砂漠王子の愛は∞!~唇から風の魔法の溺愛アラヴィアン・ラブ~

簗瀬 美梨架

第六章 闇に染まりし王子の心4

★5★
「こんなに靜かなのか? アリザム、第一宮殿をよく知っていたな」
「さて。私は連絡係も兼ねておりますので」
 そっけない返答だ。ラティークとアリザムは第一宮殿の回廊に差し掛かっていた。
「……ハレムに入り浸り、なんて状況ではないだろうな。しかし、靜か過ぎる……」
「ラティーク様であれば、有り得る話ですがね」
 アリザムに向かって自嘲して、ラティークは絢爛豪華な宮殿の天井を見上げた。
 第一宮殿の規模は第二宮殿とは違う。当然奴隷の数も、ハレムへの貴妃の数も違うし、第一王子に逢いに来る外交官も多い。だが、今は死に絶えたかの如く、どこもかしこも静まり返るばかりである。
「王子、私は疑問に感じます。ルシュディさまは闇に魅入られてはいても、穏やかなお人だ。悪意など微塵もない」
 ラティークはアリザムの言葉に足を止めた。
「アリザム、おまえには人の心が見えるのか? それとも、取り出して細かに観察できる特技があるか、もしくは神の如き人の矮小さを手に取れるよう理解できるとか?」
 回廊の途中に大きな肖像画がある。しかし、どれも切り裂かれており、紙は捲れ、一つとして描かれた顔は判別もできない。辛うじて、どれも女性だと分かる程度だ。
「ルシュディに悪意がないなどと、なぜ言い切れる。僕は悪意を持たない人間などいないと思っている。何かが引っかかる。シェザードが言っていたよ。『この石を使ったものに、人の心はない』とね。アリザム、手を」
 ラティークは石をアリザムの手に乗せたが、アリザムは顔を顰め、石を落とした。
「なんだ、これは。怖ろしくて持てやしません、貴方はなぜ」
 ラティークは石を拾うと、また元通り、胸に仕舞った。
「心臓が二つあるように感じる。アイラに持たせるよりはずっといい。二度とあんな顔を見たくない。兄が何をしたのか、突き詰めてやる――と、床の紋様が変わったな」
 二人が止まった場所は王宮と後宮の間。まるで紋様や柱が違う。二つの宮殿を繋いでいる回廊だ。
「ここからが、ハレム宮殿。第一王子のハレムは宮殿規模です。いくつもの部屋を渡り歩く。部屋には数十人の貴妃が待っていた。ロングギャラリーにはずらりと絵が並び、歴代の王妃たちが輝かしく飾られていたはずです。この回廊には常に貴妃が王子が通る瞬間を待ち構えて、たむろしていたはず……」
 ラティークはぎょろりと眼を走らせた。
「アリザム、扉。……開けるぞ」
 扉には闇の毛虫がたくさん這っていた。無視して扉を開け放った。隙間からは女子の服の断片がちらりと見えた。暗い中、ラティークの爪先が水に浸った。
「ラティーク王子?」声に首を振って扉をそっと閉めた。爪先は赤く汚れていた。
「本来のハレム争いは、熾烈です。ラティーク王子の適当さが逆に良かったのでしょう。魔法で操るなんぞ、できるわけがなかろうに。いつまで騙すのです?」
 アイラの話だ。ラティークは首を竦めた。
「ついつい反応が可愛くて。『この腐れ王子!』の罵声を覚悟しているけれどね」
「そろそろ宮殿の最奥部。王座のある間です。第一王子はいつもこの部屋にいらっしゃる。ハレムの状態など気にもせずにいるのでしょう。国すら興味がないご様子」
 ――果たしてそうだろうか? ラティークは震える拳を握りしめ、喉を鳴らした。
「情けないな、指が動かない。兄にアイラは渡せない」
 ラティークは上着を脱いだ。アリザムが無言で剣を差しだしてきた。
「斬るならば、お首を。刺すならば、胸と腹を。気絶させるなら、刃を裏にして、首を。同じく、貴方様の急所も同義です。ご武運を祈ります王子」
 ラティークは剣を見詰めた。一瞬自分も悪意に苛まれていないかを疑った。人が人を殺す。これは果たして道理か……。
 受け取った剣を鞘ごと腰の鎖にしっかりと括り付けた。
「アイラを足止めしてくれ。できたら、僕の母を探してくれ。この宮殿にいる」
 喉に嫌な唾液が滑り落ちた。ラティークは背中を向けた。
「約束の時だ。シハーヴ! 闇が消えるまで、最期まで僕と来い! 扉を開けろ!」
 命令と当時に扉に緑の風が突っ込んだ。吹っ飛ぶ如く、両側に開いた部屋は、想像していたよりもずっと広い。天空を模したらしい無数にありそうな窓には高級そうな布がかかっている。床は地面剥き出しだが、所々に砕かれた宝玉が埋められ、壁には大きな絵が飾ってあった。片方は母アマルフィだが、もう片方の顔は破かれていた。
「これは、母さん……と、顔がない女性は誰だ……」
「驚いたか? きみと僕の母が一緒に描かれている絵は一枚だけだよ」
 象が中央に倒れていた。そばに屈み込んで動かない中背のルシュディの姿があった。
「宮殿を始末し、消えた第二王子。民から見れば、国を見捨てた王子だ。如何なる時も、国を憂い、見捨てず! 例え廃墟になろうとも。それが王子たるものだろう」
