天の仙人様

海沼偲

第170話

 ルイス兄さんは真っ先にマリィ義姉さんの元へと走って向かっている。どたどたと大きな音をたてて走っているために異様に目立ち、使用人たちが何度も振り返っている。俺たちも、兄さんの後を追いかけるようにして走る。王子殿下たちは早歩き程度に抑えているが。そして、おそらくマリィ義姉さんの部屋であるだろう場所に到着した。俺は寄ったことが一度としていないので、予想でしかない。ただ、真っ直ぐにそこへと到着したのだから間違ってはいないだろう。今も、扉の中からは大声を張り上げて、指示を飛ばしている声が聞こえる。
 今すぐにでも扉に手をかけて開こうとした瞬間に、兄さんの頭に大きな衝撃が与えられて、後ろに吹き飛んだ。壁に激突してしまう。少し揺れた。どれだけの威力で殴られたのか。死んでしまったかのようにピクリとも動かないので、俺たちは大丈夫なのかと思って近づいた。だが、まだ確かに息をしているために問題はなかった。そういう心配をしてしまう程度には危険な音が鳴ってしまったことにはそれなりの問題があるだろうけれども。
 しかし、今まさに扉の前に仁王立ちで立っている、女性には今の俺たちが歯向かうことは出来ない。睨み付けているかのような鋭い目つきの美人。貴族というくくりではないが、俺たち貴族が文句を言えない女性。今この場において誰よりも権力を持っているのであるのだから。何せ、彼女は産婆なのだから。
 この国において、出産時に関わっている産婆に対しては国王陛下であろうとも文句を言うことは出来ない。口を出そうとすれば、殴って黙らせられても仕方がない。子供を産むことに関わる仕事をしている人間というのは最も敬うべき人たちなのだ。だから、彼女がこの状況下において、無駄に騒ぎを広げないように最もうるさくしそうな人間を黙らせるという行為はなにもおかしくはない。産婆の中では、夫を出来るだけ早く黙らせることが最重要であるらしい。そのためには、気絶させても良しとなる。気絶してしまえば、生まれた直後に会うことが出来ないから、死ぬ気で起きていなくてはならないわけだ。俺も、これから先の未来を思うと、肝が冷える。すうと、血の気が引いていくような気がしてならない。これは、男性陣は全員が感じたことだろうか。何せ、王子殿下も同じ顔をしているわけなのだから。
 意識を取り戻したようで、がばっと起き上がった。周囲を見渡している。俺たちが何本か指をたてる。その全てに正解をしているため、問題はないと確認が出来た。意識がはっきりとしているのであれば、病院に連行されずに済むだろう。兄さんは命拾いしたわけであった。俺も、今まさに出産している最中の義姉さんを置いて、兄さんを運びたくはなかったのでほっと一息つける。手を伸ばして立ち上がらせた。首を大きく振って意識を覚醒させている。それだけの力で殴られたのだろう。ぼんやりとしているのかもしれない。

「ま、まさか……マリィの部屋に入ろうと急いでたら、思いっきり殴られてしまうとは思わなかったよ。今もまだずきずきと痛みが残っているからね。というか、マリィの夫である僕は部屋の中には入ってはいけないのかい? 何かしらできることがあるのじゃあないかと思うのだけれども。彼女はきっと初めての出産ということもあって不安がっているのではないだろうか。そういう時にそばにいてあげられるのが夫というものではないのだろうか。そう僕は思うわけだ」
「はあ……あなたはバカなのですかね? 男が出産に立ち会ったとしてただ、手をつないで励ますことしかできないでしょう? むしろ、それすらも出来ずにただおろおろと部屋をウロチョロとしているだけの場合すらあり得ます。たとえ、しっかりと動揺することがなかったとしても、正直なところ、あれはそこまで必要としません。そんなことをしなくても女性は強いので、しっかりと出産できますし、あなたから何かしらの雑菌が入ってこないように処置をしなくてはなりませんし、そもそも、私たちの邪魔になってしまいます。ならば、外に出して、待たせているほうが合理的でしょう。出産が終わればしっかりと、対面させてあげるのですから、我慢して待っていてください」
「は……はい……」

