天の仙人様

海沼偲

第148話

 今回の新聞配達員は犬である。大型の犬である。オオカミであるかのような凛々しい顔つきをしている。全く関係のない雌犬が尻尾を振って発情をしているのだが、それを無視して仕事を遂行している。彼から新聞を受け取ると、ふりふりと尻尾を振りながら次の配達場所へと向かっていった。どうやったら、一人で配達できるようになるのか気になる。どれほどの調教技術がいるのだろうか。だが、ああいう光景は珍しいものではないのだ。
 俺は今もまだ眠っているカイン兄さんのために、バルドラン家が保有している屋敷から通っている。兄さんがそこでずっと寝たきりになっているのだから仕方がない。さすがに、寝たきりの兄さんと使用人だけを残していくことは出来ないだろう。それと、サラ母さんも残ってくれている。他の二人は仕事があるのだからと、領地へと戻っていってしまったが。これは仕方がない。ほったらかしに出来るようなことではないのだから。やはり、なんだかんだといって俺の心のどこかでは心配していて気が気ではないのだろう。
 俺は食堂に足を運ぶと、母さんと俺の朝食がもう配膳されていた。先に、母さんが席についているので、俺もすぐに席に着く。そして、二人がそろったところでいただきますの挨拶をしてから食べ始めるのだ。家族二人しかいない食事というのも、まあ新鮮である。こういうことは今後一切あってほしくはないが、たまには、母さんと二人で会話を楽しみながら食事をするというのも悪くはないだろう。俺はそう切り替えることにしている。カチャカチャと食器の鳴る音と、俺たち二人だけの会話が響いている。いつもであればもっと音は複雑になるのだが、この単純な響きのみでは、静かであるという感想が大きくなってしまう。ただ俺たちは、そのような寂しさを紛らわせているように言葉を紡いでいるわけである。忘れるように、思い出さないようにと。
 すると、食堂の扉が開いてきて、カイン兄さんが中に入ってきた。もう食事が始まっているというのに、なかなかに遅い起床である。今日もまた起きないものだと思っていたから、料理人たちは料理を作っていない。だからこそ、今兄さんが起きていることに慌ててしまっているのだから。とはいえ、すぐに厨房に戻って、軽くでもいいからと朝食を用意しようとするのは立派な心掛けである。だが、突然仕事が増やされることはあまり好ましくはないだろう。俺は心の中でひっそりと彼らに謝罪をするのであった。

「すまない! 心配をかけてしまって!」
「けっこう遅かったね。どれだけ寝坊したと思っているのかわかっているのかい? かろうじて呼吸をしていたから、死んでいないのだなとわかっていただけなんだからさ。もし、それすらもなかったら、今頃は棺桶の中かもね」

 俺は、冗談交じりに言う。というか、今この場で言葉を発しているのは俺しかいなかった。他は全員がピクリとも動くことなく固まっているのである。何か変なものでも見たかのような顔つきをしている。きっと、幽霊でもいるのだろう。少しばかり、ユウリが侵入していないかと周囲を見回すが、どうやら、いないようだ。というか、最近は彼女があまり俺に近づいてくることは少ない。もしかしたら、俺以外に気の置けない仲の友人を作ることが出来たのだろうか。それは喜ばしいことだろう。だが、ルクトルの監視の目を潜り抜けて俺に会うことが相当に困難なだけかもしれないが。ならば、仕方のないことかもしれない。
 カイン兄さんも俺のこの態度に度肝を抜いているかのように目を見開いている。何をそんなに驚くことがあるのかと、問いただしてみたいものである。ただ、自分の兄さんが起き上がっただけの話だろう。それに一体どう驚けばいいのだろうか。たしかに、今の今まで死んだかのように眠りこけてはいたが、それだけである。いずれは起きるだろうし、そして、今日起きたというだけである。どれだけ俺の心の奥底で心配していたといっても、それ以上に兄さんならば起きてくるだろうという信頼の方が大きいというだけの話でしかない。ならば、それをそのまま受け入れるだけだろう。だから、俺はこの事実にそこまでの驚きはないのである。まあ、嬉しいか嬉しくないかで言えば、嬉しいことではある。それは別に顔に出す必要はないと思ったまでの話だ。
 兄さんは俺の対応に戸惑っているようではあるが、とりあえず席に座った。そして、すぐさま配膳された料理を食べていく。今この場では、俺以外の全員がどうしたらいいのかと頭を悩ませているのだろう。なにせ、今は食事中なのだ。だから、大声を上げて、喜びの感情を吹き出してはならない。それは汚いから。食事中に大騒ぎをしてしまうのはみっともないことだろう。それは後でしなくてはならない。実際に母さんはそれをこらえて、静かに食事をとっているのだから、使用人が歓喜の声を上げることは許されないだろう。とはいえ、先ほどまで流暢にしゃべっていた、母さんが一言も発することなく、もくもくと、料理を口に運んでいる姿を見るのは、何ともほほえましく感じるが。一言でも話してしまえば、発狂したように叫んでしまうのだろう。それをわかっているからこそ、言葉を発することをこらえているのだから。
 そして食事が終わり、全員が食堂を出たところで、今まで我慢していた感情を爆発させるようにして、母さんが兄さんに抱きついた。思い切り涙を流して大声で泣き叫びながらである。それにつられるように周囲の使用人も涙を流している。俺も、その光景に涙をもらってしまう。やはり、俺もなんだかんだで兄さんが起きてくれた喜びを、あの場で出さないようにしていただけらしい。だが、男としてのプライドが、兄さんに抱きつくことを拒絶しているわけではあるが。少なくとも、母さんのような行動はとることはないだろう。あれは、母親だから出来ることなのだ。

