天の仙人様
第94話
あれから数日程が経ち、俺は一人、食堂で夕食をとっている。当然、俺の周りの環境が変わるということはない。兄さんの周りがどれほどまでに変化していようとも、俺までその波がやってくるということはないのだ。世界は一つでありながら、別々に分けられてしまってもいるのだから。どれだけ手を伸ばしても、届かないところで世界はまた動いてもいるのだ。ならばと、今日も静かに食事をとることしかないわけである。ゆっくりと、よく味わっているわけである。今日の食事も美味しい。食事が美味しいというそれだけの要素だけでも、人生は彩ることに違いない。三大欲求の一つが満たされているのだからな。
かちゃかちゃと食器を鳴らしながら、一人静かに食べているわけではあるが、食堂には俺以外にも多くの生徒がいる。彼らもまた、別々の世界に生きているのである。こうして、同じ食堂という場所にいながら、全く違うのであるのだ。それはたまらなく、心地よく思えてきてしまう。美しさを見出してしまうのだ。そして俺は、その彼らの声を背景にして食事をとっているのであるのだ。
と、俺の隣に一人の生徒が座った。これから食事をするのだろう。今日の夕食の献立そのままに持って来ている。すぐに手を合わせればいいものの、そうはせずにじっと俺の方を見ているわけである。それが不思議である。何故彼は俺を見ているままに、持って来ている温かなスープには一つも口をつけようとしないのかと。俺の顔がそれほどまでに興味深い顔でもしているのかというのだろうか。もしかしたら、ご飯粒でもついているのかもしれない。俺は口元に触れてみるが、それらしきものはついていないようであった。であるならば、俺の顔そのものに対して目を向けているというわけであった。
と、そこまで思っていたわけであるが、途中で、彼の顔を見たことがあるということに気が付いた。ただ、学校で同じクラスの少年というわけではなく、更に前に会っているということである。しかし、どうして彼のことを忘れてしまっていたのだろうか。彼もまた貴族であるのだから、この学校に通っているのは当然であるし、再開することはあるだろうが、そのことを失念してしまっていたのであった。何とも間抜けな失態であると言わざるをえないだろう。呆れて笑うことしかできない。今笑ってしまっては、周囲から変な目で見られることは確実だろうとは予想できてしまうが。だから、卑下するように口をゆがませるのだ。それだけだ。
「やあ、キース。久しぶりだね。お披露目パーティで会って以来だったかな。同じクラスではないらしいから、学校では今の今まで会わなかったんだね。でも、今日まで食堂ですら合わないなんて、相当入れ違いな人生だったんだろうねえ」
「ああ、よかったよ。もしかしたら、忘れられてしまっているのではないかなんて、変に意識してしまっていたんだ。絶対そんなわけがないのにね。君は絶対に忘れないだろうって自信があったんだ。なにせ、ぼく自身が君のことをしっかりと常にひと時も忘れずに、覚えていたのだからね。……もしかして、迷惑だったかい?」
「いいや、そんなことはないさ。そうやって信じてもらえているっていうのはとてもうれしいからね。それは俺自身にとっても、嬉しいことだよ。俺のことをここまで信用してもらえることは喜ばしい。」
俺は、内心では申し訳なさを出しつつも、それを一切顔に出さないように、ひょうひょうとしてそれを言いきったのである。それを彼は信じてくれるわけで、とてもうれしそうに輝くような笑顔を見せてくれるわけである。ああ、そんな顔を見せられてしまうと、より深く俺の心が傷ついてしまう。まるでだましているかのような罪悪感がこの身に押し寄せてきてしまっているのである。いいや、実際騙しているのだ。今の今まで彼のことを忘れていたなどと口が裂けても言えなくなってしまったのだから。だが、今は嘘をついても構わないだろう。神様は心優しい心から出てくる嘘を見逃してくれる美しいお方であると俺が信じていたいのだから。