 彼女の有無を言わせないというような言い方に、ルイス兄さんは押されてしまって、ただ肯定することしか出来ないでいた。完全に勝ち目はなかった。しゅんとして縮こまってしまっているのだ。カイン兄さんは慰めるようにぽんぽんと肩を叩いた。だが、それでは兄さんの気持ちが和らぐことはない。というか、それはカイン兄さん自身の心も慰めているように見える。なにせ、自分も同じ目にあうのだとしっかりと認識し、理解できてしまったのだから。出産に男は立ち会う権利はないのだ。これは絶対なのだ。それをまざまざと見せつけられたのである。ほろりと目から何か輝くものがかすかに見えたような幻覚すら覚えるわけであった。
 静かな時間である。ただ待つだけというのは恐ろしい程に不気味に思えてならない。むしろ、俺はこうして待っていることが必要なのだろうかとすら思えてきた。なにせ、親戚ではあるが、そこまで親密ではない。一応王城にいたからこそ、ここまで来ているだけなのかもしれない。だが、新たな命が誕生する瞬間に立ち会いたくはないのかといわれてしまうと、そういうわけではない。むしろ、積極的にかかわりたいと言うだろう。だからこうして、この場で待っているのだろう。だが、それ以上にこの静けさだけが支配する空間にいることが苦しくて仕方がないのだ。彼女たちがまるで重篤であるかのような緊張感が生まれてしまっているのだ。それをわざわざ好んで耐えたいとは思わない。
 その時に、悲鳴が聞こえた。マリィ義姉さんの部屋からである。ルイス兄さんが中に入ろうと思った直後に思いっきりドア前に立っている産婆に睨まれてしまう。だが、兄さんが動いてしまうのは仕方ないことである。見えないところで何が起きているのか、どうして悲鳴が上がったのかがわからないのだから。確かに、兄さんがそれに加わっても解決することがあるかといえば、難しいところではある。とはいえ、ここで動かなければいけないのもまた事実である。妻を思えばこそ、ここで少しでも反応を見せなくてはならないのである。だからこそ、彼女も睨んだだけで終わらせる。兄さんのこの気持ちも理解できているから。
 どうにかしようとしつつもどうにもできないというもどかしさの中で時間が過ぎ去っていき、その中にいることしかできなかった。今すぐにでも確認したいこの気持ちを弄ばれているかのようだ。それがひたすらに顕著に兄さんに現れている。
 ガチャリと扉が開いて、中に入ってもいいという許可が下りた。すぐさま兄さんが飛び込むように入っていく。自分の身体能力の限界を超えたかのような速度である。それに驚いて一瞬体が止まったが、思えばそれでいいかとなるわけで、その場で立ったままだ。まずは、夫婦だけで出産の喜びを分かち合うべきだろう。その後に俺たちが入ればいい。そう思っていた。だが、あまりにもすぐに兄さんが出てきた。焦っている顔を見せた。何か自分の容量を超えたものを見てしまったのだろうか。ただ静かに、入ってくるように促してくるのである。
 少しばかり不安になる。恐る恐るという感じで、部屋の中へと入る。そこには、マリィ義姉さんがいる。笑ってはいるが、すごくぎこちないように見える。何とかして笑みを浮かべているようであった。その腕の中には赤ん坊が抱かれている。ただ、少しばかり光り輝いているように見えなくもない。というか、輝いている。光っている。黄金に光り輝いている。あまりにも異質なわけだ。その極大なまでの異常性のおかげで、脳の処理が追い付いていない。だからこそ、無表情を保てているかもしれない。だが、それもすぐに崩れる。ようやく処理が追い付いてしまったからだ。あり得ないことが今起きていると脳が教えてくれるからだ。
 しばらく経つと、光が収まって、普通の赤ん坊に戻った。顔を除いても、少しの異常性も見られない。いや、先ほどまでの異常性があまりにも大きすぎるために、他にも小さい異常性が見られるかもしれないが、俺には一番最初に見てしまったそれのあまりの大きさのせいで隠れてしまっているのかもしれない。まかれているタオルを外して、体をとりあえず確認してみるが、男の子だったということ以外はわからなかった。
 ポカンとしているかもしれない。顔が崩れている可能性はあるだろう。ただ、どうしようもないほどに、衝撃が強すぎる。あの大きな異常をどう受け止めればいいのかがわからないのである。みんな何も言葉を発することは出来ずに、ただ赤ん坊を見ているのである。
 ルイス兄さんは思い切り頬を叩いて気を引き締めた。たしかに、どんな子供であろうとも、自分の子供には変わりはない。むしろ、どんな反応をすればいいかと戸惑っていることを恥じているのだろう。俺はその姿をみて、安心をした。少なくとも、新しく生まれた赤ん坊は幸せに生きることが出来るだろう。それがわかったのである。

