天の仙人様

海沼偲

第197話

 ルクトルは今この場にいることは出来ないと思ったようで、部屋を出て行く。俺もアオに二人のことを面倒見るように言いつけて後についていく。しっかりと力強く頷いてくれる。それだけで十分心強い。なのだが、子供だけで放置してしまうのは不安であるので、使用人にも見てもらうように言ってから出て行くわけだが。
 あそこまで、悩んでいるようだとは思いはしない。それだけ普段のルクトルはそういうところを一切見せなかったのだから。だからこそ、こうなるまで気づかなかったのだろう。それは、俺の責任でもある。彼の心のうちに溜め込んでいるガンを取り除いてあげられなかったのだから。どうにかして、取り除きたいのだが、それを可能とする術を持ち合わせてはいない。それがただひたすらに悔しく思うのである。
 彼は自分の部屋に入ってそのまま閉じこもろうとしたために、俺も割って入る。今まさに彼を一人にしてはならないというのは確信として残っていた。であるから、一緒に中に入ったのである。彼は一人になりたそうであったが、そうはさせないという強い意志を俺から感じたことだろう。最後には諦めてくれた。俺の粘り勝ちではあったが、それでもギリギリであったことだろう。出来ることなら、こんなことが二度と起きてほしくはない。だが、これから先もないとは言い切れないような気がする。気がするどころではない。何度も指摘されることは確実であろう。

「所詮は……わたしは女ではないのです。それだけは絶対に揺らぐことなく残り続けてしまいます。どれだけあがこうとも、否定しようとも、肉体は男であり続けるのです。呪縛ですね。呪いです。生まれながらの呪いなのです。最初はそうでもなかったのですけれどね、こうして、結婚して……いろいろと考えるようになってしまうと逃げることは出来ない様です。毎日考えていたのですよ。ですが、それ以上にアラン様がわたしのことを愛してくださるってわかっていたから……だから……大丈夫だって、言い聞かせていたのですけれどね……。……それが今日で剥がれ落ちてしまったのかもしれません。我慢の限界が来てしまったのかもしれません。……アラン様………………」

