナナ、今までありがとう。

 木箱に蓋を閉じ、それらを燃やすほどの覚悟がなかった俺は、押し入れの奥へと閉まった。
 そして、肺一杯に溜めた息を吐き出すと、窓を力強く開けた。
 カーテンを揺らす爽やかな風は、絶望、自責、後悔、悲哀、様々な負を感じさせた。しかし、最後に彼女が俺へ与えてくれたのは、紛れもない親愛だった。

 彼女がこんなにも近くにいたのに、俺は気付きさえしなかった。彼女がいなくなって初めて知った。


──俺は彼女を本当の意味で好きだったのだ。


 頬を撫でる涙は風に流されて、小さな雫となって宙を舞った。










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