まだまだ、彼は人と目を合わせることが出来ないようで、目線は下に落としたままである。顔はこちらを向いているのだが、確実に俺とは目が合っていないということが分かるのである。確かに、顔をこちらに向けて話が出来るというだけでも大きなことだろう。それすらできないことだってあるだろう。なにせ、自分の視界に彼が恐れてやまないものが常に入ってきてしまうのだから。それをこらえてさらに奥を見ることが出来るのは、大事なことなのである。
俺は、その成長をふと嬉しく思ってしまったようで、笑顔はついうっかりとこぼれてしまう。どうもそれを彼は不思議に思ったらしく、首をかしげてしまっている。だが、俺はそれに対しては何も弁解することはしなかった。意味がわからないのであれば、わからなくてもいいではないだろうか。全てを理解できることがいいことだとは絶対ではないのだから。俺は何も言わずただ笑顔を見せるだけであるのだ。
だがしかし、それを彼はどうしてか、呆れからの笑みだと勘違いしてしまったようである。しゅんと体を縮こまらせて申し訳なさそうにしているのだから。それは俺の予想していなかった解釈であるために、わずかに目を開いてしまう。
「ああ、ごめんよ。まだまだぼくはどうも人の目を見れてはいないんだ。うっかり、少しでも見てしまっては、夜眠れなくなるんだ。うなされてしまうんだ。あれがとても恐ろしい。悪夢が……訪ねてくるんだ。ドアをノックしてね。しかも激しくだ。だんだんと力が強くなってくる。いつか破られてしまうのではないかと思えば、安らぐものも安らげないのさ。怖いんだ。それを直視できない。どうしてなのかと何度も考えたさ。どうにか頑張ろうと努力をしたさ。それでも最後の一歩が出ない。最初の一歩は出来たとこれでも自負しているんだ。しっかりと、君の顔を見ていられる。鼻筋だろうが、口元だろうが、君の顔を見ているということは出来ているんだ。だけれど、その上に目線を持ち上げられないんだ。ふ、笑っても仕方がないよね。これだけの月日をかけてもやはりこれだけなのだからね。ぼくはどうしようもないのかもしれない。いいや、かもだなんて甘い言葉で逃げられないんだよ。これは確定的なんだ。最近では、何かしらの変な影すら見えてしまうんだ。君の隣にもいるよ。不思議な黒い影がね」
俺はキースの目線の先を辿ってみる。だが、そこには何もいない。どんな存在すらもいないのである。ありとあらゆる気の流れが正常であるのだ。つまりは、彼の見ているものは幻覚ということになるのだが、それを見るほどに彼が追い詰められているのではないだろうかと、心配になってきているのだ。救うとか、救わないとか、そういう程度の次元の話ではないような気がしてならないのである。
ならば、俺はどうすればいいのか。そう考えても特別にいい案が浮かぶわけではない。失望してしまう。これほどまでに自分という人間は役にたたないのである。みじめで仕方がないのだ。だが、俺はそういうものであると受け入れなくてはならないのだ。大事な時に何もできないバカバカしい人間であったとしてもである。俺は俺なのだという意識を持ち続けることは現実を見続けることでもあるのだから。それは非常につらく苦しいことだが、やめてはいけないのである。
俺は再び、彼が何かいるといっている場所を見てみる。俺の隣だそうだ。しっかりと見てみる。だが、何もいないのだ。やはりいない。しかし、彼の焦点はしっかりとして、何かを見つけてそれから目を離そうとはしていないのである。俺はその場所に手を差し出してみる。わずかにひんやりとした空気が漂っているようである。他の場所とはわずかに空気の温度が違う。それだけがただ確実で確かなことであるのだ。それ以外のことが何一つとしてわからなかった。それで打ち止めなのだ。
「だ、大丈夫なのかい? 今、君の手を両手でしっかり握られているのだけれど。何かそんな感触はないのかい。黒い靄が手の形をとって、君に触ってきているんだよ。ああ、爪を立てている。恐ろしく長い。魔女のような手だ。しわくちゃに枯れている。人間の手じゃあないよ。ねえ、早くそんな恐ろしいことなんかやめたほうが良いよ。君がもしかしたら呪われてしまうかもしれない。ぼくのせいでそんな目にあってほしくないよ」
