~大神殿で突然の婚約?!~オベリスクの元で真実の愛を誓います。
それが真実だから ――アザエル――
*1*
イザークは唇を噛んだ。突如訪れた空気の圧力に顔を顰めた。確かティティインカと繋がって、もう少しで……のところで、炎の羽に遮られ、覚えていないが。
「なんだ、ここは。空間が歪んでら。で、なんで俺は肉体がある? 歩いてるよな?」
ひょこ、と鶏頭が見えた。マアティ。マアトの分身だとネフトは言っていたような。
「ちょっと失礼しますぅ」マアトの手下が持っているものにぎょっとした。でかい鎌。首を簡単に落とせそうな刃渡りの。
「なに、するつもりだ……鳥のガキが!」
マアティはびゅんびゅんと鎌を振り回し、むっと言い返した。
「マアト様は、貴方の心臓と、翅で真実を測る儀式をするんですぅ。翅のほうが重かったら、貴方の大切なひとの霊魂は捨てられちゃいますよぅ?」
「大切なひと……ティティ? おい、ティティがこの世界にいるってのか!」
マアティはわらわらと寄ってきて、円陣を組んで座り込んだ。作戦会議を始めた様子。頷き合って、円陣を解いた。ずらりと並んで、クスクスクスクスと笑いの大合唱だ。中央に何かを隠している。
「くぉら! この鶏! 集団で焼き鳥にしてやる!」
「くふっ。自信、ないんですかぁ? そうですよねぇ。マアトさまの翅は全ての真実より重いのですぅ。罪人になど負けません~」
――ここまで言われて、黙っていられるか。イザークはふんと言い返した。
「俺が愛を証明してやる。心臓でも、何でも持って行け。俺はどうなってもいい」
「知りませんよぅ?」マアティたちは数人で大きな鎌を振り下ろした。鎌の先は尖っていて、拷問道具の輝きをしている。立ちくらみと体内から何かがすり抜けた。
「きゃー、貴方の心臓、真っ黒~。悪魔、悪魔の心臓~~~~マアトさまぁ~」
マアティたちは、首を獲った民衆の凱旋のように、黒い塊を掲げ、去って行った。マアト神は裁きの神。最期に、イザークとティティの愛情をも裁こうというのだろう。
(上等だ。俺の愛は負けやしない)
忘れ去られたかのように、瓶が残されていた。マアティたちが忘れたのか。
蹴飛ばしてやるかと近寄って、イザークは眼を見開いた。瓶の中に小さな霊魂が膝をつき、イザークを見詰めている。身体が静かだ。心臓の音がしない。
――心臓があったら、俺の鼓動は、止まったかも知れない。
「ティティインカ! ――嘘だろう、いや、ティティ……こんな、姿に……」
瓶の中にはティティインカの霊魂が詰まっていた。ティティのコブラの頭が見えた。イザークは震える手で、瓶を手にする。今すぐにでも、割れそうな美しい白耀の瓶。
(理由なんかいい。ここに、二人で存在している。これは奇跡か、神さま――)
***
「……随分、小さくなっちまったな。ティティ」
瓶に入ったままのティティは、亡霊のようにイザークを見詰めていた。透けて小さくなった霊魂の姿にイザークはそっと語りかけた。
「……そばにいて、やりたかったぜ」
イザークはそっと瓶のティティに泣き笑いで告げた。ティティは透けた水色のオーラになって、ゆらゆらと揺れている。
「ティ、俺も、貴女と同じ。復讐することばかり考えていた。俺を嵌めた人間全員を根絶やしにしてやる。クフをも見捨て、ヴァベラの民を悪に導く悪魔になってやると。俺がオベリスクに名前を遺したのは、クフのためじゃない。誰かが、弟を裁くだろうと、ラムセスと仕向けたんだ。俺の手は汚さずにいたかった」
イザークは眼を伏せた。ティティに言えなかった、逃げ続けた罪が脳裏に甦った。
***
取替子のラムセスとイザーク、クフ。オベリスクの前でよく戯れたものだ。
