Abalone〜舞姫と影の少年〜

川島晴斗

エピローグ:伝承の終わりに

「これから僕と君は完全に"代わる"。こうして普通に息もできなくなるから、注意してくれ」

 青色の着物を着た男性に確認を取られ、俺は頷いた。代われという言葉、この男は初めの夢に出た"オレ"なのだろう。化け物に変わっていくんじゃなく、舞の少年と代わっていたんだな――。

「人間の体は重いぞ。服が水を吸ってるならなおさらだ。すぐに綾を呼べ」
「……ああ、そうだな」

 綾はまだ砂浜に居るだろう。ここはまだ沖と呼べる所だと思うし、大声で呼べば届くはず。
 俺1人じゃ助けられるか未知であるため、綾を呼ぶのは最良の手段だ。彼女はあの性格だけあって、泳ぎも得意だから。

「よし、じゃあ代わるぞ。息を吸っておけ!」
「おう!」

 言われた通り息を吸い――すると、男の姿は消えてしまった。
 下に気を取られるのも束の間、ドポンと大きな音を水中に響かせて、多くの泡とともに何かが水中に落ちて着た。

 ――神楽だった。
 ショートカットにセーラー服を着ている、今日見た神楽の姿。気を失っているのか、双眸は閉じられ、ブクブクと白い泡を吐いている。
 俺は泳いで彼女のもとまで向かった。力なく沈みゆく彼女の体を、俺はしっかりと抱きしめた――。

「ッ――!?」

 舞の少年に聞いてた通り、神楽の体は重かった。人間の体だけでも30〜40kgは平気であるのに、服が水を吸ってるのだから体重以上に重い。
 でも、そんなことで諦めるわけにはいかなかった。ここでもし、俺が神楽を救えなかったらどうなる? それこそ最悪の兄貴だ。

 ああ、今度こそ救ってやるんだ。
 だから、力の限り抗ってみせる――!


 神楽の腕を俺の首に回して手首を掴み、もう一方の手で彼女の体を俺に密着させる。脚を精一杯バタつかせて、地上を目指した。

 たった数メートルなのに、とても遠く感じた。体が重い、足が痛い。でも弱音を吐くわけにもいかなくて――

 気持ちで負けない。この想いは奇跡を生み出したほど大きなものだ。だから――

 ――ザパァ!

「ぶはっ!!」

 海から顔を出す。隣にはずぶ濡れになった神楽の顔があった。青い顔をしているが、口から海水を吐き出していて、意識は戻ったようだった。

「神楽! しっかりしろ!」
「ゲホッ、ゲホッ……。うぅ……」

 目を開け、ガチガチと歯軋りをする神楽。意識はあるが、海が冷たくてこごえているようだった。意識は戻ったけれど、コイツは泳げない。このまま2人で砂浜に戻るのは難しいだろう。

 ザッと見たところ、50mは離れていた。綾は岩の側に居るはずで、少し遠い。それでも、俺は力の限り叫んだ。

「綾!!! ここだ!!! 木の板を持ってここに来てくれ!!!」

 名前を呼ぶ。しかし、周りの波の音がうるさく、50m離れた綾までは伝わらなかった。
 俺は綾の姿を見つける。彼女は木の板を砂浜に突き刺し、辺りを見渡していた。

 ――声は、聴こえたのだろうか?

 俺はあそこにいたはずだから、急にいなくなった俺を探して居るはず。だったら神経を研ぎ澄ませているはずで――

「綾ぁぁぁああああ!!!!!」

 もう一度、力の限り彼女の名を呼んだ。
 すると――

「――――」
「――――」

 ――目が合った。

「公平くん!!!」

 彼女は状況を瞬時に理解したのか、巨大な木の板を持って海へと走る。助けは呼ぶことができた。木の板なら浮くし、助かる可能性も上がる。しかも1mはあるバカでかいものだ、持って来てもらえれば……!

