Abalone〜舞姫と影の少年〜
第一話:神楽の磯女
私は貴女を助けたい。
でも、私の声は人を殺してしまう鋭き声。
私は助けを呼ぶことができない。
苦しみ、沈んでいく貴方の大切な人。
私はただ見ているだけだった。
私に力はない。
人を殺せても、"カイブツ"を殺すには、あまりにも非力だったから。
私は見ているだけ、何もできはしない。
私は水面に足の指先を乗せ、舞を踊る。
どうかその死が安らかでありますようにと、願いながら。
私にできるのはそれだけ、祈るだけ。
祈りの言霊よ、言葉に力の宿る私に、どうか従い給へ――。
************
それは伝承と呼ばれるもので、この市に住む者なら知らない人は居ないぐらい有名な話。
その題名は、【神楽の磯女】という――。
むかしむかし、平和に暮らす磯貝浜の街に、旅人の少女が1人やってきました。
旅人の少女は年頃で美人でしたが、一言も喋ることなく、対話は全て筆談でした。
これを気味悪がった村人の1人が、旅人の少女を指さして言いました。
「気持ち悪い奴め、何か喋れ」
少女は困惑しましたが、しつこい男の怒声に負け、渋々と男の耳元で声を発しました。
すると男は倒れてしまい、二度と起き上がることはありませんでした。
気味悪がった街の人々は少女を恐れ、街から追い出してしまいました。
少女は悲しみに暮れ、街の傍で1人泣いていました。
ずっと泣いていると、やがて1人の少年が少女を見て立ち止まりました。
少年は舞を踊って旅をする劇団の者で、美しい海の見えるこの街に帰ってきたところでした。
少年は少女に声を掛けました。
「どうしたの?」
少女は答えず、紙に文字を書きました。
〈私は磯女。声を聴いた人間を殺してしまう妖怪。私は貴方たちとは生きられない。こんなに近くに海があり、私たちは共に水を必要とする生き物なのに〉
少年は泣きながら訴えかける少女の手を取り、少女の顔を見ながらこう言いました。
「ならばまず、私と共に生きてみましょう。共に水を必要とする命であり、何より貴女は磯女という妖怪の割にはあまりにも優しい。そんな貴女と共に生きられないことなど、ありえないのですから」
少女は少年の手を取り、海に向かって歩いていきました。
海に着くと、少年は口で、少女は紙で、楽しく対話をしました。
やがて、少年は自身の得意とする舞を、磯女の少女に教えました。
少女は少年が死んでからも水面の上で舞を踊り続け、このことから【神楽の磯女】と呼ばれるようになりました――。
************
「――私たちの知っている【神楽の磯女】の話はここまでね」
俺の机の前には、やけに偉そうな口振りで【神楽の磯女】という伝承を語る女がいた。傾いた西日は海に半分身を潜めながら俺たちにオレンジ色の光を灯している。もうとっくに授業の終わった人のいない教室の中で、俺はわざわざ教室に残り、コイツ――人橋綾の話を聞いていた。
磯女とは海の妖怪のことで、調べると、水面から上半身は長い黒髪の女の姿をしていて、人に見られない海中の下半身は龍の姿をしているとか。磯女の声を聴いたものは死んでしまうらしく、人間にとっては恐怖の対象である。
しかしながら、この地区に広まる【神楽の磯女】は、人々にとってありがたい、神様のような存在だとかなんとか。今も綾の話を聞いてて、人に優しい妖怪なんだと感じることが多かった。
――それで、妖怪磯女と言っても過言ではないくらい長い黒髪を持つ綾は、ぼーっとして座る俺の頬に手を這わせ長く滑らかな指先で撫でてくる。
「――でもね、【神楽の磯女】には続きがあるの。聞きたい?」
怪しい笑みで問いかけるこの女は、顔だけ見れば好色家だった。無知なる俺に知識を与えようとする喜びからか、その顔は恍惚に染まり、吐く息が若干荒かった。この女は中学からの唯一の知り合いで頭も良いが、なんというか、変態で困る。
だから俺はあえてこう言った。