しかし、周りがそれを許さなかった。親密さは両国の為にならない。テネヴェ王である父はラムセスの幽閉を決めた。
『お兄ちゃん、蛇のお兄ちゃんは何処へ行っちゃったの?』
在る夜にクフが訊いてきた。イザークは答えなかった。それが、クフの恐怖心のきっかけとなった。
――クフは、何より、三人の時間を愛していた。
「僕から大切なものを奪った。ならば、人間は全員死ねばいいんだ」笑顔で告げた。
(その後は分からない。クフが泣くので、父ともみ合いになって、気付けば剣を――)
そして、裁きが始まった。ラムセスは俺に歴史を変えようと囁いた。
(気付けば俺は国の背信を目論んだ黒王子とされ、追放になる。裁きは、オベリスクに降りかかり――……)
「母は発狂した。それを見たクフは、壊れた。壊れた弟を捨て、ラムセスと共に逃げるしかなかったよ。
俺は弱かったな」
きょろ、と亡霊の目が動いた。
「神が俺を裁いたは、封じていた悪魔の血をクフの中に目覚めさせたからだ。神はヴァベラの呪われた血を二度と復活させてはならなかった。……今話しても遅いか。俺はいよいよ裁かれる。霊魂は残らない。
〝愛する者を狂気に導いた罪〟「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」……
「そこまで判れば充分だ。ヴァベラの民、イホメト。マアティたちが何を忘れたと騒いだかと思えば、牝の霊魂の瓶詰め」
「――神さまの汚れた手で触っていいもんじゃねえ!」
ティティの瓶を抱き、牙を剥いたイザークに、マアトの鳥眼が細く、動いた。
「不貞不貞しい。悪魔の民。おいで。最期の裁きと行こう。我の翅より汝の漆黒の心臓が軽ければ、牝の霊魂は永遠に消えることとなろう」
「もし、俺の心臓が翅より重かったら?」
マアトは変わらずの冷淡ぶりで、答えた。
「奇跡はない。マアト神の翅は、悪には負けん。か細い期待を勝手に抱け」
言うとマアト神は大きな翼に手を突っ込み、一枚の翅を抓み取った。
無の空間に石像のような巨大な天秤がぼうっと現れた。幾度も心臓を載せたと見える受
け皿は赤く錆び付いている。大きな真鍮の天秤は、微動だにしない。
「なんだ、ここは」
「裁きの間だ。時間が止まった外にある。見よ。――天秤だ」
ふわり、と大きな羽が天秤の左の受け皿に乗せられた。
「汝の罪と愛を測る。数億年ぶりにね。だが、奇跡はない。マアティ、心臓を」
「はーい、真っ黒心臓載せまぁす」マアティたちがイザークの心臓をそろりと載せた。
「幾度も裁いた。恋人たちが絶望した瞬間を汝も迎える。見慣れた光景だ」
天秤はゆっくりと動き出す。(そん、な……)イザークは眼の前の下がった翅を見詰めた。翅の乗った天秤は明らかに傾いていた。マアト神が首を振った。
「――愛は測られた。汝らの愛、歴史に不要。ここまで神に抗ったは見事。所詮悪魔の罪は消えないとの理だった。古代の世界はここで、終わろう。徹底的な裁きを」
イザークに絶望が押し寄せた。ティティの声が脳裏に響く。
〝神さまが、私たちの愛を否定するの。だから、そっち、行けない……〟
(赦される日は、来ない。愛する女を霊魂にまで堕として、尚……ここまでかよ)
絶望した自分に苛立ちを感じた。腸がぐつぐつ沸騰しまくっている。こんなの、俺じゃない。神に逆らう悪魔の血は、こんなに弱いもんじゃないはずだ。
――神に刃向かう悪魔の運命。それが俺だと言うならば、徹底的に抗ってやる。
「愛してる、ティティインカ」
ぴく、と瓶の中のティティの形の霊魂が動いた。
――悪魔の血を引いた故郷なんざ、ご免だ。しかし、神から愛を奪うに、これほどの武器があるものか!