「ごめん、みんな。いったん部屋から出て行ってほしい。子供が新しく生まれたというこの実感と幸せを、まずは二人で分かち合いたいんだ。さっきは、あまりにも突然のことで、戸惑いと不安が押し寄せてしまったが、もう大丈夫。自分の心は後で処理するとして、まずは、喜びたいんだ」
「わかったよ、兄さん。おい、アラン。さっさと出るぞ」

 俺たちは部屋から出て行く。今度こそしっかりと、幸せを分かち合えることだろう。ならば、それを邪魔してはならない。むしろ、今日一日はそうするべきだ。であれば、今ここに居る意味はない。明日以降でいいのだから。明日以降でなくてはならないのだから。だから、俺たちは王子殿下に挨拶をして帰るのである。何かあったら連絡があるのだろうから。
 次の日である。次の日にまたしてもルイス兄さんに呼び出された。今度は何かと思って王城へ向かってみれば、にこやかな笑顔で迎えてくれた。隣には二人の義姉さんが立っている。俺たちもまた、妻であったり婚約者であったりを連れてきているわけだが。なにせ、新しく生まれた赤ちゃんを見たくないというような女性はいないのだから。だから、無理を言ってついてきているわけであった。
 女性陣は、女性陣で固まって話すとして、俺たち男は男同士で集まる。ただ、あまりにもとろけたような顔を俺たちに見せつけてくるわけである。とても幸せそうなわけだが、この後どんなことを言われるのかというのがあからさまにわかってしまう。がしりと肩を掴まれて部屋へと連れていかれる。このままではのろけ話を延々と語り続けることだろう。だが、別に構いはしない。なにせ、俺たちすらも巻き込むかのような幸せなオーラを吹き出しているのである。それを俺たちにも分け与えてくれるというのであれば、それを素直に頂きたいところである。
 それは夕方まで続いた。最後の方には俺たちもまた穏やかな顔で兄さんの話を聞いていた。人の幸せというものが色濃く、ぶつけられてくると、こちらすらも心地よく思えてくるわけである。まだ聞いていてもこちらとしては問題ないが、兄さんの方で予定があるわけだからと、俺たちは帰路につく。その途中でハルたちと合流して、大人数であった。
 ゆっくりと夕焼けの町の中を歩きながら、こつこつと口音が響く中、皆は赤ん坊の可愛さについて語っている。どうやら、生まれた直後は黄金に輝いていていたということも効いていたみたいだが、それでも、新たに生まれた命というものの愛おしさには些細なことでしかないようである。
 兄さんとも別れ、五人で帰っている。すすと近寄ってきて腕を抱きしめている。上目づかいでこちらを誘惑しているかのような視線に俺は、頭をなでて誤魔化した。彼女たちも、赤ちゃんが欲しいのだろうという感情を一切包み隠すことなくこちらへとぶつけてきているわけである。ただ、その中で唯一、ルクトルだけが羨ましそうでありながらも、哀しそうな、そんな表情をわずかに見せながらも出来る限り表に出さないように、努力しているかのように笑みを浮かべている。彼をぐいと引き寄せて、ぐしぐしと頭をなでる。彼のほんの僅か見せている寂しさを紛らわすようにである。これでどうにかなるかはわからないが、彼が今まさに見せている悩みを出来る限りためさせないように努力をしなくてはならない。難しいことではあるが、しなくてはならないのだ。

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