天の仙人様

海沼偲

第188話

 その日は普段と変わりはなかった。平凡な一日といえばいいだろうか。それほどまでに事件も何も起こりはしない、穏やかな日であった。だというのに、突然に寒気が走る。体全部から恐怖を感じ取ってしまうのである。誰かに見られているようなそんな感じがする。俺は周囲を見回すが、そんな様子は見られない。誰も俺のことに注目をしていないのだ。当然だろう。俺自身は有名人でも奇抜な人間でもない。人が俺に注目理由がないのだ。だというのに、いまだに視線を感じてならない。はっきりとしてしっかりと感じ取ってしまっているのである。そしてそれは、必ず背後からなのだ。どれだけ背後に顔を向けたとしても、またしても背後に残り続けている。俺に見つからないように動いているにしては、恐ろしく速い。人間ではないだろう。であれば、誰からの視線なのだろうか。俺の自意識過剰であってほしいのだが、ここまで、露骨に見られているとわかるような感覚はそうない。夢幻であるとは思えないほどにはっきりとしたものなのだから。
 俺は逃げるように走る。だが、いくら走ろうともそれから逃げられはしない。幻覚なのではないかと思えてきた。そう思わなくてはならない、落ち着くことすらも出来ない。そうすれば、俺はありもしない存在に対して、変におびえているということなのだから。そうでなければ何なのだ。全く訳が分からない。それがたまらなく恐ろしい。どこかへと逃げ出したいのに、それを許してはくれないのだ。気にしないことが最も精神の安寧のためには必要なのだろうが、それが出来れば苦労はしない。気になって仕方がないのだから。
 ちりちりと背後から見られているという刺激をひたすらに感じながらも、なんとか家まで帰ってきて、そのまま自室にこもるようにして入る。すると、すうと消えていく。先ほどまであった視線は感じ取れない。家に入ったからか? それともこの部屋に入ったからか? 物理的に見えなくなったからではないだろう。なにせ、俺は窓の外へ顔を出しても、視線を感じることはないのだから。であれば、何かしらの存在か、幻覚かによって、俺はこの家にいることを義務付けられているらしい。外に出れば、不快な視線による攻撃を仕掛けてくるのだと脅されているわけであった。それは、例えば守護霊とでもいうのだろうか。であったら、もう少しましな方法で伝えてきてほしい。
 ただ、もし何かしらの理由でここに居ることを求められているとすれば、これから、何が起きるというのだろうか。おそらくは、これから起きる事件にどうにか対処してほしいという思いがあるからこそ、この場に居座らせるわけなのだから、これから、何が起こるのだろうかという考えに至るのは至極当然の話である。だが、俺には未来を見通すだけの力はない。だから、想像することしかできない。それは残念ではならないが、仕方のないことだ。
 俺は立ちあがって、部屋の周りを歩いて何か異変はないだろうかと調べる。とはいえ、毎日見ているし、何かしら変なところがあればすぐに気づく。そして、それが全くないということに気づいた。つまりは、この部屋は関係ないということであろう。とはいえ、この部屋に入ってから、視線がなくなったのだから、ここに関係するのではないだろうかと思うのは当たり前の話で、何かないものかと探すわけである。
 そこで、俺の視線は一つの場所に止まって動くことはなくなった。その先には、石で出来ている羽根のアクセサリーである。それが目に留まった。そういえば、夢で出てきたということを思い出す。二回もだ。何かしらの運命を感じざるを得ない。そもそも、一回目に出てきた後、クジラオオツバメの近くに落ちていたそれを発見し、何か思わなかったのかという話でもあるが。だが、夢で起きたことと現実をそう簡単に結び付けられはしないだろう。そう言い訳じみたことを考えた。俺はそれを手に取った。冷たい。石であるために冷えているのは当然だ。と思っていたのだが、段々と温かくなってくるように感じる。ほんわかとかすかな熱を生み出しているようであるのだ。俺は、それに驚きはしたが、だからといって体に出すことはせず、かろうじて目元が歪んだ程度でとどめておく。
 ということはだ。これが俺を呼んでいたということであろうか。それならば、この部屋で視線がなくなるのは理解できた。だが、何のためにという大きな問いが残るのである。このアクセサリーには、特別な力があるのかもしれないが、俺にはそれを見出す力はない。ただの、石でしかない。そこから先に進むことが出来ないのだ。どれだけあがこうとも、それが変わる可能性は絶対にありえない。そういえた。
 とはいえ、これは俺を呼んでおり、俺を必要としているのは事実。であれば、とりあえず俺の手元に置いておいて、身に付けておくのがいいだろうか。そうしたら何があるのかはわからないが。謎の視線にさらされて、悩まされるよりは数倍もいいだろう。そう思えば、すぐに実行する。さっそくと、それを身に付ける。とはいっても、ポケットに入れておくぐらいしかできないのだが。身に付けられるような細工がないのだから。もしくは、外れてしまったか。どちらにせよ、俺にはそれしか選択肢がなかった。
 では、確認のために部屋を出てみれば、視線を感じることはない。さらに、家の外へ出ても先ほどのような不快感は全く存在しない。成功であろう。俺の想像は当たっていたらしい。そして、家の外に出ても、何も起きないということは、これが俺の近くにいたいからという理由で俺を呼びだしていただけということがわかった。何かしらの事件が起きる可能性は全くと言っていいほどないのだと理解できたわけである。