「真実の愛はこの手で奪う! ティティの全てを愛してるんだ、俺は――っ!」
抜かれた心臓の部分が熱い。イザークは充血した眼で、己の黒い心臓を睨んだ。すべてを受け止めた時を思い出す。ティティの全てを受け止めた瞬間。もっと、重く、貴重な何かを吹き込まれたはずだ。罪の分だけ、イザークの心臓は重いはずだ。
(もう、逃げねぇ。俺は、俺から逃げねえ! 罪の重さを噛み締めて生きてやる! その重さ、引き受けた!)
「心配、すんな……。原罪? しっかり背負って生きてやる。ティティ……」
隣に在ったはずの手はもうない。眼に、透けた小さな亡霊が映った。
(もう、ティティは生きていない。霊魂になってしまった……)
「全部覚えてる。大丈夫だ。俺が、全部、覚えてるから……戻ろうぜ……あの、ハピ河の俺たちの家で今度こそ、夫婦になる。幸せな時間をたくさん作って――」
カタカタカタ。天秤が小刻みに震え始めた。マアティたちの声がする。
「もう、往生際が悪いですぅ」
マアトは無言で天秤を睨んでいた。墨の入った目尻をぴくりとも動かさず。まるで天秤を見守っているかのように。軋み音が響いた。天秤が再び動き始めている。
(神に勝てるとは思わない。でも、この想いは嘘じゃない。真実だ。なんだ、真実はここにある。心臓を抉られても、消えやしない。理を探す必要もないじゃないか――)
――ずっと一緒だ、ティティ――……これで、ずっと、死んでも一緒だ。やっと言える。俺と、ティティは永遠に一緒だと。
(そうだ、一緒に還ろう。互いの名を呼び合って、大切に一日を生きよう。二人で)
愛してる。俺も、ちゃんと言うから。――まだ、遅くないと信じているから。
「有り得ぬ……」マアト神が呟きで、イザークは顔を上げた。
「天秤が、釣り合った……聖なる天秤が……世界の理を測る、理の天秤が……裁きは不要だ……」
息を飲んだマアト神の前で、天秤は揺れていたが、やがて靜かに止まった。天秤は神と、イザークの心臓を水平と判断した。マアト神の爪先が、イザークに向いた。
「よく見るがいいよ。――決して我と釣り合うなど合ってはならない。だが、我が天秤に間違いはない。おまえたちの愛情、想いはこのマアトの裁きと同じだと証明したんだ。罪の重さだ。罪に耐える汝の心の重さを天秤は量り、見抜いた」
マアトの声は、今までになく優しかった。
「汝はもう罪人ではないよ。汝を業火へブチ込み、世界を一度終わらせるつもりだった。破壊の労力行使は面倒だ。……奇跡をありがとう」
イザークは呆然としていたが、眼の前で奇跡を讃えるマアティたちの歓喜に正気を取り戻した。
「マアティ、瓶を」
マアトはティティの入った瓶を受け取り、差し出した。
「諱を奪われた霊魂は、自身の心も、姿も覚えてはいない。諱の剥離が長ければ、記憶はさらさらと消える。ティティインカ。よい諱を貰ったものだ」
マアト神は片手を翳し、瓶詰めにされたティティの霊魂を解放した。ティティの形の霊魂はふよふよ飛んで、イザークの掌に辿り着き、座ってぼんやりと揺れている。驚き、滂沱の涙の瞳の中で、マアト神が再び天秤を振り仰いだ。
「太陽と月を押しのけ、悪の染みついた世界を正すが使命だ。マアト神は真実の神。真実に逆らうは赦されない。あとは、太陽神と夜の神が世界を照らす。私は次の世界を裁きに行く。イザーク、汝は罪の重さを愛に変えた。呪いも解ける」
イザークはティティの霊魂を大切に両手に包み込み、マアト神の前で頭を下げた。
振り仰いだ天秤は一縷も動かない。だが、イザークがまた、背を向ければ、なんなく傾くだろう。
ティティへの愛情は罪を堪えることで、一生をかけて、証明して見せる。