 しかし、それまで待たねばならない。神楽は泳げないんだ。しかも、体は震えて力なく俺に身を預けている。

 たまに水を飲んでしまう。むせながらそれを吐き出し、ひたすら綾が来るのを待った。服を纏っているにしても、彼女は泳ぎも速い。
 だから――

「まったく、苦労させられるわ……」

 そんなぼやきとともに、彼女は現れた。
 木の板に神楽を捕まらせ、体力を使いきった俺も木の板に捕まる。2人も捕まると少し沈むが、それでも十分捕まる事ができた。

「ほら、行くわよ」
「おう……」

 俺と綾で神楽を支えながら砂浜に向かって泳いで行く。50mの遠泳は、3分も経たずに帰還する事ができた。

 体が重い。服が水を吸ったからだろう。靴はいつの間にか脱げて無くなっていた。
 神楽を砂浜に寝かせ、顔色を俺と綾で見る。顔色は青ざめており、異常なのは明らかだった。

「救急車を呼ぶわ……。公平くんは神楽さんの側に居てあげて」
「…………」

 綾は立ち上がり、ふらりと岩の方へと戻った行った。その途中で彼女は自身のポーチを拾い、砂を払っていた。海に入る前に投げておいたのだろう。

 神楽の手を掴む。冷たくて、震える手を。しかし、その左手にはマザーオブパールのブレスレットがあった。
 その石言葉は【長寿】。大丈夫、死んだりはしないから……。

 だからこう言ってやろう。



「おかえり、神楽……」

 俺が優しくそう言うと、心なしか、神楽が少し笑ったような気がした――。





 ************





 あれから一週間の時が流れた。
 神楽は血液検査の結果で砂賀浦家の親族である事が断定され、死んでいたはずの神楽が現れた事で一時騒然となる。親父まで帰ってきて、神楽の死亡届は取り消す事ができた。

 ただ、戸籍が戻ったということで、年齢も俺と同じじゃないから高校に通うのはどうなってるのかと、その辺で揉めたらしいが、結果的に高校を通うことはなくなった。それは神楽の学力が足りないため、暫くは通信教育で、小学校からの勉強をするらしい。

 いろいろと慌ただしかったけど、なんとか丸く収まっていた。

「行方不明扱いからの死亡で良かったわね。死亡届の取り下げ、簡単だったでしょ?」
「簡単じゃねーよ。めちゃくちゃ大変だったわ。……親父が」

 綾の言葉を一蹴する。ときは10月下旬の学校のこと。俺と綾は2人で教室に残り、いつも通り会話をしていた。
 死亡届の取り下げはいろいろ証拠やDNA鑑定、昔の写真との比較もやって、初めて取り消せたらしいけど。

「神楽が本当に娘だと知ってさ、母さんボロ泣きだったぜ」
「棚上げしないの。貴方だってボロ泣きだったくせに」
「うるせー」

 過去のことはなかったことにしよう。結局、良い方向で片付いたんだから。
 そうやって自分の都合のいいように言い聞かせ、俺達は下校する事にした。夕陽の傾斜が緩やかになり、眩い金色の光を放っている。赤く染まった空の下を、2人並んで歩いていた。

「そういえばさ、なんであの時、智衣さんを呼んだんだ? お前、あの人の事嫌ってたろ?」

 ふとした疑問を尋ねてみる。先週の日曜、神楽を救ったあの日、何故綾が智衣さんを呼んだのか、気になっていた。
 俺の問いに、綾は少し語気を強めて答える。

「姉の力を本物だと仮定して、神楽ちゃんが本当に人間に近いか、試したのよ。人間に近くなければ海坊主に妖怪扱いされるはずだし、殺される意思がないでしょう? もしそうなら、貴方に神楽ちゃんが家族だって、教えないつもりだった」

 滔々と語る彼女の言葉を、ゆっくりと理解していく。確かに、神楽が妖力というものを出していたら海坊主に人間だと思われないはずで……。もし神楽が殺されなければ、正体を明かして死ぬ必要もない、って事か。

「いろいろ考えてるんだな。俺とは頭の出来がちげぇや」
「貴方はもっと理解力をつけなさい。それと、神楽ちゃん相手にビビりまくってたの、見てるこっちは楽しいからいいけど、神楽ちゃんに対して失礼にもほどがあるわ」
「でも俺が正体に気付かなかったから良かったんだろ?」
「ええ、貴方の頭の回転が悪いおかげで、神楽ちゃんが生き延びたわね」

 ニコニコと笑顔で罵ってくる綾。コイツのSっぽいところはホント嫌い。

 不毛な会話をしていると、いつもの海の見える道に通り掛かった。夕映えが反射した海は赤く染まり、キラキラと光り輝いていた。この海も、一週間前から見え方が変わった。
 伝承と妹、この2つの存在のせいで、神秘的な景色に見えてしまう。

