天の仙人様

海沼偲

第114話

 彼……いや、肉体は彼女へと変貌を遂げてしまったのだから、彼女と呼べばいいのだろうか。性別すらも何といえばわからないほどに曖昧になってしまった、元少年の幽霊がいなくなってからも、たまには、今どうしているのかなどと考えてしまうのであった。いまは、もういない存在なのだが、何か月もの期間を一緒に過ごしいていればそれなりの情が湧いても変ではないだろう。今この場では、ああするしかなかったと思ってしまうわけなのだが。俺は、彼女にああいう態度をとってしまったことを少しばかり悔いている。もう少し、上手く対応できたのではないだろうかと。

「そんなことなんて、気にするだけ無駄よ。なにせ、終わったことは終わったことなのだから。終わったことを後悔しているよりも、これからのことを考えたほうが有意義だと思わない。たとえば、私たちが大人になって結婚してからのこととかね。将来何人の子供が欲しいかとか、話し合ってもいいと思うわ」
「ハルちゃんみたいに、圧倒的に先の話を思い描くのは笑っちゃうけど。たしかに、過ぎてしまったことに思い悩んでいるのはもったいないと思うな。だから、忘れて楽しく過ごしたほうが、とってもいいと思うな」

 彼女たちは、俺のことを励ましてくれている。俺がどういう性格なのかを知っているから、気にしすぎないようにと、言ってくれるのだ。確かにそうだろう。これを考えても、俺には過去を改変することは出来ないのだ。だから、思い悩むだけ無駄なことなのだろう。それはよくわかっている。
 しかしながら、それは定期的に俺の頭を支配していくのである。どれだけ気にすることをやめようと思っていても起こってしまう。馬車に乗っていても、ぼーっとしながら、そのことがふと頭によぎってしまうのであるのだ。何かを考え続けていればいいだろうが、常に思考し続けることは無理だ。そして、ほんのわずかな脳の暇な時間を、その問題がするりと隙間を抜けるように現れてくる。これは、俺のわずかに残っている罪悪感からくるのだろうか。もしかしたらそうなのかもしれない。あの対応がどれだけ最も正しいことであろうとも、俺の、俺自身が納得できるような対応ではなかったということなのだから。
 呆れた。軽く笑みを浮かべる。自分自身をバカにして、嘲笑っているかのようなそんな笑み。それが俺の表情に出ているのだ。誰にも見られたくはない。だから、窓の外に顔を出して誰にも見られないように笑うのである。声にも出さずに、静かにかすかに笑っているのであった。
 俺の目の前には、学校内の寮の自室がある。その扉が見えている。これからは、完全に一人だというのに、どうも釈然としない。もしかしたら、俺の深層心理としては彼とずっと一緒にいることを望んでいるとでもいうのかと錯覚してしまうだろう。守りびとが言っていただろう。そんなことはないと。彼女は、人の心の奥底までを見透かして、自分たちの害意を敏感に感じ取れるのだ。つまりは、俺が彼をどうにかして引き離したいと考えていたというのは本心なのだ。それに間違いだということこそ間違っている。だからこそ、彼女はその手助けをしてくれたのだから。俺自身の思いとしては、こうなることを最も望んでいたのだから。頭を悩ませる必要などないというのに。むしろ、清々したと悪態をついてもいいだろう。
 それだけというのに、心に残る。嫌な風に残ってしまった。ミスをしてしまったのだ。あの後が。だが、後悔はどうすることもできない。どうあがいても、やり直すことは出来ないのだから。
 俺は扉を開けて中へと入る。一歩、二歩と部屋の中へと侵入していく。そして、扉を閉めると同時に、誰かに抱きしめられる。顔が柔らかな感触に覆いつくされる。あまりの出来事に俺の頭はパニックに陥っている。予想もしていない出来事が唐突に来てしまえば、そうなっても仕方がない。頭の処理速度が特別優れているわけではないのだから。それだけは確かにわかった。むしろ、それ以外の全てがわからなかったのであった。
 明かりがついた。その何者かが俺から離れてくれる。距離をとれたことにわずかな冷静を取り戻すことが出来た。とはいえ、まだかすかな混乱が残っている。そうして、その何者かの顔をみるのである。すると、その顔はつい最近、俺の心をむしばんでいる人物の顔であったのだ。その顔が今まさに俺の目の前に存在しているのだ。
 俺は何も言うこともできず、口を開けるばかりなのである。どうして今ここにいるのかと問い詰めたくなるが。今わかることは、どういうわけか、彼か彼女が俺の目の前に立っているということである。俺があの時別れを告げた元幽霊の少年が、またしても俺の部屋にいるのである。