「磯女なんて、ただの伝説だろ? 興味ねーよ。それより、早く帰らないと新番組の【新人類!ウホウホゴリラカーニバル!】が見れないしな。帰らせてくれ」
興味ないときっぱり言ってやると、綾は俺の頬から彼女の柔らかい指が離される。
彼女は瞳を閉じ眉毛をぴくぴくと動かしながら、再度口を開いた。
「……公平君、貴方は今が一番美しい時期の女の子とおしゃべりすることよりも、胸をどんどこ叩く毛むくじゃらの、人間よりも遥かに劣った生物に興味があるのね。へぇ……」
「うるせー、ゴリラなめんなよ。見た目以上に繊細なんだぞ。ストレスで心臓に負荷がかかって死ぬこともあるんだぞ。学名なんでゴリラ・ゴリラだし、もっと大切に扱ってやりたいと思うだろ!?」
「知らないわよ……貴方は目の前の美少女よりもゴリラを選択してしまった……。ギャルゲーなら、こんな頭のおかしい選択をする人は居ないだろうに、貴方はその過ちを犯してしまった……」
「いや、俺の目の前に居るのって磯女だしな。髪なげーし、なんか不気味――いてててて!!?」
唐突に耳を引っ張られる俺。なんだか理不尽でならないが、俺の言葉も悪かったので潔く謝る。
「痛いって! ごめん、悪かったから!!」
「あら、じゃあお話を聞いてくれるのかしら?」
「いや、もう帰るよ。日が暮れるし……明日にしようぜ」
「……ふふ。明日聞いてくれるなら、今日のところは見逃してあげるわ」
「はは~。ありがたき幸せ~」
机の上でに手をついて頭を下げると、後頭部を押されて机とキスすることになる。この女の性悪具合に、もはやぐうの音も出ないのであった。
そんな一幕もあったが、電気を消して教室を出る。
オレンジ色の光が差し込む廊下は意外なほど美しいが、見慣れてるからと気に留めることもなく通り過ぎていく。
階段を降りて靴を履き、外に出た。
一陣の風が、潮風を引き連れてやって来た。
海の匂いがする。いつもこの街の側にあり、この街を見守って来た海の匂いが。
この匂いは――海は嫌いだ。嫌な事を思い出してしまう。それなのに俺はこの街に生まれたから離れることもできない。巨大で広大で、曠然たる海は、この狭い島国全体を包み込んで離さない。全て乾いて、その水蒸気がプラズマになって光エネルギーを使えば、地球環境にいいんじゃないかな――なんて。
そんなどうでもいい事を考える俺の手を、無言で綾が引いた。俺が振り向いてから、彼女は小さく、消え入る声で言った。
「……行きましょう」
「……ああ」
乾いた声で返事をすると、綾は静かに歩き出した。彼女の後ろについて俺も歩く。
校門を出て、暫くは建物がたくさん見えていたが、やがて田んぼばかり見えるようになる。それから海沿いを歩くのは、家の立地上仕方のないこと。
――ザザァァーン
海が凪いでいる。押し寄せ、引き戻り、ただそれを繰り返す。オレンジ色の光が煌めく海は美しく、神秘的で、1つの奇跡のようだった。
なのに――
「……無理に見なくて、いいのよ?」
「……そうだな」
綾に止められ、一度海から目を離す。今日はそう――後ろを歩く同級生が妖怪の話をしていた。
【神楽の磯女】――そんな話を聞いたら、そんなものが本当に見えてしまうかも知れなくて――
「――あれ?」
不意に、後ろで情けない声がした。振り返ると、綾は海を見て石像のように固まっていた。
「……おい、どうした? ネッシーでも見つけたか?」
「それ湖でしょう!? そうじゃなくて、アレ!」
「あん?」
綾が指差す先――海を、俺は再び見た。
そこには、水面の上で踊る人が居た。水の上に立ち、ゆっくりと体を動かして、それは宛ら舞を踊るように――。
「――磯女、なのか!?」
思わず声を荒げて柵の向こうに体を寄せて見る。ここからだと人影ぐらいにしか見えないが、どう見ても人の姿だった。そして――
俺たちが何かを言う暇もなく、磯女は静かに姿を消すのだった。
