天の仙人様

海沼偲

第95話

 目の前に車が止まっている。もう夏休みに入ってしまったのだと、実感させられる。つい最近に入学したと思っていたのだが、どうも、時間の流れが早く進んでしまっていると思わざるをえない。それほどまでに、あっという間の出来事であったと言えるだろう。逆に言えば、時間が早く感じてしまうほどに充実した時間を送れていたともいえる。そう思えば、とても喜ばしいことだろう。
 学期末試験は筆記のみである。実技試験まで加わるのは、学年末の試験だ。今回は、俺としては満足のいく点数を取ることが出来たわけだし、主席を獲得したかと思ったわけだが、ハルも同じ点数だったために、主席はハルのままである。満点とっても、相手も満点なら、意味がないという話であった。まだまだお預けということであった。悔しさもあるが、筆記のみでトップ層の順位が変わるということがそもそも稀であるので、そこまで深く考えないようにしている。
 俺たちは車の中に乗り込む。このときのために、領地からわざわざ迎えに来てくれた馬車群である。俺たちの迎えに来てくれた台数は二台だけであるが。ここで、男子組と女子組に分かれる。ルクトルは、数合わせで、女子組の方へと行ってもらう。彼は別に気にするような様子を見せていないので、特に問題はないのだろう。女子の集団に男子が一人はいるのは気まずいだろうが、彼は普通の男子とは違う。何とかやっていけるだろうと思っている。
 ルイス兄さんは、王女様を連れてきているわけではないようで、今日は一人で帰省している。そもそも、去年には帰ってきていなかったから、一年ぶりであろうか。今日の兄さんは一段とご機嫌である。つい先日までの、生きていながらにして死人のような顔からは想像もできない程であると言えた。
 カイン兄さんは、学校ではあまり噂がない。目立つようなことをしていないのだろうか。性格からは考えられないのだが、内弁慶であったということなのだろうか。それなら、兄さんのまた別の一面が見られたということになる。
 当然、この場で主席ではないのは俺だけである。当たり前のように二人して、成績トップなのだ。俺も実質主席であるが、肩書として存在していない。これは非常に悔しいことであった。だが、それを顔に出すのもまた悔しいので、絶対にそれを面には出さないように努めている。肩書なんて大したことがないのだというスタンスでいくことにする。だが、人一倍それを気にしているというのがいっそう滑稽に見えた。この本心を見られてしまったら、笑われてしまうことだろう。恥ずかしさで誰とも顔を合わせられないだろう。そう思えたのだ。
 馬車が動き出した。かたかたと車輪を鳴らして、段々と学園から遠ざかっていく。数か月もの間、世話になったこの土地から、離れてしまうのである。少しの寂しさはある。だが、また来る。帰ってくる。故郷であろうか。家であろうか。そのどちらでもない。でも、そのどちらともに肩を並べるほどの価値であるのだ。

「……で、兄さんはどうしてそんなにご機嫌なんだい? つい最近に顔を見た時は死体だったような気がしたんだけれど。あの時は、もうすぐ自殺でもしてしまうんじゃないかと変に考えてしまっていたものだったが、そんなに帰れるのが嬉しいのかい? そうだったなら、去年もオレと一緒に変えればよかったじゃんな」
「ふん、そうじゃないさ。まあ、帰れることは嬉しいさ。去年は会えなかったからね。だから、久しぶりに母さんたちの顔が見れるのはとてもうれしい。でも、僕は今それ以上の幸福というものに酔いしれてしまっているんだ。でも、カインにはまだまだ分からないだろうけどね。アランぐらいじゃないかな。僕のこの気持ちもアランのおかげで、手に入れられたものだしね。まあいずれは、カインにもわかることだろうがね」

 そうかと、俺は納得した。兄さんがそれほどまでに幸せなのならば、俺が口出すことなど何もないだろう。あれ以上の介入をしなかったことが正解であったと証明できたのである。それは喜ばしいことだった。俺は静かに、備え付けられている水に口をつけるのである。冷たい。よく冷えている。夏場に、この冷たさは心地よいものである。すうっと体に溶けるようだ。
 しかし、カイン兄さんはそれにあまり面白そうな顔を見せないのである。呆れてしまったような、何か残念なものを見るかのような表情をルイス兄さんに見せているのであるのだから。