「ねえねえ、どうだった? 大人のお姉さんのおっぱいの柔らかさ。僕は、小さい頃のお母さんのおっぱいの記憶しか存在しないからね。大人の女性のおっぱいってこんなに柔らかいのかと驚いているんだ。自分の母親のおっぱいの柔らかさなんて覚えていないようなものだからね。赤ん坊のころの記憶なんてふわふわとしていて、あやふやみたいなものだからさ。だからね、アランくんにも教えてあげたいなあって思っていたんだよ。ねえ、ほらちゃんとしっかりと触ってみて」

 元少年は、ゆっくりと俺の手を取って自分の手に当てている。自分からしたことだというのに、顔を赤く染め上げているのだから、しなければいいのにと思ってしまった。そして、その柔らかさは確かに、俺が今まで触ったことのある乳房の感触そのものである。どうして、目の前の人物が触らせてくれるのかがわからないわけだが。俺の頭はより大きく混乱していくのである。これは、新手のドッキリだと言われた方が納得できるだろう。それほどまでに、パニックと言えた。
 ドキドキと、乳房の奥から心臓の鼓動が聞こえる。人形に心臓はあるのかと気にはなるが、確かに今まさにこの肉体の奥に心臓が存在しており、胸を鳴らしているのである。それはだんだんと早鐘を打っていき、それと同時に顔も真っ赤に変化していく。目つきもとろんと酔っているかのように変わる。
 近づいてきた。俺とでは身長が大きく違うから、見下ろされているのだが、その遠かった二つの顔が近づいてきているのである。そうして、二人の唇が接触したのだ。触れ合っている。これは確かなことだ。俺たち二人の唇が確かにつながっていると俺の全身が答えてくれているのだから。
 ゆっくりと絡まるように抱きしめられる。中も混ざり合っている。情熱が口の中から広がっているのである。今この瞬間の俺たちは、深い愛情に包まれている恋人同士に見えてもおかしくはない程であった。俺がそれにたまらなく混乱していたのである。どうしてこんな事態になっているのか理解できなかった。
 顔が離れる、お互いの顔がしっかりと全部見える位置にまで遠ざかっている。熱をもってより、色っぽくなっている。女性的な、魅力を出しているのだ。元少年だというのにもかかわらず。どこで覚えたのかと聞いてみたくはなる。

「君は、男ではないのか。どうして、俺なんかとキスをしたんだ。いいや、別に嫌だとかそういうことではないのだけれども。しかし、女の肉体をもらったからと言って心まで女へと変質することはないだろう。だからこそ、俺は今頭がおかしくなってしまっているのだろう。今この現状が全く理解できないんだ。全く、すべてがわからないことばかりだ。もしかして、世界は今この瞬間一回滅んだのか? そして、似たようで、全く違うパラレルな世界に俺は生まれたのか?」

 あまりの混乱に、訳の分からにことを口走っている。しかし、彼はそれをおかしくただ笑っているだけで、それが嘘なのだということを言っているのだ。ならば、これは俺が今まで知っている世界のその続きなわけだが、むしろ、そうなればなるほど理解が出来ないということで、覆われてしまう。今まさに、答えを教えてくれる誰かの存在を求めてしまう。