でも、私の声は人を殺してしまう鋭き声。
私は助けを呼ぶことができない。
苦しみ、沈んでいく貴方の大切な人。
私はただ見ているだけだった。
私に力はない。
人を殺せても、"カイブツ"を殺すには、あまりにも非力だったから。
私は見ているだけ、何もできはしない。
私は水面に足の指先を乗せ、舞を踊る。
どうかその死が安らかでありますようにと、願いながら。
私にできるのはそれだけ、祈るだけ。
祈りの言霊よ、言葉に力の宿る私に、どうか従い給へ――。
************
それは伝承と呼ばれるもので、この市に住む者なら知らない人は居ないぐらい有名な話。
その題名は、【神楽の磯女】という――。
むかしむかし、平和に暮らす磯貝浜の街に、旅人の少女が1人やってきました。
旅人の少女は年頃で美人でしたが、一言も喋ることなく、対話は全て筆談でした。
これを気味悪がった村人の1人が、旅人の少女を指さして言いました。
「気持ち悪い奴め、何か喋れ」
少女は困惑しましたが、しつこい男の怒声に負け、渋々と男の耳元で声を発しました。
すると男は倒れてしまい、二度と起き上がることはありませんでした。
気味悪がった街の人々は少女を恐れ、街から追い出してしまいました。
少女は悲しみに暮れ、街の傍で1人泣いていました。
ずっと泣いていると、やがて1人の少年が少女を見て立ち止まりました。
少年は舞を踊って旅をする劇団の者で、美しい海の見えるこの街に帰ってきたところでした。
少年は少女に声を掛けました。
「どうしたの?」
少女は答えず、紙に文字を書きました。
〈私は磯女。声を聴いた人間を殺してしまう妖怪。私は貴方たちとは生きられない。こんなに近くに海があり、私たちは共に水を必要とする生き物なのに〉
少年は泣きながら訴えかける少女の手を取り、少女の顔を見ながらこう言いました。
「ならばまず、私と共に生きてみましょう。共に水を必要とする命であり、何より貴女は磯女という妖怪の割にはあまりにも優しい。そんな貴女と共に生きられないことなど、ありえないのですから」
少女は少年の手を取り、海に向かって歩いていきました。
海に着くと、少年は口で、少女は紙で、楽しく対話をしました。
やがて、少年は自身の得意とする舞を、磯女の少女に教えました。
少女は少年が死んでからも水面の上で舞を踊り続け、このことから【神楽の磯女】と呼ばれるようになりました――。
************
「――私たちの知っている【神楽の磯女】の話はここまでね」
俺の机の前には、やけに偉そうな口振りで【神楽の磯女】という伝承を語る女がいた。傾いた西日は海に半分身を潜めながら俺たちにオレンジ色の光を灯している。もうとっくに授業の終わった人のいない教室の中で、俺はわざわざ教室に残り、コイツ――人橋綾の話を聞いていた。
磯女とは海の妖怪のことで、調べると、水面から上半身は長い黒髪の女の姿をしていて、人に見られない海中の下半身は龍の姿をしているとか。磯女の声を聴いたものは死んでしまうらしく、人間にとっては恐怖の対象である。
しかしながら、この地区に広まる【神楽の磯女】は、人々にとってありがたい、神様のような存在だとかなんとか。今も綾の話を聞いてて、人に優しい妖怪なんだと感じることが多かった。
――それで、妖怪磯女と言っても過言ではないくらい長い黒髪を持つ綾は、ぼーっとして座る俺の頬に手を這わせ長く滑らかな指先で撫でてくる。
「――でもね、【神楽の磯女】には続きがあるの。聞きたい?」
怪しい笑みで問いかけるこの女は、顔だけ見れば好色家だった。無知なる俺に知識を与えようとする喜びからか、その顔は恍惚に染まり、吐く息が若干荒かった。この女は中学からの唯一の知り合いで頭も良いが、なんというか、変態で困る。
だから俺はあえてこう言った。
「磯女なんて、ただの伝説だろ? 興味ねーよ。それより、早く帰らないと新番組の【新人類!ウホウホゴリラカーニバル!】が見れないしな。帰らせてくれ」