もう、逃げない。マアトが足を止めた。マアトの瞳を間近で見た。イザークは迷いのない口調で告げた。あと一つ。天秤に量らせたい罪がある。
「全てに絶望して、悪に堕ちた弟クフを、この手で救いたい――」
イザークは唇を噛んだ。突如訪れた空気の圧力に顔を顰めた。確かティティインカと繋がって、もう少しで……のところで、炎の羽に遮られ、覚えていないが。
「なんだ、ここは。空間が歪んでら。で、なんで俺は肉体がある? 歩いてるよな?」
ひょこ、と鶏頭が見えた。マアティ。マアトの分身だとネフトは言っていたような。
「ちょっと失礼しますぅ」マアトの手下が持っているものにぎょっとした。でかい鎌。首を簡単に落とせそうな刃渡りの。
「なに、するつもりだ……鳥のガキが!」
マアティはびゅんびゅんと鎌を振り回し、むっと言い返した。
「マアト様は、貴方の心臓と、翅で真実を測る儀式をするんですぅ。翅のほうが重かったら、貴方の大切なひとの霊魂は捨てられちゃいますよぅ?」
「大切なひと……ティティ? おい、ティティがこの世界にいるってのか!」
マアティはわらわらと寄ってきて、円陣を組んで座り込んだ。作戦会議を始めた様子。頷き合って、円陣を解いた。ずらりと並んで、クスクスクスクスと笑いの大合唱だ。中央に何かを隠している。
「くぉら! この鶏! 集団で焼き鳥にしてやる!」
「くふっ。自信、ないんですかぁ? そうですよねぇ。マアトさまの翅は全ての真実より重いのですぅ。罪人になど負けません~」
――ここまで言われて、黙っていられるか。イザークはふんと言い返した。
「俺が愛を証明してやる。心臓でも、何でも持って行け。俺はどうなってもいい」
「知りませんよぅ?」マアティたちは数人で大きな鎌を振り下ろした。鎌の先は尖っていて、拷問道具の輝きをしている。立ちくらみと体内から何かがすり抜けた。
「きゃー、貴方の心臓、真っ黒~。悪魔、悪魔の心臓~~~~マアトさまぁ~」
マアティたちは、首を獲った民衆の凱旋のように、黒い塊を掲げ、去って行った。マアト神は裁きの神。最期に、イザークとティティの愛情をも裁こうというのだろう。
(上等だ。俺の愛は負けやしない)
忘れ去られたかのように、瓶が残されていた。マアティたちが忘れたのか。
蹴飛ばしてやるかと近寄って、イザークは眼を見開いた。瓶の中に小さな霊魂が膝をつき、イザークを見詰めている。身体が静かだ。心臓の音がしない。
――心臓があったら、俺の鼓動は、止まったかも知れない。
「ティティインカ! ――嘘だろう、いや、ティティ……こんな、姿に……」
瓶の中にはティティインカの霊魂が詰まっていた。ティティのコブラの頭が見えた。イザークは震える手で、瓶を手にする。今すぐにでも、割れそうな美しい白耀の瓶。
(理由なんかいい。ここに、二人で存在している。これは奇跡か、神さま――)
***
「……随分、小さくなっちまったな。ティティ」
瓶に入ったままのティティは、亡霊のようにイザークを見詰めていた。透けて小さくなった霊魂の姿にイザークはそっと語りかけた。
「……そばにいて、やりたかったぜ」
イザークはそっと瓶のティティに泣き笑いで告げた。ティティは透けた水色のオーラになって、ゆらゆらと揺れている。
「ティ、俺も、貴女と同じ。復讐することばかり考えていた。俺を嵌めた人間全員を根絶やしにしてやる。クフをも見捨て、ヴァベラの民を悪に導く悪魔になってやると。俺がオベリスクに名前を遺したのは、クフのためじゃない。誰かが、弟を裁くだろうと、ラムセスと仕向けたんだ。俺の手は汚さずにいたかった」
イザークは眼を伏せた。ティティに言えなかった、逃げ続けた罪が脳裏に甦った。
***
取替子のラムセスとイザーク、クフ。オベリスクの前でよく戯れたものだ。