 震えている。今まさに彼は震えているのである。どうしようもないこの感情をどこに追いやることもできずに、ただ体の中に溜め込んでいるのだ。その弊害が出てきてしまっているということなのである。俺は肩に手を置いてやると、それでも、やはり震えが治まることはなく、嗚咽を漏らしながら涙を流すのであった。涙を拭っても、どれだけ拭っても一向に治まりはしないのであった。ただただ、涙が流れるばかりなのである。
 どうしようもなくなって、俺は彼の手を握って離すことはせずに、ただ隣に座るだけである。それだけである。彼を一人にしてはならないが、だからといってあらゆる励ましの言葉が彼の心にしみるわけではないということもわかっている。わかってしまっているのだ。だからこそ、そういう答えが出てくるわけで、その通りに動くことにする。今まさに、重要なことは、俺がルクトルのことを愛しているのだと、一緒にいたいのだと体でもって伝えることだけである。それだけしかできないことに悔しさを覚えるが、そんなものは今は捨て去って、ただ彼のために体を近づけるのばかりである。
 そもそも、俺がそんなことを思っていなければ、結婚なんてことが起きるわけがないではないか。だから、もっと自信を持てばいい。そう俺は思うのだが、彼はそうはいかないのだろう。どれだけ大丈夫だと自分を励ましたとしても、それをたやすく越えてくるかのような重圧でもって押しつぶされているのである。そればかりは、俺がどれだけ手助けをしようとも、手を伸ばそうとも、届くことはない。届けない。隔絶した壁が存在してしまうのだ。
 俺の周りには、彼のような人が他にいないというのも大きなことかもしれない。だから、この事態になった時にどう対処すればいいのかと頭を悩ませることになるわけであった。ただ、彼の悩みを解決してあげたいと思っている、この気持ちだけが先へと走っていくのである。どうしようもないこの壁をどうにかしてぶつかりに行っているのだが、それだけしか出来ないことに悔しさを感じてならないのであった。
 ぽつりと呟きが漏れ出していた。なんて言っているのか、よくわからないような、ぼそぼそと今にも消えてしまいそうな大きさなのである。しっかりと耳を澄ませて聞かなければならないような、そんな声。だが、あえてその程度の声であるならば、自分の中だけで完結させたいような内容なのかもしれない、人に聞かれたくはないのかもしれない。なんて思うわけなのだから、俺は聞き耳を立てるわけにはいかなかった。
 彼は、段々と落ち着きを取り戻していっているようで、体を俺に預けてきてくれるようになっている。より深いところで体が密着しており、彼の熱と柔らかさと、愛おしさが伝わってくるのである。俺は彼を包み込むようにして抱きしめるのである。それが大事であると、無意識的に理解できるわけなのだから。
 熱が伝わってくる。彼の熱がじわじわと俺を侵食していくかのように、ひろがっていくのだ。それが心地よさを持つのである。俺はそれを離すことなどできはしないのだ。しっかりと両腕に抱え込む。
 目が合う。お互いに見つめ合っている。それだけですべてが伝わるかのような錯覚を覚えてしまうほどである。意思疎通には言葉が必要ないのではないかと、勘違いをしてしまいそうなほどに、彼の目は一つのことを伝えていて、それを求めているのだと理解できた。俺もそれに何の抵抗もなかった。あるはずがないのだ。そのままゆっくりと顔が近づいてくる。距離なんてものは存在しない。心はもうすでに混ざり合って、溶けああって、一つであると同じであるのなら、俺たちの体もまた一つになることに障害はないのである。時間なんてかかるはずもなく、俺たちの顔はもうすでにそこにあり、そのままつながる。愛を唇で感じ取るのであった。それだけでも、十分であるほどに愛されているのだと伝わり、そして愛していると伝えられるのである。
 愛の営みに時間の概念は存在せず、永遠であるかのようで、そして一瞬であるかのような時間が流れていた。もう止めるものなんていないのだ。俺たちは今まさに世界に唯一の存在であり、誰の邪魔を受けずに愛し合うことが叶っている。それが強く認識できてしまえば、出来るほどに、愛し合っているという概念以上の価値は必要ないのであった。それを伝えるように、求めあうのである。
 時間の概念が歪むように、溶けるように、消え去っていく。何者でもなくなるかのように、ただ存在し、それが流れることなんてない。常のものへと変化していくのだから。無常が当てはまることはなく、存在し続けられるのである。常識を壊していくような、その感覚を覚えるのであった。
 離れた。夢想の世界から現実へと戻ってきてしまう。彼は最後の瞬間にまで絶対に離れたくないと俺にしがみついているようでもあったが、夢の世界にただこもるだけは逃げているともとられてしまう。俺はそれを好みはしない。彼もそれをわかっているから、何も言えずに、ただ寂しそうに俺の服の袖をそっと掴んでいるのである。だが、彼の精神はだいぶ回復したのだろうということは理解できた。先ほどまでは、ほっといたら死んでしまうのではないかと思えてならなかったが、今はただ駄々をこねているかのような愛しさが内から漏れ出している。その違いは絶大である。彼の願いをかなえようと、またしても、無理やりかというほどに、口をふさいでしまいたいと思えてしまうほどなのだから。そういう、情欲の入る隙間が出来ているということが非常に大きいわけである。

