Abalone〜舞姫と影の少年〜

川島晴斗

第二話:転校生

 結局、その日はいくら海を見ても磯女は現れなくて、見間違いだったのだと思うことにした。よくよく考えてみれば、妖怪なんて嘘の話を信じる方が間抜けで、俺は新番組のゴリラについて熱く語る番組を見逃した事を後悔した。

 夜になって寝ようとしても、今日見た光景を気にして寝れなかった。水面に立ち、美しい舞を踊る影。それは【神楽の磯女】に思えた。

 もし本当に妖怪が存在するなら――あの時、アイツが沈んで行ったのは――。

 ――――。




 ************




「……浮かない顔ね、公平くん」
「…………」

 家の玄関を出ると、さも同然とでも言うように彼女、人橋綾は立っていた。青っぽい色合いのセーラー服に身を包み、凛然と立つその姿は美しいが、スカートの先につくぐらい長い黒髪を持っていて、それが怖い女だった。家は近いし、こうして朝から待ち構えてることもなんら不思議ではない。ただ――今日はあまり、その顔を見たくなかった。

 だって、磯女だと思ったから――。

「……寝不足なんだよ」
「考え事かしら? それとも、昨日言ってたゴリラ番組で興奮して寝ようにも寝れなかったとか? なんにしても、哀れなものね」
「……"妹"のことを、考えてた」
「…………」

 俺がそのキーワードを言うと、綾は目を閉じ、数秒ほど考え事をしてからまた口を開いた。

「……呪縛というのは厄介なものね。手でも足でも、私たち人間は縛られていると、とても不便。ペンでしっかり字も書けない……」

 いきなり何を言い出すのかと思えば、黒魔術の類だろうか。いや、そんなことはないだろう。コイツは暗い話題を変な方向に持っていくほどそ人情は浅くない。
 彼女はまた、言葉を続けた。

「……公平くん。貴方のその呪縛は、いつ解けるのかしらね? どこかに良い魔術書が落ちていれば、すぐにでも解けそうなものだけど」
「解除する必要もねーだろうよ。時間は巻き戻らない。何度願ったって、失ったものは帰ってこないんだから」
「…………」

 俺の言葉を聞くと、綾は大きく、わかりやすいため息を吐いた。話していて疲れる話題だし、仕方ないのかもしれない。
 彼女は踵を返し、そのまま告げる。

「行きましょう。早くしないと遅刻するわ」
「……ああ」

 まだ朝早い時間なので無理のある催促だったが、俺は彼女の言うことに反抗せず従った。
 無言で緑の映える道を歩く。視界は開けており、広大な世界に居る自分のちっぽけさを感じてしまうほどで、この街は田舎だった。

 暫くして、海際を歩くことになる。磯貝浜と呼ばれるこの場所は、道の手前に岩が連なっていて、その岩山を超えないと砂浜に辿り着けない。しかし昨今は道を作ったらしく、そこを使えばすぐ砂浜に着くこともできた。
 この沿岸を今日も通れば、また磯女を見ることはあるのだろうか。妖怪という存在、ただの幻かもしれないけれど――。

「……公平くん、こっちを見なさい」

 海と逆サイドに居る綾に呼ばれて振り向く。
 彼女の顔はいつも通り凛としていて、ツンと尖った唇を俺に向けている。

「……なんだよ?」
「海にトラウマがあるくせに海を見ている、矛盾ありき若者に、そんな事より隣の美少女を見たらって、言っただけよ?」
「…………」
「……何よ?」
「いや、見てろって言うから見てるんだけど」
「ッ――!」

 目を見開いて驚く綾。自分から見ろって言ってきたくせに、変な奴だった。

「改めて見ると……」
「な、何よ……」
「……髪なげぇ」
「……いつもの事よ」

 ふいっとソッポを向いてカツカツあるく彼女の髪を、俺は手を伸ばして掴んでみる。先っぽの方を触っても艶のある黒髪は綺麗でなんかフワフワしてる。
 女子は髪を触られるのを嫌がる奴が多いが、綾において、これだけ長いんだからネタにされてもしょうがないだろうし、少なくとも俺が触っても何も言われなかった。

「お前があそこの海の上に立って踊ってれば、【神楽の磯女】に見えるだろうよ」
「人を妖怪扱いするなんて、酷い男だわ。それに、水の上に立つなんて、何か軽くて表面積のある板が無いと、無理よ」
「へー」
「…………」

 どうでも良さげな相槌で会話を終わらせると、綾は目を伏し、黙って俺の隣を歩いて行った。

 俺は海を見ていたが、結局、磯女は現れなかった。





 ************





 古びた校舎のクラスは3つ、これでも多い方だろう。同じ市内に新設高校があって、中学の同期は殆どそっちに流れ込んで行った。俺や綾みたいな変わり者や、近いからという理由だけで通う人はこの高校に多い。