しかし、周りがそれを許さなかった。親密さは両国の為にならない。テネヴェ王である父はラムセスの幽閉を決めた。
『お兄ちゃん、蛇のお兄ちゃんは何処へ行っちゃったの?』
在る夜にクフが訊いてきた。イザークは答えなかった。それが、クフの恐怖心のきっかけとなった。
――クフは、何より、三人の時間を愛していた。
「僕から大切なものを奪った。ならば、人間は全員死ねばいいんだ」笑顔で告げた。
(その後は分からない。クフが泣くので、父ともみ合いになって、気付けば剣を――)
そして、裁きが始まった。ラムセスは俺に歴史を変えようと囁いた。
(気付けば俺は国の背信を目論んだ黒王子とされ、追放になる。裁きは、オベリスクに降りかかり――……)
「母は発狂した。それを見たクフは、壊れた。壊れた弟を捨て、ラムセスと共に逃げるしかなかったよ。
俺は弱かったな」
きょろ、と亡霊の目が動いた。
「神が俺を裁いたは、封じていた悪魔の血をクフの中に目覚めさせたからだ。神はヴァベラの呪われた血を二度と復活させてはならなかった。……今話しても遅いか。俺はいよいよ裁かれる。霊魂は残らない。
〝愛する者を狂気に導いた罪〟「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」……
「そこまで判れば充分だ。ヴァベラの民、イホメト。マアティたちが何を忘れたと騒いだかと思えば、牝の霊魂の瓶詰め」
「――神さまの汚れた手で触っていいもんじゃねえ!」
ティティの瓶を抱き、牙を剥いたイザークに、マアトの鳥眼が細く、動いた。
「不貞不貞しい。悪魔の民。おいで。最期の裁きと行こう。我の翅より汝の漆黒の心臓が軽ければ、牝の霊魂は永遠に消えることとなろう」
「もし、俺の心臓が翅より重かったら?」
マアトは変わらずの冷淡ぶりで、答えた。
「奇跡はない。マアト神の翅は、悪には負けん。か細い期待を勝手に抱け」
言うとマアト神は大きな翼に手を突っ込み、一枚の翅を抓み取った。
無の空間に石像のような巨大な天秤がぼうっと現れた。幾度も心臓を載せたと見える受
け皿は赤く錆び付いている。大きな真鍮の天秤は、微動だにしない。
「なんだ、ここは」
「裁きの間だ。時間が止まった外にある。見よ。――天秤だ」
ふわり、と大きな羽が天秤の左の受け皿に乗せられた。
「汝の罪と愛を測る。数億年ぶりにね。だが、奇跡はない。マアティ、心臓を」
「はーい、真っ黒心臓載せまぁす」マアティたちがイザークの心臓をそろりと載せた。
「幾度も裁いた。恋人たちが絶望した瞬間を汝も迎える。見慣れた光景だ」
天秤はゆっくりと動き出す。(そん、な……)イザークは眼の前の下がった翅を見詰めた。翅の乗った天秤は明らかに傾いていた。マアト神が首を振った。
「――愛は測られた。汝らの愛、歴史に不要。ここまで神に抗ったは見事。所詮悪魔の罪は消えないとの理だった。古代の世界はここで、終わろう。徹底的な裁きを」
イザークに絶望が押し寄せた。ティティの声が脳裏に響く。
〝神さまが、私たちの愛を否定するの。だから、そっち、行けない……〟
(赦される日は、来ない。愛する女を霊魂にまで堕として、尚……ここまでかよ)
絶望した自分に苛立ちを感じた。腸がぐつぐつ沸騰しまくっている。こんなの、俺じゃない。神に逆らう悪魔の血は、こんなに弱いもんじゃないはずだ。
――神に刃向かう悪魔の運命。それが俺だと言うならば、徹底的に抗ってやる。
「愛してる、ティティインカ」
ぴく、と瓶の中のティティの形の霊魂が動いた。
――悪魔の血を引いた故郷なんざ、ご免だ。しかし、神から愛を奪うに、これほどの武器があるものか!