「よかった。……あなたがこうして起きてきて元気な姿を見せてくれてよかった。二度と起きてこないのかと思っていたわ。だから、こうして、あなたと顔を合わせて、こうして抱き合うことがたまらなくうれしくて仕方がないの。子供の前でみっともなく涙を見せてしまうような弱い母さんだけど、許してね……」
「母さん……。構わないよ。むしろ、オレの方こそ許してほしい。今の今まで母さんたちを心配させてしまったんだから。こうして起き上がってきたけど、それまで、眠ったままで、皆を心配させて迷惑をかけてしまったんだから。怒られてもおかしくはないんだ。むしろ、母さんはオレのことを怒ってもいいんだよ。親不孝者だって罵ってもいいんだよ」
「そんなことできるわけないじゃない。あなたがこうしてちゃんと起きて、私と話をしてくれているというだけでとっても幸せなんだから。そんなことで怒れるわけがないじゃない……。カイン、こうして私たちに、私たちのためにも、起き上がってくれて、目を覚ましてくれてありがとう……」

 二人の抱きしめ合う力は強まっていく。逃がしたくないとばかりしっかりとつかんでいる力は再び離れてしまうことを恐れているように震える。だが、しっかりと力強く抱きしめることで、不安というものは消えていき、飛んで行ってしまうのだから。誰にも邪魔をしてはいけないのだから。それは絶対なのだ。
 と、こんな雰囲気のなかにあるわけだが、それでも学校を今日も休もうなどと言うことはない。残念だが、登校してもらう。だが、しばらくはこちらの屋敷に帰ってくるように言われていたが。俺は寮に帰ってもいいらしい。俺は常に顔を合わせて目が覚めているということを自覚しなくても大丈夫なのだろうと、兄さんが言っていた。確かにそのとおりであるわけだから、寮に帰ることとしよう。
 俺と一緒に登校していると、面倒くさそうな顔をしている。たしかに、起きてすぐだとこの喜びを家族で分かち合うために休むかと思ったかもしれないが、母さん本人が学校に行くように言ったのだから、行くしかないだろう。それに、今まで欠席していたのだから、それに合わせてすぐにでも授業に参加しなければ、差は広がっていく一方だろう。まだかろうじて、卒業の季節ではないが、もしかしたら、最後の最後で、兄さんは主席の座を奪われるかもしれない。まあ、そうなったらそうなったで、別に普通のことだが。むしろ、最後まで主席を守り続けることが出来るルイス兄さんの方がおかしいといってもいいだろう。そこまで落ち込むことではないだろうが、五年間その座を守り続けていながら最後に逃してしまうというのも悲しいだろうし、兄さんは登校しているわけである。
 と、いつの間にか兄さんの手の中に花瓶がある。どうしたのかと聞いてみると、どうやら、上から落ちてきたらしい。たしかに、上を見れば、恰幅のいい女性が申し訳なさそうに、手を合わせている姿が見えた。まあ、割れずに済んでよかったと思っておけばいいだろう。そして、兄さんはそっと飛び上がり、窓のふちに花瓶をやさしく戻すと、こちらへと戻ってきた。恐ろしく軽やかなジャンプであるし、また着地でもある。一切の音を出さないというのは、どういう技術か。少なくとも、多少の音が出るというのに、兄さんは少しも音を出さないのだ。仙人の耳ですら、聞こえないほどの音である。しかも、それに何の疑問を持っていないというところがまた末恐ろしい。俺は兄さんが起きて、ようやく驚愕の顔に包まれることとなった。