興味ないときっぱり言ってやると、綾は俺の頬から彼女の柔らかい指が離される。
彼女は瞳を閉じ眉毛をぴくぴくと動かしながら、再度口を開いた。
「……公平君、貴方は今が一番美しい時期の女の子とおしゃべりすることよりも、胸をどんどこ叩く毛むくじゃらの、人間よりも遥かに劣った生物に興味があるのね。へぇ……」
「うるせー、ゴリラなめんなよ。見た目以上に繊細なんだぞ。ストレスで心臓に負荷がかかって死ぬこともあるんだぞ。学名なんでゴリラ・ゴリラだし、もっと大切に扱ってやりたいと思うだろ!?」
「知らないわよ……貴方は目の前の美少女よりもゴリラを選択してしまった……。ギャルゲーなら、こんな頭のおかしい選択をする人は居ないだろうに、貴方はその過ちを犯してしまった……」
「いや、俺の目の前に居るのって磯女だしな。髪なげーし、なんか不気味――いてててて!!?」
唐突に耳を引っ張られる俺。なんだか理不尽でならないが、俺の言葉も悪かったので潔く謝る。
「痛いって! ごめん、悪かったから!!」
「あら、じゃあお話を聞いてくれるのかしら?」
「いや、もう帰るよ。日が暮れるし……明日にしようぜ」
「……ふふ。明日聞いてくれるなら、今日のところは見逃してあげるわ」
「はは~。ありがたき幸せ~」
机の上でに手をついて頭を下げると、後頭部を押されて机とキスすることになる。この女の性悪具合に、もはやぐうの音も出ないのであった。
そんな一幕もあったが、電気を消して教室を出る。
オレンジ色の光が差し込む廊下は意外なほど美しいが、見慣れてるからと気に留めることもなく通り過ぎていく。
階段を降りて靴を履き、外に出た。
一陣の風が、潮風を引き連れてやって来た。
海の匂いがする。いつもこの街の側にあり、この街を見守って来た海の匂いが。
この匂いは――海は嫌いだ。嫌な事を思い出してしまう。それなのに俺はこの街に生まれたから離れることもできない。巨大で広大で、曠然たる海は、この狭い島国全体を包み込んで離さない。全て乾いて、その水蒸気がプラズマになって光エネルギーを使えば、地球環境にいいんじゃないかな――なんて。
そんなどうでもいい事を考える俺の手を、無言で綾が引いた。俺が振り向いてから、彼女は小さく、消え入る声で言った。
「……行きましょう」
「……ああ」
乾いた声で返事をすると、綾は静かに歩き出した。彼女の後ろについて俺も歩く。
校門を出て、暫くは建物がたくさん見えていたが、やがて田んぼばかり見えるようになる。それから海沿いを歩くのは、家の立地上仕方のないこと。
――ザザァァーン
海が凪いでいる。押し寄せ、引き戻り、ただそれを繰り返す。オレンジ色の光が煌めく海は美しく、神秘的で、1つの奇跡のようだった。
なのに――
「……無理に見なくて、いいのよ?」
「……そうだな」
綾に止められ、一度海から目を離す。今日はそう――後ろを歩く同級生が妖怪の話をしていた。
【神楽の磯女】――そんな話を聞いたら、そんなものが本当に見えてしまうかも知れなくて――
「――あれ?」
不意に、後ろで情けない声がした。振り返ると、綾は海を見て石像のように固まっていた。
「……おい、どうした? ネッシーでも見つけたか?」
「それ湖でしょう!? そうじゃなくて、アレ!」
「あん?」
綾が指差す先――海を、俺は再び見た。
そこには、水面の上で踊る人が居た。水の上に立ち、ゆっくりと体を動かして、それは宛ら舞を踊るように――。
「――磯女、なのか!?」
思わず声を荒げて柵の向こうに体を寄せて見る。ここからだと人影ぐらいにしか見えないが、どう見ても人の姿だった。そして――
俺たちが何かを言う暇もなく、磯女は静かに姿を消すのだった。
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