どうやら、そうらしい。だが、それらしき感覚というものが一切ないために、それがどうなのかを確かめようがないのである。だから、俺はただ手をそちらへと差し出すばかりであるのだ。これ以上やっていると、彼の心配性な性格では心臓に悪そうだと、破裂してしまうかもしれないとすら思えてしまったので、俺は静かに、そこから手を引いた。露骨にほっとしたように胸をなでおろしてしまうわけだから、相当に危険な姿をしているのだろうということが計り知れる。彼が見えているその黒い霞とやらは、どれほどまでに不気味な存在なのだろうか。俺が彼の苦しみを恐怖を、同様に感じることが出来ないことに腹立たしさを覚えてならない。
俺は彼の目をのぞき込むように見てみることにした。もしかしたら、彼の目に何かしらの仕掛けがあるのではないかと予測をたてたのだ。この体質は頭にあるのか、目にあるのか。まずは可能性の一つとして、彼の目の異常性をつぶしておきたいと思ったのである。
彼は俺と目を合わせないように顔を下げようとしてしまうが、俺は無理やりに顔を固定して、しっかりと、目の奥底までをのぞき込んでみる。彼もどうやら、俺が何をしたいのかはわかっているようだから、静かにされるがままになった。目を閉じるという最終手段もあるのに、使わないところを見ると、もうあきらめているという気持ちであるかもしれない。だが、この諦めはこれからの恐怖に対して逃げられないことに対する諦めなのだ。それを俺が強要させてしまっているのだ。心が辛く苦しい。彼に苦痛を強いているのだから。これで、何もないとなれば、俺はただの大罪人というだけである。無意味で無価値だと言われてしまう。
彼の瞳をしっかりと真正面から見たことはないのだが、よくよく見てみれば、目の奥底の深いところで、濁りがあるようである。どうもそれは魔力的な濁りであるように見える。目玉に魔力がとどまっているのである。基本的に、人間の目に魔力が溜まるということはない。魔力が溜まる場所は大体、心臓、肺、そして、その下あたりから膀胱の上あたりのどこかだと言われている。そこに個人差はあるが、基本的にその部位のどこからか大きく外れた場所に魔力が溜まることはない。ならば、これは彼の特異体質なわけである。つまりは、彼の目は魔力で濁っているわけで、俺たちのような魔力的な濁りがない人の目、つまりは澄んだ目を恐れる。どうもそれに何かしらの関係があるように見えて仕方がなかった。おそらくは、彼が見えている何かしらも、この目の濁りに関係しているのではないかと思うのである。
ならば、これをどうにかすればいいのかもしれないが、その方法が全く持って思いつかないわけであるし、これを障害として決めつけていいものかという思いもある。この何かが見えるという特異体質は、何かしらのメッセージを含んでいてもおかしくはないのだ。アリスが精霊と会話できるように、キースにも何かしらの力があってもおかしくはないだろう。俺はそう思えてならないのである。だが、彼が感じてしまう恐怖。それがあまりにも大きな枷となってしまっていることは言うまでもないことなのだが。
「ごめんよ、無理やりに目を合わせてしまって。恐ろしかっただろう。俺には人の目が恐ろしく感じるということにあまりピンとくることはないのだが、恐怖を感じるということはわかる。それでも、無理やりに恐怖を味合わせてしまった。それは本当に申し訳ないと思っているよ。君を恐怖に貶めている俺自身がいうことではないと思うけれどさ、申し訳ない」
「あ、うん。大丈夫だよ。何も考えないようにしていたからね。目を見ているように見えたかもしれないけど。全然、そんなことはないからね。意識を無理やり飛ばすと言えばいいのかな。そうやって、考えないようにしていたからさ」
