鳥カゴからのゼロ通知
chapter1-35 「湖水に映る唐紅の疑惑」
がしっと掴まれたその手の力は強く、振り解こうとしてもびくともしない。それに彼は創だけに聞こえるように「英雄くん」と囁いた。軽く柔らかな、それでいて押し殺すような声色。
「ハジメさん――!」
その手を振り解こうとキルキスが動き出した途端、それまで無表情で殺気さえ感じた男は、ニコッと表情を緩める。不意に見せたその表情にギョッとする。
「いやーすまないな。いきなり驚かすような真似しちまってよ。何、気にするな。別にお前を王国に連行するってことはしないぜ」
さっきまで感じた殺気はなく、朗らかな顔で話を始める。
掴んでいたことを忘れてたかのような反応をしつつ創の手を解く。そこには掴んだ指の跡が赤く、くっきり痛々しく残っていた。
「あ、あなたは一体何なんですか。それに僕のことを英雄って……」
何者か図りしえないその男に不安と焦りが混ざった顔つきになる。小声で囁いたものの、もしそれが周りにいる誰かに聞かれていたらそれこそ大騒ぎだ。報奨金狙いで王国に連行されるのがオチだろう。
「ん~そうだな~……」
目を閉じ、顎の先を片手で擦りながら考える仕草をとる。すると、何か思いついたように提案を申し出て来た。
「じゃあ、ちょっと俺についてこい。ここじゃアレだろ? もうちょい静かなとこに行こうぜ」
誰も承諾していない最中、「こっちこっち」と手をこまねいて先を歩く。
突如として現れた嵐のような男を背に、創とキルキスは互いの顔を見合わせて怪訝そうに小首を傾げる。その男に対しての信頼性は当然の如く皆無であり、若干の距離をとって後ろをついて行くことにした。
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「……うわぁ……すごい……」
ハルバート王国から数十分。森を抜けた先には湖畔があった。湖の広さは目測でざっと百平方メートル。野球が余裕で出来る広さだ。神秘的な輝きを放ち、清冽な湖水が湖畔に生える木々を水面に薄く、それでいてはっきりと投影させる。
湖の畔では小鳥が戯れ、個々が発するさえずりが穏やかに謦咳に接する。まるで平和を象徴するかのような場所だった。
「はははっ! すごいだろ? 俺のお気に入りの場所なんだ。特に用もないのにここに立ち寄っては昼寝をする。それが俺の楽しみでもあり、癒しでもあるんだ」
声高らかに自慢をする。だがこれはそうそうお目にかかれるものではない。自分だったら誰にも言わず秘密にするだろうと創は思ってしまう。
そして男は創たちの方に向き直る。
「そういやまだ俺の名前を言ってなかったな。俺はペイン――ペイン・グローリアだ。しがない放浪者をしている」
「あ、えっと……アマツ・ハジメです」
「私はキルキスと申しま……えっと、そんなにまじまじと見つめて、どうかなさいました?」
ペイント名乗る男は、腕組をしながら閉じているかのような細い目でキルキスを見つめる。その視線は相手の顔を見てはいなく、明らかに胸を凝視していた。
「……なぁ、ちょっといいか」
「え、僕ですか?」
創の方に視線を移してこちらに来るよう呼びかける。従ってペインに近寄ると唐突に腰を屈めて肩を組まれた。
「あのさ、お前あんな美人をどこで引っ掛けて来たんだよ」
「え!?」
「だって何だよあの胸。あれじゃまるでエロテロリストだぜ。さっきは気付かなかったが、ついつい目がそっちにいっていけねぇ」
ひそひそと創に話しかける。創はこの手の話をする友人を持つ――即ち、蓮だ。こちらにおける『蓮』なのかと疑ったがどうにも似て非ならない。結局、似ているのは頭の中なのだという論理的結論に至った。
「別に引っ掛けてなんかいませんよ。動物に襲われていたところを偶然助けてもらったんです。そこから一緒に行動するようになっただけですよ」
そんな創の回答を信じようとはせず、半ば半信半疑で聞いている節が窺がえた。
会話の話題になっているキルキスはというと、後ろに手を回して一人だけ会話に混ざれないことに不満を抱いているのか、顰めっ面になってこちらを見つめている。頭の上に『?』があるのが見えてしまうくらいだ。
「いやいやお前嘘をつけって。あんな八方美人どころか十六方美人みたいな可憐でエロスの塊みたいな艶のある――」
しつこく詳細を伺ってくるペインに対して嫌気がさしてきたところに、疎外され続けているキルキスからドスのきいた低い声で語り掛ける。
「ねぇ、そろそろ、私もお話に混ざってもよろしいでしょうか? くふふ、何やら楽しそうに話していらっしゃいますので、どのようなお話をされているのかと気になっているのですが」
破顔一笑するキルキスは恐らく外見だけで、中身は塵ほども笑ってなどいないだろう。笑顔を見て恐怖を覚えることは初めての経験だった。ペインも怯えているのか、先程までとは打って変わって汗がダラダラと流れている。
「い、いやー何でもないぜ! こいつにここの良さを教えてやっていたところだ!」
勢いよく振り向き、しどろもどろしながら簡単に見破れる嘘をつく。
「あら、そうでしたか」
などと言うが、怒りは静まってはいない様子。
収集がつかなくなることを察した創は、この状況を打破するためにペインに疑問を投げつける。
「そ、そんなことより……! 何でペインさんは、僕のことを知っているんですか? ……その、さっき僕のことを英雄って。それってやっぱり……」
「ああ――だって見たからな、あの霊園で。たまたま近くにいたところにあんな馬鹿うるさい音がすりゃ気になるだろ。だから隠れて様子を窺ってたんだが、どうやらお前と一緒に戦ってた奴には気づかれてたみたいだな。あとあのピエロみたいなやつにも」
焦りで顔を歪ませていた表情とは一変して重々しい表情に変わる。
「そこで今度はこっちから聞きたいんだが――」
風がざわつくのを感じた。木々が揺れ、木の葉が舞う。身の危険を感じた小鳥はどこか彼方へと羽ばたく。それと同時に、何か不穏な空気が流れていくのがわかる。
その次の言葉を聞くのがおぞましい。そんな創の心情など悟りはしないだろう。ただ無情で、非情で、慈悲なんてものはないだろう。
「アマツ・ハジメ……お前は一体――」
その一言は、容赦なく紡がれる――。
「何なんだ――?」
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