天の仙人様

海沼偲

第101話

 森の姿は変わっておらず、今までのように俺たちを迎え入れてくれた。静かに波風が立たないようにと、木々も草花も、動きを見せずに、俺たちのことを見ている。俺たちは、いつもの三人に加えてルクトルまでもが、この森の、聖域の中へと入ってきているのである。彼は今までここに来たことはないから、非常に驚いた顔を見せているが、この景色を眺めていることに対する興奮よりも、これから行われるであろうことに対する恐怖心で頭がいっぱいなようで、顔を青ざめさせるばかりである。本当に今の彼の顔は青いと言ってもいいのだ。もともと白い肌をしているために、気分が悪くなれば、その様子はより顕著に見えてしまう。だが、俺もまた何も言うことが出来ずにいるのであった。
 じっと、ルクトルの目の前に立ち、見下ろしているハルの姿。その目には怒りという感情すらも表には出さずに、静かに彼のことを見ているだけである。なぜ、あの場に俺がいないのかと、俺を矢面に立たせて、避難しないのかと、言いたくなる。だが、俺は今この場では最も発言権を持っていないのだ。誰にもなにも話しかけてはいけないのだ。だから、じっと、皆の心の中を想像することしかできないのである。俺の額からも汗をかいてきているのが感じられる。この場で何の発言することも許されずに傍観に徹することがどれほどの苦しみをもたらしているのか。それがわかっているのだから。
 我慢比べに近いのかもしれない。ただ、何も言わないでこのままの状態を維持しているわけなのだから。最も、我慢できていないのは俺であると言えるだろう。今この瞬間に、頭をこすり合わせて、謝罪をしてもいいだろうか。いいや、謝罪をするべきなのか? 誰にするべきなのだ? 俺は浮気をしたのか? そうではないだろう。だが、彼女たちに報告をしていなかったということは確かである。ならば、俺は彼女たちに謝るべきなのは確実であろう。だが、彼女たちは俺の謝罪では許そうという思いがあるわけではないということは、すぐにでもわかるというものである。全ての怒りの矛先が、ルクトルただ一人に向かっているのだから。俺には一瞥もせずに、彼にのみ視線が向いているのだから。この時点で俺は外されてしまっているのだ。彼女たちの私刑を黙ってみていろと言わんばかりであった。
 ルーシィがこちらへと顔を向ける。にこりと笑った。それだけであった。それ以上は何もない。だが、それだけですべてがわかってしまうのだから。今すぐに地面に頭をつけて神にすら救いを求めてしまいたくて仕方がないのであった。だが、救いはない。これだけは確かであると胸を張って言い切れてしまうのであった。たとえどんな展開が待っていようとも、そのどれにも最善はない。

「ルクトル、あなたは何をしたかをわかっているのよね? あなたが犯した大変な罪を。これは、してはいけないことなの。絶対に犯してはいけないこと。あなたのこれからの人生全てでもって償えるのかしら。いいえ、償えないわ。そうよね。なにせ、私のアランを勝手にそそのかしていたのだから。この意味がわかるわよね。使用人の分際で、なにを勝手に自分の主人と恋仲になろうなどと思ったのかしら。本当に、失礼な男だわ。いいえ、男ですらないわ。でも、女でもない。どちらでもない。こんな下劣な使用人なんて、この家には必要ないと思わない。自分の婚約者を奪ってしまう可能性すらある、危険な泥棒を、家に置いておきたいと思う、主人はいると思うかしら?」

 彼は何も言えない。何も言わない。俺は口を開いてやりたい。ならば俺を責めてほしいと。彼を愛した俺の責任でもあるだろう。ならば、なぜ俺を責めてくれないのだ。どうして、俺に責任を押し付けようとしない。ここで、攻撃されなければ、何のために男をやっているのか。ただ、彼が責められるために男をやっているわけではないだろう。どうして、彼女たちは俺を見てくれないのだ。俺に怒りをぶつけてくれないのだ。これは、俺がどれだけ声を上げてみても意味がないことは確かであった。彼女たちは彼のみを攻めるということは永遠に変わらない。俺の口先一つで変わるような緩いものではないのだということはしっかりと理解できてしまっているのだから。
 しかし、ルクトルの目つきがだんだんと普段のものへと変わってくる。しっかりとした意思をもって、彼女たちのことを見返しているのであった。その変化に彼女たちもまた訝し気に顔をしかめさせるのである。