「どうしたんだ? あ、もしかして今のか? まあ、いろいろあったんだよ、オレが寝ている間にな。非常につらく苦しい戦いではあった。死を覚悟したことは何度あっただろうか。だが、そのおかげで、こうして帰ってこれたんだし、贈り物も貰った。あまりよくわかってはないけれど、だんだんと、こう、頭に流れ込んできているんだ。自分が手に入れた新しい力ってやつを。特別にすごいことが出来るような気がするわけではないが、今までできたことがより繊細に出来るような気がする……」

 兄さんは、心底楽しそうに話してくれる。だが、そこでわかる。兄さんはたしかに試練を乗り越えたのだと。大神之御子様からの試練を乗り越えて今ここにいるのだと。そうなれば、今の兄さんに勝てる人間などいるのだろうか。少なくとも、いないのではないだろうか。なにせ、力のレベルが一つも二つも上がっていることには違いないのだから。俺はかすかにめまいを感じる。寝て起きたら、本当に強くなっているとは。俺の実力では、追いつくのに、どれだけの時間がかかることだろうか。今の兄さんは英雄譚に描かれているような使徒と同じだけの力を持っているということなのだろうから。あまりにも遠い壁が唐突に生まれた。
 そんなわずかばかりの嫉妬のような感情を腹の奥底に湧かせており、そして、それをできる限りすぐさま捨てていると、学校に到着した。兄さんは久しぶりの学校だからと、少しばかり感動しているようである。現実では相当な時間寝ていたが、どうやら、夢の中でも気の遠くなるような時間を戦い続けていたらしい。しかも、休む暇はなかったとか。大変だったのだと俺は、少しだけ同情する。そんな戦場に身を置いていれば、心が腐ってしまうだろうが、兄さんはそうではないのだから、さすがなのだろう。それとも、生まれた時から心が腐っていたのか。後者ではないことを祈るとしよう。
 すると、学校の中から悲鳴が上がる。しかもそれは、俺たちの方を向いている生徒からであるようだった。何があったのかと、同じ方向を向いた生徒もまた、悲鳴を上げている。というか、これは兄さんが原因ではないだろうか。なぜなら、兄さんは学年主席であり、しかも最上級生でありながらしばらくの期間を休んでいたのだから。先生たちはどういう理由で休んでいるのかは知っているし、生徒の中でも、決闘の様子を知っている人たちも知っている。だから、今こうして兄さんがこの場にいるということに驚愕しているのだろう。中には、兄さんは死んでしまったのだろうという噂までもがにわかに話されていたものだ。どうにかしてその噂を消そうと先生たちは動いていたようだが、実際に兄さんが登校していないとなれば、その噂は強力な力を持って生きてしまう。それは簡単に抑えられるようなものではないだろう。
 俺は、この状況を兄さんに説明する必要はないと、口を閉ざす。少なくとも、兄さんにとってはメリットがないことだろう。確かに、この現状はどういうことなのかと戸惑うだろうが、しばらくすれば治まる。ならば、どうしてこんな騒ぎになっているのかを知る必要はないのである。なにせ、死んでいると思った兄さんが実は生きていたということに対する驚きなのだから。これは精神を削られる衝撃であろう。だからこそ言わない。心優しい弟からの気づかいなのである。
 教室まで兄さんと別れる。兄さんが教室の中に入ると、これまたひときわ大きな悲鳴にあふれかえっているのがわかった。だが、俺は何も言わない。むしろ、言った方が傷つかないのではないだろうかとすら思うほどだが、俺は何も言わない。静かに自分の教室へと足を運ぶのであった。

「天の仙人様」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く