「兄さんもアランみたいになっちまったな。魔法バカだった時の兄さんはどこに行ったのやら。あの時の兄さんは、気が狂っているかのように魔法に打ち込んでいたのになあ。今は女のことしか考えていないぜ。女狂いだ。別にオレが気にするようなことじゃあないが、こんなことで大丈夫なのかね」
「もしも、僕が女性にうつつを抜かしていたら、簡単に主席を座を譲ることになるだろうね。それほどにこの学園のレベルはそんなに簡単なものじゃあない。でも、そうなっていないということは、僕はそれに浮かれているわけではないということなんだ。自分自身がひどく傲慢になってしまうことは醜くて気味が悪いが、少しばかりの自信というものは持っていても構わないだろう。心が大きくなるんだ」

 カイン兄さんは、話を打ち切るようにして、静かに窓の外へと視線を向ける。この馬車の中は少しばかり息がしづらいのである。兄さんがそれをより顕著に感じてもおかしくはないだろう。まだまだ、草原が続く道である。地平の果てまでも、その先の先までもがこの視界からでも確認できるほどに広い。ここは大昔に、大火事が起きて、木が全焼したという話である。残された木は、こことは反対側に残っているばかり。俺たちが進んでいる方向へは、一切ないのだ。それらの歴史が事実なのかはわからない。なにせ、人が国を、集落を作る前の大昔なのだから。でも、いまだに木一本すら生えていない。膝ほどまでしかない草花が生えているのみなのだ。
 そこには、ダチョウに似たような鳥が住んでいる。どたどたと草原を駆け回っている。縄張りなのだ。過度に刺激しなければ、襲ってこないために、危険性はないが。毛が緑色というのも特徴的である。あれでも、空から見れば、草原に生えている緑に混じって見つけられないのだ。空からの捕食者から身を守っている。ダチョウに似たような、姿かたちをしており、当然それに見合った馬力を出せる脚力。それでなおかつ、鶏であった。一応鶏冠もあるのだ。あれでも鶏なのだ。カンムリダチョウと言われているが。キジ目キジ科なのだ。彼らを闘わせる競技だってある。それも闘鶏というが。やはり鶏であった。だが、彼らを見てダチョウだと思うのは仕方がないだろう。それほどそっくりな姿をしているのだから。
 その一羽が、犬に襲われているのを見つけた。集団に襲われているようである。だが、あいつらの足は速い。大声張り上げながら、仲間の方へと逃げているのである。あの時点で、犬たちは狩りの失敗を悟って撤退しなくてはならない。あの鳴き声は、敵の発見と、迎撃を促しているのだ。敵がいるから殺せと叫んでいるのだ。そのために、叫んでいる鳥の周囲にいる仲間たちがバタバタと駆け寄っているのである。そして、敵だと思われる犬を蹴り飛ばすのだ。馬の体当たりと同等、またはそれ以上ともいわれている。当然、小柄な犬では、体が耐えられるはずもなく、なす術ないとばかりに空中へと吹き飛んでいくのだ。ミンチになってもおかしくはない。そこからは虐殺である。彼らが逃げ出すまで、ひたすら徹底抗戦を行い、返り討ちにしていくのだ。
 彼らは、危険なのである。危害を加えなければおとなしいが、危害を加えれば、ああなってしまうのである。絶対に駆除しないほうが安全であると言えるほどなのだ。逆に言えば、彼らは王都の第一の防波堤でもあるのだ。
 被害はどれほどだろうか。あたりは血の海だろう。ここまで臭いが漂ってくるのだ。想像するだけで現場の悲惨さがわかるというものである。当然だが、カンムリダチョウは肉を食べない。そのために、これら死肉が放置されていると、王都側としても困るので、衛兵が出張して回収していく。変なものが寄ってきても困るのだから。

「……すごいのが見れたな。まさか、今この時に起きるとは思わなんだ。そも、いぬっころたちも頭が悪い。あいつらが鳴きながら逃走している時点で、逃げなくちゃならんっていうのに。叫ばせる暇もなく一撃で確実に殺せなければ、あいつを狩れないのにさあ。しかも、肉も大してうまくはない。筋張っていてな。好き好んで食う生き物なんか見たことがないぜ」