「ありがとうございます、アラン様。おかげで、まだまだわたしはアラン様の妻として生きていけそうです。こうして、アラン様が愛してくださっているのですから。愛してくれる人がいるというのに、勝手に人生に絶望し、空虚な生を送ろうとしてはなりませんよね。先ほどまでは、勝手にそこまで落ちていってしまって、申し訳ありません。次からはそうならないように、負けない心を持ちたいと思います」
「いや、いいんだ。そうして何度だって、落ち込んで絶望したっていいんだ。苦しい、悲しいという気持ちは絶対に無くなりはしない。それを面に出すことで迷惑をかけられていると思うような人間はいないさ。なんたってそれは、ルクトルが心を持った人間だっていうことなんだから。絶望しない人間はいないんだよ。だから、そうすることはルクトル自身にとっても大切なことなんだと思う。そして、そういう時には一人にならないで、俺に頼ればいい。ただすべてを忘れるかのように、逃げるかのように、俺のもとに来ればいい。それだけで十分だ。いままさに、俺たちは愛し合っていると確認しあえた。これがとても大きい。これだけの違いで、これからも生きていけるかどうかが変わってくるだろうからさ」
「はい、ありがとうございます、アラン様。あなたのおかげで、こうして取り戻すことが出来たのですから。ですが、今日は一段と寂しい心地でいっぱいでございます。ですから、今日だけは、今日一日だけは、わたしのそばにずっといて、愛してください。抱きしめてください。キスしてください。まだまだ、心の奥底は温まっていないように感じるのです。アラン様の愛が必要なのです」
「わかった。今日一日はルクトルと共にいるとしようか。そして、そのまま愛し続けるさ。それは今日では終わりはしない。永遠に、永い永い時を歩んでいくんだ。決して消えることのないものとして残り続けるんだ」

 彼のおねだりである。めったなことではない。であれば、俺はそれをかなえてあげたいと思うのも至極当然なことであった。子供たちを放置してしまっているが、今は、それ以上に彼の心の安寧のために動くことが第一なのだと思う。だから、俺はルクトルを優先するのであった。
 今日一日は部屋から出ることはなく、ゆっくりと彼の体を抱きしめて体と心を同時に温めていくように、愛し合うわけである。それだけで十分なのだと完全に理解しているのだから。たとえ、誰かになにを言われようとも、この愛が崩れて消えてしまうことはない。愛し合うことが出来るということは、それは間違いではないのだから。真に間違うということは、愛し合えないということに違いないのだから。そうではない限り、どんなものも全ては正しい事であり、真の道に通ずるのであった。
 気が付けば朝となっている。いつの間にか眠っていたらしい。ルクトルは優し気な顔で眠っている。起こすのは忍びないだろう。だから、そのままにして、ベッドから立ち上がる。覚えている限りでは、常に密着していたのだが、寝てしまえばそんなことは関係ないとばかりに離れてしまっていた。だが、それは彼自身がもう問題はないと伝えているかのようにも思えるわけで、そうであるならば、俺の役目はひとまず完了したといっていいだろう。あとは、彼が起きるまでをゆっくりと本でも読んで待っていればいい。
 もぞもぞとベッドの上で蠢く何かがいて、そしてルクトルが顔を上げる。ぼーっとした顔のままで俺のことをじっと見ているのである。まだまだ寝ぼけているようで、俺が誰かも認識していないかもしれない。であればと思って、彼の近くまで寄ると、あいさつ代わりのキスをする。軽く、そして優しく。だが、それだけでも十分なほどに愛を伝えるようにである。
 すっと彼の瞳は覚醒した。俺が誰なのかも含めて、全てが理解できたようで、今まで焦点の定まらなかった瞳は完全に俺を向いていた。そのままに、俺の首筋に噛みついて、血を吸い始める。久しぶりに、朝起きてすぐに血を吸われたかもしれない。この感覚になつかしさを覚える。俺は愛しさが溢れてきてしまい、そのまま彼を抱きしめるのであった。
 吸血行為は性欲が高まってしまうので、朝の生理現象に合わせるかのようにより大きくなってしまう。他の時間帯であれば、そうはならないが、朝だけは本能がより大きく働いているのである。それが恥ずかしいからと彼は朝に吸うのをやめたのだが、それを忘れてしまっているのだろう。一心不乱に血を全て飲み干すかと思ってしまうほどに、喉を鳴らしている。
 首筋から口を離す。そして目が合う。彼はにこりと微笑んだ。歯を見せるかのようなとても綺麗な笑顔である。そして、その口は俺の血で真っ赤に染まっていた。引き込まれてしまうほどの赤であった。すうと手を伸ばして、彼の唇へと指を触れさせるのである。

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