「わたしは、アラン様のことを愛しております。この世の全ての、誰よりも愛しております。これだけは決してまげられません。わたしにとっての運命の人はアラン様なのです。これは出会ったときに確信したのです。だから、あなた方に、どれほどまでの責め苦を受けようとも、わたしは、アラン様のことを愛し続けます。死んでも、あの世で永遠に愛し続けます。幽霊となってもいいです。そうして、夜にアラン様に会いに行くのです。ああ、とても素敵ですね。ならば、わたしには、死ぬということが怖くありません。追い出されることも怖くはないでしょう。だって、わたしとアラン様は永遠に結ばれてしまっているのです。この体も心も、すべてがアラン様に染まっているのです。あなたたちには出来ますか? 出来ませんよね? この血肉を、全てアラン様によって、構成されていると自信をもって、胸を張って言い切ることなど。わたしは言い切れますよ。なにせ、アラン様を、この身にの糧にして生きてきたのですから。はは、そうであれば、最もアラン様を愛して、愛されているのはわたしではないですか? その時点で、わたしの体が男であるという些細な事実など、意味などなさないのです」

 彼は、ハルの瞳を見返すようにして、言い放った。全てをよどみなく、言い切ったのである。当然、彼女の怒りが収まるわけはあるまい。だが、その怒りに任せようとも、その彼の瞳からは今言った言葉がすべて本当であると、伝わってきてしまうのだから。死んだとしても、必ず俺に会いに来るだろう。それだけの信念が伝わってきてしまうのであるのだ。それだけで、彼女はルクトルを殺すことは出来ないのだ。どんな処罰を与えようとも意味がなさないとまで感じ取れてしまうのである。

「あなたは男よ。男が、男に愛なんて、恋なんて抱かないわ。そんなことはあってはいけない。そうしたら、アランを守るには、女だけを近寄せないだけではだめになってしまう。男すらも近寄せてはいけないことになってしまう。アランの周りに誰も近寄らせてはいけなくなってしまう。そんなことはあってはいけないの! だから、あなたはアランを愛してはいけない!」
「あるのです。……あるのです。今まさに起きている。人が生まれた時から存在していて、それがあり得るのがこの世なのです。わたしは、アラン様を愛しています。ええ愛していますとも。たとえ、王都の目の前で公言してみよと言われても出来ますでしょう。わたしの愛はそんなことで恥をかくとは思いません。恐れなど抱くことはありません。むしろ誇りでございます。これほどまでに深く、人を愛することが出来るのだと、わたしは誇りをもって、言い放つことが出来るでしょう。その思いは、女性が男性を想うことと同じ、いいえ、それよりも深いと言えますでしょう。なにせ、同性なのですから。同性同士の恋愛であるのならば、異性での恋愛以上に、障害は多い。ならば、それを乗り越えたいと思えるほどに、二人の愛はより強いはずなのです。それならば、自分のこの愛を恥じる必要などあるでしょうか。いいえ、決してありません。あなたには、ありますか? いいえ、ありません。わたしほどの大きな愛などありはしません。女ですから。女が男に愛することは普通なことだと、逃げているのですから。そんな相手にわたしが負けるわけがないでしょう」

 彼女が気圧されていた。先ほどまでとは一切が違う空気を出しているのである。それに圧倒されてしまっているのだ。何も言い返せないままに、口を閉じてしまった。なぜなら、ハルと同じだけの愛をルクトルが持っているのだから。半端な愛であれば、彼女は微塵も動くことはないだろう。だが、彼もまた同じだけの愛を持ってしまっているのだ。それを、ぶつけられてしまえば、口を動かすこともできずにいてしまうというものだろう。