「真実の愛はこの手で奪う! ティティの全てを愛してるんだ、俺は――っ!」
抜かれた心臓の部分が熱い。イザークは充血した眼で、己の黒い心臓を睨んだ。すべてを受け止めた時を思い出す。ティティの全てを受け止めた瞬間。もっと、重く、貴重な何かを吹き込まれたはずだ。罪の分だけ、イザークの心臓は重いはずだ。
(もう、逃げねぇ。俺は、俺から逃げねえ! 罪の重さを噛み締めて生きてやる! その重さ、引き受けた!)
「心配、すんな……。原罪? しっかり背負って生きてやる。ティティ……」
隣に在ったはずの手はもうない。眼に、透けた小さな亡霊が映った。
(もう、ティティは生きていない。霊魂になってしまった……)
「全部覚えてる。大丈夫だ。俺が、全部、覚えてるから……戻ろうぜ……あの、ハピ河の俺たちの家で今度こそ、夫婦になる。幸せな時間をたくさん作って――」
カタカタカタ。天秤が小刻みに震え始めた。マアティたちの声がする。
「もう、往生際が悪いですぅ」
マアトは無言で天秤を睨んでいた。墨の入った目尻をぴくりとも動かさず。まるで天秤を見守っているかのように。軋み音が響いた。天秤が再び動き始めている。
(神に勝てるとは思わない。でも、この想いは嘘じゃない。真実だ。なんだ、真実はここにある。心臓を抉られても、消えやしない。理を探す必要もないじゃないか――)
――ずっと一緒だ、ティティ――……これで、ずっと、死んでも一緒だ。やっと言える。俺と、ティティは永遠に一緒だと。
(そうだ、一緒に還ろう。互いの名を呼び合って、大切に一日を生きよう。二人で)
愛してる。俺も、ちゃんと言うから。――まだ、遅くないと信じているから。
「有り得ぬ……」マアト神が呟きで、イザークは顔を上げた。
「天秤が、釣り合った……聖なる天秤が……世界の理を測る、理の天秤が……裁きは不要だ……」
息を飲んだマアト神の前で、天秤は揺れていたが、やがて靜かに止まった。天秤は神と、イザークの心臓を水平と判断した。マアト神の爪先が、イザークに向いた。
「よく見るがいいよ。――決して我と釣り合うなど合ってはならない。だが、我が天秤に間違いはない。おまえたちの愛情、想いはこのマアトの裁きと同じだと証明したんだ。罪の重さだ。罪に耐える汝の心の重さを天秤は量り、見抜いた」
マアトの声は、今までになく優しかった。
「汝はもう罪人ではないよ。汝を業火へブチ込み、世界を一度終わらせるつもりだった。破壊の労力行使は面倒だ。……奇跡をありがとう」
イザークは呆然としていたが、眼の前で奇跡を讃えるマアティたちの歓喜に正気を取り戻した。
「マアティ、瓶を」
マアトはティティの入った瓶を受け取り、差し出した。
「諱を奪われた霊魂は、自身の心も、姿も覚えてはいない。諱の剥離が長ければ、記憶はさらさらと消える。ティティインカ。よい諱を貰ったものだ」
マアト神は片手を翳し、瓶詰めにされたティティの霊魂を解放した。ティティの形の霊魂はふよふよ飛んで、イザークの掌に辿り着き、座ってぼんやりと揺れている。驚き、滂沱の涙の瞳の中で、マアト神が再び天秤を振り仰いだ。
「太陽と月を押しのけ、悪の染みついた世界を正すが使命だ。マアト神は真実の神。真実に逆らうは赦されない。あとは、太陽神と夜の神が世界を照らす。私は次の世界を裁きに行く。イザーク、汝は罪の重さを愛に変えた。呪いも解ける」
イザークはティティの霊魂を大切に両手に包み込み、マアト神の前で頭を下げた。
振り仰いだ天秤は一縷も動かない。だが、イザークがまた、背を向ければ、なんなく傾くだろう。
ティティへの愛情は罪を堪えることで、一生をかけて、証明して見せる。
もう、逃げない。マアトが足を止めた。マアトの瞳を間近で見た。イザークは迷いのない口調で告げた。あと一つ。天秤に量らせたい罪がある。
「全てに絶望して、悪に堕ちた弟クフを、この手で救いたい――」
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