天の仙人様

海沼偲

第100話

 いつ頃からであっただろうか。からからと回る車輪につられるようにふいと外を見てみると、どうも、なつかしさのこみ上げてくる景色が広がっている。通り道でさらっと通ったようなほんの僅かばかりの記憶ではなく、俺の心の奥底にまで沁み込んでいるかのような、深い深いなつかしさがあった。俺は、肘を窓枠にかけながらぼーっと外の景色を眺めているのである。その時に起きた出来事であるのだ。頭の中を駆け巡っているような錯覚にさえ陥ってしまえるほどのである。
 木で出来た柵が顔を外に出せば見えてくる。愛おしさが、こみ上げてくる。戻ってきたのかと感慨深くならずにはいられない。静かにして、じっとそのままに俺はその先の景色を見ているのだ。だんだんとはっきりと見えてくる。あそこに俺が少し前まで生活していた家があるのだと。俺の様子に気づいたようで、兄さん二人も窓から顔を出して向こうを見る。特に、ルイス兄さんは三人の中でもっとも、楽しみであると言わんばかりに顔を輝かせているのである。当たり前だろう。一年以上も帰ってこれていないのだ。寂しさは人一倍であろう。だから、何も言わない。俺たちはただ、向こうの景色を見ているだけなのである。それだけで十分なのだから。

「帰ってきたんだな。まるで、しばらくぶりというか……数年以上も帰ってきていないかのようにすら感じてしまうよ。たったの一年だけだというのにね。それでも、僕にとってみれば、数年に近い程のもの寂しさなのだろうな。でも、今こうして、父さん、母さんに会うことが出来るのだと思えば、そんな気持ちなどどこかへ消えてしまう。別れの挨拶も告げずにね」

 兄さんはしみじみとつぶやいている。口からポツリポツリと零れ落ちてしまったかのように言葉を発しているのである。俺たち弟二人は、それをただ、聞いているだけであった。何も言わずに、その言葉をひろっているばかりであるのだ。
 馬車はゆっくりと門をくぐっていく。ここからは俺たちがよく知る村が広がっている。知らない場所など何一つとしてないといってもいいだろうか。今もまさに漂っている空気ですらも知っているのだから。俺たちはそのなつかしさに心が、癒されていく。やはり、俺は周りが自然に囲まれているこの村が好きなのだ。落ち着くのだ。自然ばかりではなく、柔らかさも併せ持っているこの村が。たとえどれほどまでに、不便であろうとも、俺はこの場所を愛していることだろう。その程度のことでしか評価できないような、ちっぽけなものではないのだ。もっと大きな価値によってこの村は評価されているのだから。
 家に到着した。馬車から降りれば、父さん、母さんたち、アリス、そして使用人たちが出迎えてくれた。どの顔も俺たちのことを待ち焦がれていたかのように優し気な目をしている。顔を見せている。にこりと笑って、俺たちを迎えてくれるのである。俺たちもそれに釣られてしまうのであった。

「みんな、お帰り。こうやって全員が無事に帰ってきてくれることを、俺は嬉しく思うよ。さて、旅から帰ってきたわけだし、立っているのも疲れるだろう。学校の話は後にするとして、さっさと家に入ろう」

 父さんに背中を押されるようにして、俺たちはぞろぞろと家の中へと入っていく。懐かしい空気である。匂いであった。思い出す。今までどんな暮らしをしてきたのかというのを、ぽつりぽつりと、思い出していくのである。柱の一つに手をついてみる。暖かい。ぬくもりが感じられる。彼らもまた、俺らを迎えてくれているのだろう。壁にかかってある時計も安らかに見守っているのだ。穏やかに笑ってくれているのである。受け入れてくれるのです。俺たちは彼らの息子、娘でもあるのだから。目頭がにわかに熱くなってくる。この程度の些細なことにすら、俺の涙腺は緩くなってしまっているらしい。仕方ないことだろうか。
 自分の部屋へと入る。ここには、俺が生活していた残りがまだ存在している。俺は確かに今では、王都で生活しているといってもいいだろうが、王都に全てのものを持っていったわけではない。だから、ここには、俺たちの生活の証というものが確かに匂わされているのである。ベッドに手を置いて、感触を確かめる。使用人たちは、俺たちがいなくなってからもしっかりと掃除をしてくれている。ホコリ一つもなく綺麗にされているのだから。彼女たちには感謝しかない。だが、数か月いなくなってしまったせいで、生活の匂いが薄れてしまっている。それは残念だ。時間は止まらない。俺が最後に見た光景のままで進むことはないのだから。
 窓を開けた。今まで見慣れていた景色が広がっている。それを聞きつけたかのように窓枠に小鳥たちが我先にととまってくるのである。おかしく見えて仕方がない。一羽ずつ、頭をなでる。彼らもまた俺に対しておかえりと言ってくれているのだろう。それがたまらなくうれしいのである。