「――お兄ちゃん」

 不意に柔らかな声で呼ばれた。俺たちの進む道の先には、私服姿の神楽が立っていた。救急車で搬送された時はどうなるかと思ったが、今ではピンピンしている。

「おー。どうした、お使い?」
「ううん。やっと外出許可貰えたから、綾ちゃんに会いに来たの。どうせ一緒に帰ってると思ってた」
「俺はついでかよ」

 兄をどうでも良さそうに言う神楽の髪を、俺はわしゃわしゃと掻き乱してやった。とうの神楽は子供みたいに「ひゃーっ」と嬌声を上げて楽しんでいる。心の中は未だに幼いままで、この子が社会の荒波に揉まれるのが不安でならない。

「綾ちゃん、いろいろありがとね。私、基本家に居るからいつでも遊びに来てね」
「ええ、近々行かせてもらうわ。それと、お父さんが居るなら、これはお返しするわ」

 そう言って、綾は左手につけたブレスレットを取り、神楽に差し出した。しかし、神楽は首を横に振る。

「それは綾ちゃんが持ってて。きっと、貴女に渡したのは、間違いじゃないから……」
「……。とても間違いだと言いたいけれど、まぁ事実だし、そう言うことなら受け取っておくわ」
「……?」

 2人の言ってる意味がわからず表情を歪ませると、2人からジト目で睨まれた。なんだお前ら。

「はぁー……ほんと、貴方は人の心を理解するのに疎いようね」
「お兄ちゃん、それはないよ……。石の意味、もう忘れちゃったの?」
「いや、覚えてるから」

 家族の絆を深める、だ。でも綾は家族じゃないし……?
 よくわからんから魔除けだと思っておこう。

 1人納得する俺の姿を、何故か顔の赤い綾がため息まじりに見ていた。神楽はやれやれと言いたげな顔でなんかムカつくが、神楽に怒ると親は総じて俺を叩いてくるので抑える。

「……ねぇ、2人とも」

 ポツリと神楽が切り出す。綾と2人で彼女の顔を見れば、神楽は夕陽の沈みゆく海を見ていた。

「……少し、寄り道してよ」
「…………」
「…………」

 彼女の哀愁漂う顔を見て、俺達は拒否できなかった。

 およそ一週間ぶりにこの3人で海に来た。あの時は昼間だったけど、今は夕方で、10月も終わるから夕陽の沈む時間も早かった。

 海を見ている。無限に続くかのように思える水の塊を、水平線の向こうまで。
 風が吹いている。潮の香りを乗せて波を作る風が、水平線からここまで。

 オレンジ色の海は幻想的で、どこか哀愁があった。
 秋、曼珠沙華が咲いたり、木の葉が落ちる憂愁の季節。俺は冬よりも、この季節に"死"を感じた――。

「……私は今ここに生きているけど、磯女さんはわからない」

 神楽の言葉が耳に届く。俺達より前に出て、海に近付いた。その背中は寂しいもので、ザァァとさざめく波の音がより寂しさを強調していた。

「生きてるかわからないけれど、彼女は私に尽くしてくれた人。だから私は、彼女に向かって舞を踊りたい。あの人から受け継いだ踊りで――感謝の気持ちを込めて」

 不意に神楽は振り返った。ニコリと笑いながら、俺達に問いかける。

「見ててくれる――?」

 優しく放たれたその言葉を拒絶する気持ちは、まるでなかった。それは綾も同じだろう。
 この街にある伝承【神楽の磯女】――幸せの象徴たる彼女に向けて、感謝を伝えたい。それは俺も同じだった。綾だって、ここまで話を追って来たのだから、こんな奇跡に立ち会えた事に、何か思う事があるはずで……。

 俺達が頷くと、再び神楽は海を見た。

 そして、踊り始める。

【神楽の磯女】が踊ったという、伝説の舞を――。



 全てが終わったわけではない、海坊主は来年も来るだろう。

 だけど神楽の命が蘇った喜びと、磯女への感謝をここに込める。

 何よりも広い、この海に向かって――。





 ************





 ――私は死んでしまった。

 神楽は蘇生したけれど、私が生き返ることはなかった。

 それでも、後悔はない。

 人を救えること、それが私の喜びなのだから。

 そしてまた、貴方に会う事ができた。

 私に舞を教え、人の優しさを教え、私を救ってくれた貴方が。

 私も貴方も死んでしまった。

 だからようやく、初めてお話しする事ができる。

 それがとても嬉しい。

 ありがとう――私を大切にしてくれて。

 数百年の間、ずっと地上に留まっていた貴方、私と共に天へと還りましょう。

 貴方の伝えた舞を踊る、"神楽"を名乗る少女に見送られながら――。






 今日こんにちの出来事は、【神楽の磯女】の終わりに紡がれる事でしょう。

 これは私の最後の物語。

 そこには多くの幸せが、満ち溢れていた――。

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