 俺と綾の場合、歩いて20分で着いてしまう。いつも俺が家を出るのは8時前で、必ず間に合うのだ。

 教室に着くとそこそこ賑わっていて、俺と綾は一旦自分の机に荷物を置いて、俺は綾の机の前に向かった。

「……哀れね、公平くん。一目散に私の方に向かってくるなんて、私しか友達いないのかしら?」
「寧ろお前の方が友達居ないのに、何で俺が卑下されなきゃならんのか」
「……ま、お互い暗い顔をしているからかしらね。友達が少ないのは悲しい事だわ。……とはいえ、貴方がいれば満足だけどね」
「急なツンデレキモい」
「照れ隠しの反動でそのような汚い言葉を発するのがネックね。私は友達選びを失敗したらしいわ」

 俺の顔を見てあからさまなため息を吐く綾。上品な口調で平然と人を馬鹿にできるから、コイツも中々のツワモノである。

「――でもね、世間一般でいう"お友達"というのは感情のぶつけ合いで成り立つ。本当に言いたいことを隠したり、リーダー性があるように見えるけど、本当は一見うるさいだけの人に連れ回され、集団心理と和の心から、自分の中の本来正しい常識が乱れる……。例えば、公園で花火をする。本来はいけないことだけれど、そうはいっても断れなくて、だんだん悪い事という認識が薄れる。本音を隠すから、自分が変わっていく……」

 自分の机に右手の人差し指を滑らせながら、滔々と彼女は語る。その言葉に意味があるのかは不明だが、聞いていて悪い心地はしなかった。
 それはこの女、人橋綾の話し方が上手いからに他ならない。

「本音を言って、これはいけない事だと言うと、お前はツマンネー奴だと迫害される。迫害される方がスッキリするけど、それで終わらないのが汚い人間の心理……楽しみを潰された復讐と称し、イジメに発展することもあるのよ」
「ニュースにありそうな話だな」
「ええ、昨今では普通に起きる出来事だわ。その点、貴方とは常に本音で語り合えるし、私の中の常識も高められる。それは利点だと思うの」
「ああ、俺もお前のお嬢様口調に慣れたから、将来は美少女の執事にでもなれそうだ。それぐらいしか利点がねぇ」
「私の機嫌を損ねるのが上手いのだから、貴方が執事になんてなれるわけないじゃない……」

 まったくもう、と言いたげにため息を吐く綾。今日はため息が多いが、話の流れからして俺のせいらしい。綾はもともとそんなに笑わないのだから、ため息を吐いてても普段の暗鬱とした雰囲気とさして変わることがなかった。

 しかし、俺のせいだと言うのなら、少しは笑わせてやりたい。

「……俺は、お前が友達で良かったと思ってるよ」
「…………」

 不意打ちだったのか、綾の顔はみるみる赤くなっていく。目を閉じて口を尖らせ、いつも通りを装っても可愛らしく感じた。

「……私みたいに、婉曲な表現を使う女に向かって、何故貴方は直球な意見をぶつけてくるのかしら」
「わかりやすいからだろ」
「ええ、随分とわかりやすいわ、だから、まぁ、ありがとうと言っておきましょうか」

 クスリと微笑み、綾は礼を述べた。目的を達成して俺も満足し、微笑んで返す。

 その時、チャイムが鳴ってHRホームルーム開始を告げた。

「また後でな、綾」
「ええ。公平くん、また後で」

 手をひらひらと振るうと、彼女もひらひらと返す。俺はそのまま自分の席に座り、放っておいた鞄から筆箱とプリントの入ったファイルを出すのだった。

 高校生になっても「起立、礼」をしっかりやる我が公立校。全員が着席した後、先生の話が始まる。
 教卓に立つ、痩せこけた中年女性は出席簿を両手に持ち、投げやりに話し出す。

「はい、今日は転校生を紹介しまーす」

 その言葉を聞くと、クラスから歓声が湧いた。どんな子なのか気になって仕方ないのだろう。俺は別段気にすることもなかった。今は高一の10月、変な時期ではあるが、転校は人の都合だし、そういうこともある。

「じゃ、入って来て」

 先生が促すと、転校生らしき人物は現れた。

 誰もが目を奪われた事だろう。現れた少女は、それほどまでに美しかったのだから。

 青みがかったボブカットの黒髪、小さい鼻と薄ピンクの唇。そして何よりも、全てを飲み込んでしまいそうなほど深い黒の瞳があって、顔のパーツの整った少女は、まるで人形のようだった。凹凸のない体ではあるが細身で、短くされたスカートから覗く透き通った白い足を持っている。その脚線美を見ると、今まで我々が足だと思っていたのは大根か何かじゃないかと思うほどに、完成された人間の足を見た。

 少女はゆっくりと先生の隣まで歩み、口も開かず、眉も動かさず、後ろを向いて黒板に文字を書いた。カッカッと刻まれていく文字――それを見てしまった俺は、絶句する。

 何故ここで、そんな名前の転校生が来るのだろうか。

 それは昨日話していた内容の――

海原神楽うみはらかぐらと言います……よろしく……」

【神楽の磯女】のような、そんな名を持つ女だった――。

コメント

コメントを書く

「現代ドラマ」の人気作品

書籍化作品