「久しぶりだな。俺も、お前たちと再びこうして顔を合わせることが出来てうれしいよ。夏の間しかいられないが、しばらくは、お前たちの歌声でも聞いていられそうだ。また、よろしく頼むよ」

 彼らもまた思い思いに演奏をし始める。それを静かに目を閉じて聞いていく。惚れてしまうそうなほどに美しい。もう虜になってしまっているかもしれない。だが、それでもいいだろう。それだけの価値があるのだから。そうでなければ、彼らの歌にここまで耳を傾けていないのかもしれないのだから。それは非常にもったいない。
 ぎいと、扉が開いた。そこにはハルが立っている。そのほんのわずかに後ろには、ルーシィもいる。三人がこの部屋に久しぶりにそろったのである。俺の頬は緩んでいることだろうか。この部屋はこれで完成されるのだから。俺たちは、隣り合うようにしてベッドの上に座った。何も言わずにただ静かにこの部屋を眺めているのである。懐かしんでいるのである。ほんの数か月だけでも、その数か月の空白というものはやはり、どこか心に隙間を作っていたのかもしれない。それがゆっくりと埋まっていくかのような安心感を覚えていっているのである。

「帰ってきたね。夏の間だけだけれど。ほんの少しの間だけど、こうやってまた三人でゆっくり過ごせるんだよね。とっても嬉しい。あたしは、とっても嬉しいよ。王都にいたころなんて、一人で静かにベッドを使わなくちゃいけなかったんだからね。寂しくって仕方がなかったよ。何度アランの部屋に侵入しようかと考えたことか。出来ないってわかっているのにね。とってもつらかった。でも、今はそんなことを考えなくてもいいんだもんね。こうやって、今すぐにでもアランに抱きつけるのだもの。壁が隔たれていないところにいてくれるんだもの。とっても幸せだよ」
「ありがとう、ルーシィ。俺も、こうして二人と一緒にいられるのはとてもうれしい。二人がこの両手が届く範囲にいてくれることが、とっても幸せなことだったということを深く理解できた」