「私だって、私だって愛しているのに。どれだけ大きな障害があろうとも愛しているはずなのに……。不可能だとさえ思えた、この愛をかなえることが許されているというのに。どうして……」

 彼女は、俺の顔を見た。俺と目が合ったのである。そして、目に涙をためていく。だんだんと、目が涙で輝いて見えるようになっている。そうして、こらえきれないとばかりに、この場から走り去ってしまう。俺はすぐさま体が動いた。今ここで、彼女を放ってしまってはいけない。だからこそ、俺の体は先ほどまでとは違ってすっと動くことが出来たのであるのだ。俺は、誰かの敵になることは出来ないが、誰かの味方であることは出来るのだ。だからこそ、より素早く動けたともいえた。
 すぐに追いつくことが出来た。俺は腕を掴んで彼女を引き留める。振り向いた。涙を流している。そのために瞳を真っ赤にして、まるで睨み付けられているかのような形相であった。だが、その相手が俺であるとわかると、すぐに、その顔は歪んだ顔はすぐに消されてしまう。

「アランは悪くないの。わかっているから。だって、アランは愛しているんでしょう? みんなを。ルクトルだって愛していることはわかったもの。そして、ルクトルもアランのことを愛しているだろうこともわかった。そうなってもおかしくはないとわかっていた。だから、彼には絶対に想いを告げないで欲しかった。男同士だからって、変に遠慮してくれればよかった。むしろ、釣り合うことはないって、この家から逃げ出してくれればよかったの。それなのに、やっぱり、二人は愛し合うことになっていた。いいえ、そうなるだろうと高をくくって、のんきに構えていたの。で、こうなってしまった。アランは人を嫌うということが出来ない、人を愛することしかできないことは知っているの。だから、相手が増えないようにするには、相手がアランを嫌ってもらうしかないのに。やっぱり、ダメみたい。どんなに頑張っても、防げる気がしないもの」
「ハル、すまない。俺はこの性格を、この本性を変えることは二度と出来ない。でも、相手を怒らないでほしい。怒るならば、怒りの矛先を向けるのならば、俺にしてほしい。俺は、ハルの怒りを受け止める。愛しているから。ハルがどれだけ怒ろうとも、俺はハルのことを嫌いにならない。ハルが嫌いになってしまうのならば、それはとても悲しいが、俺だけは絶対にハルのことを嫌いにならない。愛し続ける。だから、その怒りは全て俺に向けてほしい。それならば、誰も傷つくことはない。俺ですらも傷つくことはないのだから」
「いやだよ、そんなこと。だって、アランに怒れない。アランを愛しているから。愛する人に怒りたくはない。楽しくしていたい。笑っていたいもの。私の怒った姿を、怒りに身を任せた姿をあなたには見せたくない」
「ならば、泣いてくれたっていい。感情を、俺にぶつけてくれればいい。ストレスなんて、全部俺に吐き出せばいいだろう。俺はそれで、ハルが楽になってほしいんだ。悩みを全て俺にぶつけてほしい。俺にはそれしか出来ないんだ。全員を愛してしまうから。誰もかれもが一切の贔屓なく平等に愛してしまうから」

 ハルは、俺の胸に飛び込んできた。そして、そのまま、嗚咽を漏らしながら泣き始める。俺は、彼女の涙を止めることは出来ない。どんなに努力しても、彼女が求めるような男であることは出来ない。ハルだけを愛する。それが出来ないのだ。どんなに頑張ろうとも、いや、頑張ろうということすら思えないほどに。救いはない。屑であると、そう罵ってくれてもいいだろう。だが、俺には、一人だけを愛し続けることが非常に困難であるのだった。
 俺は空を見る。木に邪魔をされてみることは出来なかった。枝や葉が邪魔をしているのである。みじめであった。俺と彼女の二人だけの世界であれば、こんな悲しみをさせることなどなかったのに。だが、俺はそれを嫌うのだ。この世が好きで仕方がないのだ。愛する者が死んでしまうこと、いなくなってしまうこと、そもそもいないということに耐えられるわけがないのだから。

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