「アラン様、どうなさいましたか? 急いで家に帰ってきたと思ったら、なにも変わりなく家の外に出てしまって。忘れものでもしたのですか?」
「ん、ああ、違うんだ。ただ、思うところがあってね。これが正解なのかと実験をしていたのだよ。そして、正解だったというわけだ。だから、気にしなくても大丈夫だよ」

 使用人に心配されてしまったらしい。確かに、家に帰ってきたと思ったら、すぐに外に飛び出してしまうような人間を心配するなというほうが無理か。特に、自分の主人であればなおのこと。だから、俺は何でもないように態度でも言葉でも伝えてみるわけだが、彼女にはしっかりと伝わったらしい。気にすることなく、自分の仕事へと戻っていった。これは、俺との信頼関係が深いからこそであろうな。そうでなければ、変に不審な目を向けられていたに違いない。
 そして、羽根のアクセサリーを身に付けることが正解だとわかったわけなのだが、ならば、なぜ今になってこれを言い出したのだろうか。謎である。前からずっと俺の部屋に置いていたというのに、突然のように今になって注目を集めようとしたのはどういうわけか。その答えを見つけられることはあるのか。それが理解できることはあるのか。なさそうだ。気にはなるが、それを考えても答えにたどり着けないのであれば、今は何も考えたりせずにしていればいいだろう。頭を無駄なことに使うのはもったいないのだからな。俺は再び取り出していた、それをポケットの中へとしまった。
 そうしていると、アキが帰ってくるところであったようで、俺に気づいたら、ささと此方へと駆け寄ってきてくれるのである。とても可愛らしい。普段からの凛々しい姿からは想像できないような愛らしい表情でもって、緩み切ったままにこちらへと来るのだから。そして、表情がしっかりと認識できる距離まで近寄ると、途端にいつも通りの凛々しい表情に戻った。いや、違うな。怒っているようなそんな目つきである。誰かを睨み付けているかのようなそんな視線でもって俺を見ている。いいや、それは違う。俺を見てはいない。視線は外れていて、わずかに右にある。そちらへと顔を向けるが、なにも存在しない。気配すら感じない。であれば、何を見ている。幽霊だろうか。それもないな。それだったら、俺だって見ることが出来るわけだから。

「アラン、そのメスは何者なのでしょうか? それほどまでにベタベタと引っ付いていて、何様のつもりなのかと言いたいところです。しかも、あなたの妻の誰でもない顔と雰囲気を持っている。どういう了見なのか問いただしてみたいですね。まあ、どんな理由があろうとも、許される可能性というのは一切ないのですが」
「アキ、何を言っているんだ? 何が見えているんだ? どこにそんな女性がいるんだ?」

 俺は困惑するしかない。なにせ、空中に向かって語り掛けたのだから。その先には何もいない。何もいない場所を見つめ、そして話しかけているのだ。怒気をはらませながら。俺の言葉に全く耳を傾けてくれないというのもまた大きいところであろう。あらゆる言葉が彼女の耳を抜けていってしまうのだ。反応はしてくれるのだが、それをすべて無視して、彼女は真っすぐに、どこかわからない、何もいない場所を見ているのである。
 アキの目の前で手を振ってみる。すると、彼女は今度はこちらを睨みつけてくるわけであった。冗談では済まないと言わんばかりの威圧感と迫力でもって、俺のことを襲っているのである。気迫のみで、俺に力をかけてくる。それがたまらなく苦しく感じてしまうほどであるのだ。