 カイン兄さんは、捕食者側にどうも、文句があったようである。確かにわからなくもないが。あれはあまりにもお粗末であると言わざるをえないだろう。普通であれば、あそこまで無理に追いかけるということはしない。だから、めったにあんな惨劇が起きることはないのだが、どうも、彼らはカンムリダチョウの生態というものを詳しく知らなかったようである。若い群れだったのだろうか。むしろ、若いと、そんな事態が起きるのだろうか。不思議なこともあるものだと、思ってしまった。
 そのあとは、何事もなく、今日の宿泊する町へとたどり着く。とは言うが、まだまだ、町の中には入れていない。だから、広々とした草原で順番を待っている。そうなのである。まだまだ、草原を抜けてはいない。それほどまでに広々とした大草原なのだ。そのおかげか、すぐに敵に気づくことが出来ると、当時の国王は思ったことだろう。望遠鏡一つで、どこまででも遠くを見渡すことが出来るのだから。
 町に入るまでの順番待ちとして待っているわけだが、ふと、俺の乗っている馬車の近くまで、やってくるのはまさかのカンムリダチョウ。思わずわずかに腰が引けてしまった。あまりにも唐突なことなのだ。こうやって、人の近くに好んで寄ってくるような生き物ではない。俺が王都へ行く途中もこんなことはされなかった。だからか、周りの馬車に乗っている御者も、驚いたようにこちらを覗きこんでいるのである。刺激さえしなければ、暴れたりすることはないので、変な態度をとらないように至極冷静に取り繕う。窓、窓とはいってもガラスを張っているわけではないので、手を伸ばせば触れられる程度の距離と言えばいいだろうか。それほどまでの近さで俺と彼は向かい合っている。ここまでの近さで彼らを見たことなどないのだから、ほんのわずかだが興奮している。こんなことが起こり得るなんて、神に感謝してもしきれない程だ。だが、それ以上に怒らせないように注意を払わなければならないが。
 彼は何を求めているのかと、疑問に思うしかない。ここまで神経を使うような生き物は大変である。何が地雷なのかがわからないというのが恐ろしい。下手すれば、俺が口を開けただけで、騒ぎ始めるかもしれないだろう。ああ、いやだいやだ。そこだけが非常に残念である。そうでなければ、もっと余裕があるというのに。
 ぬっと、頭を馬車の中に入れてきて、俺の胸に押し当てる。ぐいぐいと力強く押し付けてくるのである。俺は何が何だかわからず、それでも、目の前に頭を差し出されてしまっているためにか、ふと、頭を撫でてみようと思ったのだ。彼らの羽の肌触りを知らない。なわば、触ってみたくなってしまうだろう。彼から触ってくるのだから、俺が触ったって文句を言わないだろう。俺はそう思ったのである。
 兄さん二人は目線でやめてくれと言わんばかりの思いをぶつけてきているわけだが、俺はなぜだか大丈夫な気がしてならなかった。だからと、俺は頭を触ってみた。ああ、柔らかい。ふわりとしている。ここまで手触りのいい頭をしていたのか。驚きだ。もっとごわごわとしているものかと思っていたのだが、どうも違うらしい。
 兄さんたちの心臓は止まってしまうことだろう。生きた心地がしないはずである。だが、俺はそれを気にせずに触っているのである。彼の羽を触り心地に酔いしれているのであるのだから。これを知らないなんて今までなんとそんなことをしてきたのかと、思わずにはいられなかった。それほどである。
 ルイス兄さんは顔を手で覆い隠してしまっている。俺が殺されるとでも思っているのだろう。俺が死んでしまって、ミンチになる姿を見たくないのだろう。どれほど、俺を信用していないのか。まあ、俺も兄さんたちの立場ならそういう態度をとってしまうかもしれない。ならば仕方のないことかもしれない。
 順番が進むまでの間、俺は彼の頭の感触を味わっているのであった。俺は、彼の毛並みの虜になってしまったのである。

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