 白いトーブに金の輿紐。王位継承の証拠の腕輪が左手首で光っている。立ち上がったルシュディは白い象神の面を被っていた。ラティークに幼少の記憶が甦った。
「あんただったのか。思い出した……」
 ルシュディは面を片手で押さえたまま、身動きもしない。
「兄さん。――あんた、この国に何をした」
「なにも」くぐもった声が響いた。
「なぜだろう? 突然カラムが倒れた。次々と皆が倒れ……全てはつまらぬ宝石の影響だった。それに気付くまで、数年。長かった」
 ラティークは胸の石を翳した。ルシュディがピクと動いた。
「事実を。ヴィーリビア国の至宝の宝石が、何故こんな姿になった! 何があったんだ……闇の精霊がここまで影響を及ぼせるとは思えない。精霊は、世界に干渉してはならない。人間との契約で、人に被害を与えてはいけないはず」
 ちらりと石に視線を泳がせたルシュディは「バカらしい」と冷淡あまりある口調で吐き捨てた。ラティークは更に詰め寄った。
「水の秘宝が化石だ。これほど〝絶望〟した石を見た覚えがない。アイラの表情も」
 思い出す度、胸が痛む。短い間ではあったが、アイラは心を失うほど、傷ついた。
 ――二度と、あんな表情はさせない。生気を失った、絶望の表情のアイラはラティークの絶望だ。いつだって、アイラには希望であって欲しい。
 ルシュディは重かった口を開いた。
「私が知っているは、その石がもたらした悲劇のみだが。王国を闇に任せれば、逃げた弟王子たちも戻ると思っていたよ。きみは分かりやすい、ラティーク」
 ルシュディもまた、剣を手にしていた。
「そのヴィーリビアの宝石は、見れば心安らぎ、近づけば心を浄化するという。当時、後宮は三人の徳妃の勢力下にあった。厳重な施しで、石はこの回廊に飾られた。しかし、ある夜にケースが外されていた。一人の徳妃が秘宝を手に取った。触れた貴妃は突如として美しくなった気がした。その欲深になった第一王妃レノラが僕の母だ」
 真実が近づいてくる。ラティークは剣を握りしめた。眼の前のルシュディは人か、悪魔かを見極めねばならないのに、足が震える。ルシュディは続けた。
「母は覿面に欲に溺れ、王を独占したいと願い続けた女。子供の前、民の前でも王を欲しがり、見せつけた。こうして他の徳妃との差別化を図ったのだろうね」
 ルシュディの語りは怖ろしく平明だ。
「人は欲に溺れると魔物になる。まず第三の王子の母親が遠く、ヴィーリビア界隈まで逃げた。子供はひっそりと闇に葬られたらしい」
 ルシュディは倒れた象に屈み込み、その鼻先をゆっくりと撫でた。象は薄目を開け、涙を浮かべてルシュディを見詰めていた
「残るは私の母とラティークの母のみ、勢力は真っ二つに割れた」
「では、その秘宝は」ルシュディはこれ以上がないほど、冷酷だった。
「気付いた王が隠した。見つけ出したはラティークの母アマルフィ第二王妃だ。当然処罰を受けた。私は成人していないから、処刑には立ち会わなかった。全ては、秘宝などと騒がれた、ただの石が起こした悲劇だ」
(処刑されていた……)ラティークは次々襲いかかる事実を咀嚼しては呑み込んだ。
「それで、売ったのか……あんな、酷い姿にして」
「ただの石だ。母を狂わせ、死に導いた秘宝など、この世界には不要……」
 ルシュディは相変わらず面を被ったまま、吼えた。闇の気配が濃くなった。
「きみは知らないだろう! 人の欲や傲慢が、どれだけ世界をねじ曲げるか。強すぎる力が、世界を崩壊させる可能性など、考えもしないのだろうな!」
 振りかざされた剣を受けるしかない。ラティークはとうとう兄の前で剣を抜いた。
 ラティークとルシュディ。二人の刃先が擦れ合い、火花を散らし、ぶつかり合った。
「私を殺そうとは良い度胸だ。なあ、ラティーク。おまえには何も見えていない」
 刃を交わらせ、至近距離で睨み合った。ルシュディの剣妓は巧みだった。強い。ラティークは受けた剣の柄を更に強く握りしめた。
 怯むわけには行かない。ルシュディはゆらりと立ち上がり、笑った。
「大いに結構だ。最期の王子同士が殺し合ってラヴィアンは終わりだ。幕引きは二人。そう、私だけでは終わりにできない。国とはそういう性質のものだ。分かるかい? 全てを終わりにするため、きみも道連れだ!」
 斜めに構えたルシュディから、黒い霧が立ちのぼった。
(まだ何か、理由がある。石が後宮での争乱を引き起こした? だが、そこにルシュディが絡んで来ない。――まだ兄は真実を隠している)
 シハーヴは無言で倒れた象の上に座っていた。
(安心しろ。兄を殺せ、などとは命令はしない。自分の手で決めねばならない事項だ)
「分かった」剣を握り直した。真っ直ぐに伸びた剣先は朝陽を浴びて煌めいている。
 朝がこんなにも泣けるものだとは知らなかった。朝の光は希望に満ち溢れているのに、ルシュディには日々の恐怖の幕開けでしかなかったのか――。

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