「僕はね……もう男じゃあないんだ。肉体は女なんだ。つまりは、心がどれだけ男だと叫んでも、もう女なんだ。それを、僕は受け入れたということだけ。ならば、女として僕は幸せになりたいだろう。だから、君とキスした。アランくんとキスしたんだ。とっても気持ちよかった。全身が震えるように感じたよ。ああ、これが幸せということなんだと確かに実感できたんだ。まあ、初めてのキスを誰に上げるかと考えた時に真っ先に思い付いたのがアランくんだからね。だから、ちょうどいいというのもあったんだ。やっぱり、最初は素敵な男性とじゃないとね」

 彼……いいや、もう彼女だ。身も心も彼女へと変わることを受け入れている。男である全てを捨て去ってしまったのだ。だから、今から彼女は、彼女として生きるのである。ならば、俺が男を引きずることはなかろう。今まさに、新たな女性が生まれてしまったのだという事実だけが残るのである。
 俺は受け入れた。もう、元幽霊の少年はいなくなってしまったのだから。唐突に、あそこの石碑は意味がなくなってしまったとふと思い返した。俺はどこかに座りたく思って、ベッドに腰かけた。すると、彼女もまた、俺の隣へと腰かけるのであった。そして、俺の手に触れる。握る。俺の顔をじっと見たままに離さないのである。

「君が、女性として生きていくということはわかったさ。だが、だからといって俺と一緒にいることの説明にはなっていないだろう。別に、俺以外にだって多くの男はいるんだ。俺と一緒にいる必要はないと思うけどね。俺に対して、素敵だと言ってくれたことは嬉しいが、俺以外にも素敵な男というのはいるだろう」

 彼女が俺がしたことに対して一切不満を持っていないようなので、そこは安心しているのだが、それでも、今もまだ俺のそばにいるというのは不思議であった。むしろ、他の人間ともコミュニケーションが取れるようになっているのだから、俺以上に優れている男を探したほうが良いだろう。俺のことを素敵な男だと思っているようで、だからこそキスをしてくれたわけだが、それは他の男がどういう存在かを知らないだけなはずである。俺はそう思ったのであった。

「百年間、誰とも会話も触れ合うこともできずに一人ぼっちでいるところに、たった一人だけ僕とお話が出来て、触ることが出来て、とり憑いていても、なんだかんだ言って、僕のことを大きく拒絶することはなくて……そんな人が現れたら、その人のことを素敵な人だなって思ってもおかしくはないでしょ? むしろ、それ以上の人って存在するのかな? 見たことも、聞いたこともないよ」

 俺は彼女の方を見た。顔を赤く染め、恥ずかしそうにもじもじとしている。仕草の一つ一つまでもが愛らしく思えてきてしまう。俺は、彼女のその想いに答えなくてはならないだろう。それが誠意というものだろう。俺は、わずかに口を開いて――

「なーんてね、嘘。ただ、アランくんをからかっているのがとっても面白いからなんだよね。全てにおいて、いろんなことにおいて、アランくんは真剣に考えてくれるでしょう。今までも、悪ふざけでもアランくんは、しっかりと僕のことを見てくれていたからね。あの時の真剣な目。いいよねえ。だからね、こうやって、アランくんと一緒にいると個人的に楽しい。だからいるだけなんだよ」

 俺はからかわれていただけらしい。あっけらかんと、ニコニコとした笑顔を振りまいて言っているのだから。またしても、彼女には精神的に疲れさせられることが多くなるのだろうということを予感しているのだ。めまいがすることだろう。バカバカしく思えた。彼女の言葉を真剣に受け止めてしまったことが。そりゃそうだろう。彼女は元男なのだから。そう簡単に同性を好きになることは出来まい。昔から、同性愛を肯定している背景があるとしてもだ。

「あー、でも……アランくんがおっぱい触りたいって言ってくるんだったら、まあ、特別に触らせてあげてもいいけどね。触りたい? モデルぐらいに大きなおっぱいを触る機会なんてそうそうないと思うなあ」

 彼女は、またしても俺をからかうように、いたずらっぽく言うのであった。俺は何も言うことが出来ずにいた。ただ、彼女が誘惑してくるように胸を押し付けてくるのを静かな目で見ているだけである。

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