彼は、疲れたような声でそういうのである。心が締め付けられるようである。悪いことをしているのだと思うのだ。実際悪いことなのだろうか。相手を恐怖に陥れているわけだから。なんという悪党だろうか。こんなやつがよくもまあいけしゃあしゃあと、天国に行くことを望むものである。
かちゃかちゃと食器を鳴らしながら、一人静かに食べているわけではあるが、食堂には俺以外にも多くの生徒がいる。彼らもまた、別々の世界に生きているのである。こうして、同じ食堂という場所にいながら、全く違うのであるのだ。それはたまらなく、心地よく思えてきてしまう。美しさを見出してしまうのだ。そして俺は、その彼らの声を背景にして食事をとっているのであるのだ。
と、俺の隣に一人の生徒が座った。これから食事をするのだろう。今日の夕食の献立そのままに持って来ている。すぐに手を合わせればいいものの、そうはせずにじっと俺の方を見ているわけである。それが不思議である。何故彼は俺を見ているままに、持って来ている温かなスープには一つも口をつけようとしないのかと。俺の顔がそれほどまでに興味深い顔でもしているのかというのだろうか。もしかしたら、ご飯粒でもついているのかもしれない。俺は口元に触れてみるが、それらしきものはついていないようであった。であるならば、俺の顔そのものに対して目を向けているというわけであった。
と、そこまで思っていたわけであるが、途中で、彼の顔を見たことがあるということに気が付いた。ただ、学校で同じクラスの少年というわけではなく、更に前に会っているということである。しかし、どうして彼のことを忘れてしまっていたのだろうか。彼もまた貴族であるのだから、この学校に通っているのは当然であるし、再開することはあるだろうが、そのことを失念してしまっていたのであった。何とも間抜けな失態であると言わざるをえないだろう。呆れて笑うことしかできない。今笑ってしまっては、周囲から変な目で見られることは確実だろうとは予想できてしまうが。だから、卑下するように口をゆがませるのだ。それだけだ。
「やあ、キース。久しぶりだね。お披露目パーティで会って以来だったかな。同じクラスではないらしいから、学校では今の今まで会わなかったんだね。でも、今日まで食堂ですら合わないなんて、相当入れ違いな人生だったんだろうねえ」
「ああ、よかったよ。もしかしたら、忘れられてしまっているのではないかなんて、変に意識してしまっていたんだ。絶対そんなわけがないのにね。君は絶対に忘れないだろうって自信があったんだ。なにせ、ぼく自身が君のことをしっかりと常にひと時も忘れずに、覚えていたのだからね。……もしかして、迷惑だったかい?」
「いいや、そんなことはないさ。そうやって信じてもらえているっていうのはとてもうれしいからね。それは俺自身にとっても、嬉しいことだよ。俺のことをここまで信用してもらえることは喜ばしい。」
俺は、内心では申し訳なさを出しつつも、それを一切顔に出さないように、ひょうひょうとしてそれを言いきったのである。それを彼は信じてくれるわけで、とてもうれしそうに輝くような笑顔を見せてくれるわけである。ああ、そんな顔を見せられてしまうと、より深く俺の心が傷ついてしまう。まるでだましているかのような罪悪感がこの身に押し寄せてきてしまっているのである。いいや、実際騙しているのだ。今の今まで彼のことを忘れていたなどと口が裂けても言えなくなってしまったのだから。だが、今は嘘をついても構わないだろう。神様は心優しい心から出てくる嘘を見逃してくれる美しいお方であると俺が信じていたいのだから。
まだまだ、彼は人と目を合わせることが出来ないようで、目線は下に落としたままである。顔はこちらを向いているのだが、確実に俺とは目が合っていないということが分かるのである。確かに、顔をこちらに向けて話が出来るというだけでも大きなことだろう。それすらできないことだってあるだろう。なにせ、自分の視界に彼が恐れてやまないものが常に入ってきてしまうのだから。それをこらえてさらに奥を見ることが出来るのは、大事なことなのである。