「アラン、ふざけないでください。そこにいるでしょう。しかも、あなたと腕を組んでいる。今頬をこすりつけています。ふざけているのですかね。そこまでして、私を怒らせたいみたいですね。いつでも血祭りにあげられますからね」

 嫌悪感をあらわにしながら、そう呟いている彼女があまりにも不気味に見えてならない。幻覚と話しているのだから。俺はすぐにでも、意識を戻そうと試みようと思ってみるが、明らかに見えているのだ。何かがいるのだろう。ただ、俺には全く見えない何かが。精神生命体ではない。それは俺の目に映る。だったら、なにがいる?
 俺は彼女がいるといっている方へもう一度目を向けるが、そこには何もいない。いないのである。だが、いるのだろう。何かがいるのだ。いないものがいるわけであった。もしかしたら、見ている世界が違うのか。次元に歪みでも生まれているのか。一つずれた世界の中で、俺と彼女は出会っているのだろうか。だとしたら、俺にベタベタくっついている、女性はそれだけのことを平気で出来る実力者なのだとわかるわけだが。そしたら、アキには勝ち目はない。俺にだって勝ち目はない。俺は次元をつなげることは出来ても、個人ごとに、見えるようにしたり、見えないようにしたりということは出来ない。それに、大前提として、俺は次元を超えて移動することが出来ない。次元を超えて移動させることは出来ても。地獄とつなげてそこの使者を呼ぶことは出来てもその逆は出来ないのである。
 俺は、彼女に近づいて抱きしめる。そのまま背中をさすって、怒りを収めてもらうようにする。だんだんとピリピリとした空気が消えていき、完全になくなった。ようやく彼女は落ち着いてくれたようだ。そうなれば、彼我の実力差を理解でき、先ほどまでの言葉がどれほどまでに危険であったかと理解できたことであろう。わずかな不満を隠すことは出来ずに漏らしてはいるが、それでも、しっかりとその気持ちを抑えることが出来ている。それであれば、すぐにでも危険が起きることはないだろう。
 どうやら、いつの間にかいなくなっていたようで彼女の怒りはどこかへといなくなってしまった。先ほどのは俺に抱きしめられたいがための演技だったのではないかと思わなくはないが、今まで俺に見せつけていた、あの反応は完全に演技とはかけ離れているということは俺自身が理解している。演技であるのか、本心であるのかというのは露骨なまでに分かりやすいのだ。であれば、本当にいたのだろう。そして、アキを煽るかのように彼女のみに姿を現していたのであろう。一体何をしたいのか。それがわからない。
 俺は彼女が落ち着いたのだろうと思って、離れようとするが、今度は彼女に腕が背中にまで回っていて離れることは出来そうにない。あたたかな感触に包まれたままに、俺は身動きが取れないのであった。どうしたものかと思っていたわけだが、俺の戸惑いとは裏腹に、彼女はゆっくりと顔を近づけて、そのまま唇同士を触れさせる。ここは外であるというのに。誰かに見られる可能性だって十分にあるというのに。忘れてしまったかのように彼女は俺を求めてきているのであった。俺にはどうすることもできなかった。そして、どうもしなかった。
 彼女を拒絶は出来なかった。それが大きな間違いなのかもしれない。だが、俺自身は間違っているとは全く思っていないのだ。だから、平然と出来てしまう。今まさに、ルイに見られてしまったとしても。
 アキも気づいたことだろう。だが、離れはしない。そのまま、触れあわせているのだ。見せつけているのだ。その直後に、衝撃が走る。俺が殴られる。正解だろう。そうすれば、自然と、俺とアキの二人は離れることが出来るのだから。俺は彼女の攻撃を防ぐことはしないと知っているし、アキもまた、自分以外の存在に対する攻撃には反応を示さないと知っている。だからこそ、それが出来る。わずかな怒りが込められていそうな気もするが、愛ゆえの行為であると理解できるのだ。
 ただ、これから起きるであろうことに対して、俺の精神が裂けてしまいそうなほどの圧力をかけられることを思うと、あまり嬉しいことではないだろうが。ただ、それは俺自身が選んでいる道なのだ。自ら進んでいる道なのだ。逃れるわけなどないのであった。

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