 俺は言葉通り、彼女たちを抱き寄せる。あたたかな感触と、人肌のぬくもりが両側から感じられる。こうして三人で、愛し合っていると、深く伝えられる。王都ではできなかった、静かに、そして流れるような時間を使えているのだ。とても美しい。素晴らしいことなのだ。今にも手が届きそうで届かない、最上の幸福に、手が届いてもおかしくはないだろう。指先が触れているのだ。一生分にすら相当するかもしれない。だが、俺はそれですら掴んでしまうかもしれない。幸せを追い求めていることだけを、考えて、ただただ進んでいるのであるのだから。
 次の日。俺たちはいつものように目が覚める。だが、ここに二人の愛している女性が隣にいるのだ。今日の朝はまた格別だと言わざるをえない。こうして起きた時に、彼女たちの幸せそうな寝顔を再び見ることが出来るのだから。むしろ、しばらくの間、それを許されていなかった状態でよく生活できたものだとすら思えてならない。王都の俺と、この村の俺が同じ人間としてこの世に存在していることすら疑わしく思えてきてしまうのであった。
 扉が開いて、入ってくるのはルクトル。彼もまた、家に帰って来てから、いつもの格好へと戻っている。女性用の使用人服を着ているのである。そして、静かに俺の首筋へと歯をたてて、噛みついた。音を出さず、静かに、闇へと消えてしまうかのような静寂の中で、ただ俺の血が彼の体へと消えていってしまうのを感じていっているのである。
 彼の喉が鳴る。この血はいずれ、彼自身の血肉へと変わるのだろう。俺自身が彼の栄養へと変質して、捕食と被食の関係であるのだ。俺は彼の体を抱きしめて、じっとしている。彼が俺の血を飲む音をただ聞いているのである。とても、心地よく聞こえてくる。朝の目覚めに最適な音楽として、俺の意識をだんだんと覚醒させていくのであるのだから。
 そうして、彼の口が離されると、そのままにこりと笑ってくれる。俺の血と彼の唾液とで混ざり合ったかのような真っ赤な口は俺の心に強く引き寄せるほどの魔力を発しているのである。たらりとわずかに垂れている血液を指で拭ってやると、もったいないとばかりにそれがついた指を彼がくわえる。そして、丁寧に舐めているのであった。上目づかいにチラリと俺の顔を見やるようにされると、体は熱っぽく、そのせいかだんだんと熱くなっていく。
 彼はゆっくりと指から口を離すと、俺の瞳をのぞき込むようにしてみている。そしてそのままに、段々と顔を近づけてくるのである。俺はその表情に、顔つきにただ圧倒されているかのように動くことが出来ずに、彼にそのまま体重をかけられて押し倒されてしまうのであった。荒く息が俺の顔にかかる。甘く、とろけるような息であると言えるだろう。何度だって嗅いでいたくなるほどに、俺の頭をしびれさせているのである。手遅れだと言い放たれてもおかしくはない。それほどである。

「アラン様、愛しております。お慕いしております。この愛情はきっと消えることはないでしょう。消えてはならないものでしょう。静かで、そして燃え盛ってしまっているのです。ああ、とても素敵です。アラン様。わたしをいつも虜にさせてしまう素敵な人。あなたのことを毎日想うだけで、こんなにも体が熱く、心が早くなってしまうのです。なんと、わたしはいけないのでしょう。ですが、それは抑えることは出来ないのです。許してほしいとは言いません。できることなら、もう一度その愛を」

 彼は俺の手を掴んで、自分の胸へと押し当てる。どくんどくんと、早鐘をうっていることが分かるのだ。彼は顔を赤くして、口を、すれすれまで屁と近づけてしまう。俺の視界には彼の顔しか映らない。とても美しく愛らし彼の顔だけが俺の視界を拘束してしまっているのである。
 ゆっくりと、唇同士が触れ合って、柔らかな感触を俺の心までにすら伝えてくる。びりびりとした刺激を体全体に行きわたらせるように、彼と、心までもが絡まり合っていくのであるのだ。
 それはいつまで続いたのだろうか。求めるのがやまなかったというべきだろうか。それとも、俺自身もが彼のことを求めてしまって離してやれなかったというべきなのだろうか。そのどちらでもないかもしれない。だが、確実に言えることは、今この瞬間では確かに、俺とルクトルの二人だけしか存在しておらず、その世界に浸っていて抜け出せなかったということなのである。
 肩を叩かれた。目線だけをそちらに向けると、すべての感情をそぎ落としたかのように、まるで人形であるかのようにしか見えない程の無表情さでじっとこちらを見ているハルの姿があった。

「なに、しているの? ルクトル? お前は? どうして、ルクトルがアランの唇に、あなたの唇でもって触れているのかしら? 私には一切の理解が出来ない状況が、今まさに真隣で起きていたわけだけど、説明してくれないかしら? そこの使用人さん?」

 俺の体が固まってしまった。彼女の圧に怯えてしまっているのだ。これを少なくとも、俺に何の非もないからと堂々とできるほどに、俺の心は大きく余裕があるわけではないのであった。静かに、俺は彼女の目を見るのである。
 世界で最も美しい人形のように、彼女はルクトルの肩を掴んで無理やり引きはがした。邪魔をした相手に対して睨み付けてしまったが、その相手がだれかということが分かると、彼もまた全てを失ったかのような顔を見せて、茫然としているのである。

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