俺は、その成長をふと嬉しく思ってしまったようで、笑顔はついうっかりとこぼれてしまう。どうもそれを彼は不思議に思ったらしく、首をかしげてしまっている。だが、俺はそれに対しては何も弁解することはしなかった。意味がわからないのであれば、わからなくてもいいではないだろうか。全てを理解できることがいいことだとは絶対ではないのだから。俺は何も言わずただ笑顔を見せるだけであるのだ。
だがしかし、それを彼はどうしてか、呆れからの笑みだと勘違いしてしまったようである。しゅんと体を縮こまらせて申し訳なさそうにしているのだから。それは俺の予想していなかった解釈であるために、わずかに目を開いてしまう。
「ああ、ごめんよ。まだまだぼくはどうも人の目を見れてはいないんだ。うっかり、少しでも見てしまっては、夜眠れなくなるんだ。うなされてしまうんだ。あれがとても恐ろしい。悪夢が……訪ねてくるんだ。ドアをノックしてね。しかも激しくだ。だんだんと力が強くなってくる。いつか破られてしまうのではないかと思えば、安らぐものも安らげないのさ。怖いんだ。それを直視できない。どうしてなのかと何度も考えたさ。どうにか頑張ろうと努力をしたさ。それでも最後の一歩が出ない。最初の一歩は出来たとこれでも自負しているんだ。しっかりと、君の顔を見ていられる。鼻筋だろうが、口元だろうが、君の顔を見ているということは出来ているんだ。だけれど、その上に目線を持ち上げられないんだ。ふ、笑っても仕方がないよね。これだけの月日をかけてもやはりこれだけなのだからね。ぼくはどうしようもないのかもしれない。いいや、かもだなんて甘い言葉で逃げられないんだよ。これは確定的なんだ。最近では、何かしらの変な影すら見えてしまうんだ。君の隣にもいるよ。不思議な黒い影がね」
俺はキースの目線の先を辿ってみる。だが、そこには何もいない。どんな存在すらもいないのである。ありとあらゆる気の流れが正常であるのだ。つまりは、彼の見ているものは幻覚ということになるのだが、それを見るほどに彼が追い詰められているのではないだろうかと、心配になってきているのだ。救うとか、救わないとか、そういう程度の次元の話ではないような気がしてならないのである。
ならば、俺はどうすればいいのか。そう考えても特別にいい案が浮かぶわけではない。失望してしまう。これほどまでに自分という人間は役にたたないのである。みじめで仕方がないのだ。だが、俺はそういうものであると受け入れなくてはならないのだ。大事な時に何もできないバカバカしい人間であったとしてもである。俺は俺なのだという意識を持ち続けることは現実を見続けることでもあるのだから。それは非常につらく苦しいことだが、やめてはいけないのである。
俺は再び、彼が何かいるといっている場所を見てみる。俺の隣だそうだ。しっかりと見てみる。だが、何もいないのだ。やはりいない。しかし、彼の焦点はしっかりとして、何かを見つけてそれから目を離そうとはしていないのである。俺はその場所に手を差し出してみる。わずかにひんやりとした空気が漂っているようである。他の場所とはわずかに空気の温度が違う。それだけがただ確実で確かなことであるのだ。それ以外のことが何一つとしてわからなかった。それで打ち止めなのだ。
「だ、大丈夫なのかい? 今、君の手を両手でしっかり握られているのだけれど。何かそんな感触はないのかい。黒い靄が手の形をとって、君に触ってきているんだよ。ああ、爪を立てている。恐ろしく長い。魔女のような手だ。しわくちゃに枯れている。人間の手じゃあないよ。ねえ、早くそんな恐ろしいことなんかやめたほうが良いよ。君がもしかしたら呪われてしまうかもしれない。ぼくのせいでそんな目にあってほしくないよ」
どうやら、そうらしい。だが、それらしき感覚というものが一切ないために、それがどうなのかを確かめようがないのである。だから、俺はただ手をそちらへと差し出すばかりであるのだ。これ以上やっていると、彼の心配性な性格では心臓に悪そうだと、破裂してしまうかもしれないとすら思えてしまったので、俺は静かに、そこから手を引いた。露骨にほっとしたように胸をなでおろしてしまうわけだから、相当に危険な姿をしているのだろうということが計り知れる。彼が見えているその黒い霞とやらは、どれほどまでに不気味な存在なのだろうか。俺が彼の苦しみを恐怖を、同様に感じることが出来ないことに腹立たしさを覚えてならない。
俺は彼の目をのぞき込むように見てみることにした。もしかしたら、彼の目に何かしらの仕掛けがあるのではないかと予測をたてたのだ。この体質は頭にあるのか、目にあるのか。まずは可能性の一つとして、彼の目の異常性をつぶしておきたいと思ったのである。
彼は俺と目を合わせないように顔を下げようとしてしまうが、俺は無理やりに顔を固定して、しっかりと、目の奥底までをのぞき込んでみる。彼もどうやら、俺が何をしたいのかはわかっているようだから、静かにされるがままになった。目を閉じるという最終手段もあるのに、使わないところを見ると、もうあきらめているという気持ちであるかもしれない。だが、この諦めはこれからの恐怖に対して逃げられないことに対する諦めなのだ。それを俺が強要させてしまっているのだ。心が辛く苦しい。彼に苦痛を強いているのだから。これで、何もないとなれば、俺はただの大罪人というだけである。無意味で無価値だと言われてしまう。
彼の瞳をしっかりと真正面から見たことはないのだが、よくよく見てみれば、目の奥底の深いところで、濁りがあるようである。どうもそれは魔力的な濁りであるように見える。目玉に魔力がとどまっているのである。基本的に、人間の目に魔力が溜まるということはない。魔力が溜まる場所は大体、心臓、肺、そして、その下あたりから膀胱の上あたりのどこかだと言われている。そこに個人差はあるが、基本的にその部位のどこからか大きく外れた場所に魔力が溜まることはない。ならば、これは彼の特異体質なわけである。つまりは、彼の目は魔力で濁っているわけで、俺たちのような魔力的な濁りがない人の目、つまりは澄んだ目を恐れる。どうもそれに何かしらの関係があるように見えて仕方がなかった。おそらくは、彼が見えている何かしらも、この目の濁りに関係しているのではないかと思うのである。
ならば、これをどうにかすればいいのかもしれないが、その方法が全く持って思いつかないわけであるし、これを障害として決めつけていいものかという思いもある。この何かが見えるという特異体質は、何かしらのメッセージを含んでいてもおかしくはないのだ。アリスが精霊と会話できるように、キースにも何かしらの力があってもおかしくはないだろう。俺はそう思えてならないのである。だが、彼が感じてしまう恐怖。それがあまりにも大きな枷となってしまっていることは言うまでもないことなのだが。
「ごめんよ、無理やりに目を合わせてしまって。恐ろしかっただろう。俺には人の目が恐ろしく感じるということにあまりピンとくることはないのだが、恐怖を感じるということはわかる。それでも、無理やりに恐怖を味合わせてしまった。それは本当に申し訳ないと思っているよ。君を恐怖に貶めている俺自身がいうことではないと思うけれどさ、申し訳ない」
「あ、うん。大丈夫だよ。何も考えないようにしていたからね。目を見ているように見えたかもしれないけど。全然、そんなことはないからね。意識を無理やり飛ばすと言えばいいのかな。そうやって、考えないようにしていたからさ」
彼は、疲れたような声でそういうのである。心が締め付けられるようである。悪いことをしているのだと思うのだ。実際悪いことなのだろうか。相手を恐怖に陥れているわけだから。なんという悪党だろうか。こんなやつがよくもまあいけしゃあしゃあと、天国に行くことを望むものである。
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