天の仙人様

海沼偲

第92話

 どうも、兄さんは意識が飛んでしまったかのように何も反応することがなく、ぼーっと彼女が去っていった方向を見ている。しかし、だからといって何か追いかけるわけでもなく、立ち止まったままである。立ったまま気を失っているという答えを出しても、それが正解だと言われているかのようである。だが、彼の視線は明らかにあたりをさまよっており、意識があるだろうということはわかる。しかも、その気の持ち方は精神の動揺という状態であることは確かなのだが。これでは、何をしてもまともな反応が返ってくるとは思えなかった。
 俺は出来ればしたくはなかったのだが、去っていた少女と同じように兄さんの頬を叩いてみる。少なくとも、兄さんであれば耐えられるだろう。その程度の力である。他の生徒には絶対に使えないであろう程度の力であるとは思う。だが、あえてそれだけの力を使わなければいけないと思ったのである。
 どうやら、兄さんの意識はしっかりとして現世に戻ってくることが出来たようである。体が正常に動き出した。さきほどまでの糸が切れた操り人形とはまるで違う動きを見せてくれているのである。そうして、しばらく経つと再び糸が切れてしまったようで立ち尽くしてしまったのだ。

「……兄さん。兄さんは、ばかだろう。兄さんはとてつもなくばかだ。彼女と何を話していたのか知らないが、おそらく兄さんの心に大きく傷つくようなことを言われたに違いない。それはわかる。兄さんを見ればそんなことすぐにわかるさ。おそらく、兄さんにとってとても大切な人なのだろう。でなければこうはならないだろうね。だからといってそこまで落ち込んでいたら、それほどみっともないとは思わないかい。別に、すぐに気持ちを切り替えて、きれいさっぱり忘れろとは言わないさ。そんなことは無理なんてわかっているんだから。でも、今こうやって醜く生き恥晒しているのはやめたほうが良いと思うけどね。俺はそう思うよ」

 少し強くいってしまっただろうか。しかし、兄さんを起こすためにはこの程度の言葉を使わなければダメだと思うのだ。刺激が必要なのだ。バチンと来るかのような大きな刺激が。少なくとも、頬を叩いた程度ではだめなのである。それ以上の何かが必要なのであった。この言葉で、わずかにでも意識が戻ればいいのだが。
 兄さんは、しばらくして、ようやくこちらへと振り向いた。意識を取り戻したというのは変であるが、先ほどまでの姿など気絶している、それ以上に死んでいるといっても変わらないのだ。ならば、生き返ったとさえ言っても過言ではないだろう。それほどの事態であるのだ。相当なものだろう。こちらへと振り返って、俺の顔を見ると、何も言わずにただじっと見ている。そして、涙を流し始めてしまうのであった。壊れてしまっているのか。これは俺にはどうしようもないのだろうか。そんな不安に襲われてしまう。自分の身内がこうなる姿など好き好んでみたい人間などいるわけがない。俺は動揺してしまったのである。それだけ、今の兄さんの姿を見たことがないのだ。俺は大きく目を見開いて驚愕の表情を見せてしまったことだろう。情けない。情けなくて仕方がない。自分を殴ってやりたくなる。
 俺たちは兄さんが落ち着くまで待った。俺はその間に、彼女たちに先に帰ってもいいと言っていたのだが、どうやら、一緒に待っていてくれたようで、それがいい方向に転がったのか、悪い方向に転がったのかわからないが、俺一人で兄さんといるよりは心がわずかに軽くなっているだろうとは思った。俺がまず耐えられるか怪しいのだ。俺の心の安寧のために彼女たちは残ってくれているのだとすら思えてならないのであるのだから。

「兄さん、辛いだろう。いいや、辛いに決まっている。どれほどの辛さかは想像できるわけがないが、教えてほしい。彼女と何があったのかを。どうして、兄さんは叩かれることになったのかを。そうでなければ解決できる可能性すらも見つけられない。だから、頼むよ兄さん。さっきの問答を教えてくれないか?」

 兄さんは、嘲笑するかのように息を吐き出した。その方向は俺たちのだれにも向かっていないということはわかっていた。虚空に吐き出しているのだから。それは、兄さん自身に向かっているのだと理解できたのだ。よほど追い詰められているのかもしれない。助けてやれることが出来るのか不安に思えてならない。だから、助けようという気持ちをまずは俺が捨てることにした。そんな高尚な気持ちで兄さんに向かってはいけないのだと、気持ちを改める必要があるのだから。

「僕が、マリィと婚約しているということは知っているだろう。新学年に上がったころ、マリィはどうも、ミーシャ……先ほど走り去っていた彼女に教えていたそうでね、僕たちのことを祝福してくれたんだよ。嬉しかったよ。友達が僕たちの将来を祝福してくれるのだからね。少しは恥ずかしくもあったけど、それ以上に嬉しかった。アランもわかるだろう。自分たちの幸せが他人から祝福されるということの幸福を。皆も知っているように、僕たちの関係性はただの友人という枠組みからは変わってしまったけれど、僕たちは今まで通りの関係を続けていたんだ。最初はミーシャが僕たちに悪いなんて言って遠慮していたんだけど、そんなことはないってね。僕たちの交友は切れないってね。それでもやっぱり、僕とマリィの仲に遠慮しているみたいで、少しもどかしかったよ。見るからにわかってしまうからね。それでも、何とか一年間やってこれたんだ。楽しかったね。でも、どうやらそれは僕の思い違いだったようなんだ。バカだよね。本当にバカだ。女の子一人の気持ちにも気づかないなんてね。彼女は、僕たちと距離を空けるようになってしまったんだ。僕は遠慮する必要なんかないって言っているのに、どうしても彼女と距離が離れていってしまうんだ。どうしようもないさ。どうやっても、元の関係に戻れないんだ。それでも、僕は無理やりにでも関係を修復できないかと考えていた。まあ、全く思いつくことはなかったけどね。それで、今日だ。一緒に勉強しないかって。いままでみたいに、三人で勉強しないかって。言ったんだけどね、ダメだったよ。『もう二度と関わらないでほしい。あなたのことが大っ嫌い』だとね。はは、馬鹿だなあ。嫌われているというのにも関わらず、一生懸命に仲を戻そうとしていたんだ。無理だというのにね。無駄なことばかりをしていたんだ」

 兄さんは、下を向いた。今の顔を俺たちに見せたくないと言っているかのようである。だから、俺は顔を無理やりに上げさせることはしなかった。これは、そのままにしておくのが正しいのだ。誰にだって、人に見られたくない顔の一つはあるのだ。静かに、彼の姿を見ているだけである。彼の全体を見ているだけなのである。彼が、彼の気持ちがかすかに保っていられるように、見守るばかりなのだ。
 俺は、彼女たちを見回してみる。彼女たちも、何か思うところがあるだろうか、苦い顔をしているのである。これは俺と同じ思いを抱いているのだろうか、それとも別の思いか。それはわからない。だが、彼女たちの方がより正確なのではないかと思ってもいた。だから、俺には何も言うことは出来ないのではないかと思えてならなかった。男の俺ではだめなのではないのかと感じてしまうのだ。
 どうしたほうが良いかと悩んでいるような彼女たちに、俺はただにこりと微笑むだけである。これは、手助けをするべき案件だろうか。そもそも、その手助けは正しいのだろうか。彼らの問題を俺ら他人が突っついてもいいのだろうか。悩みとは打ち明けることで、わずかに心が軽くなる。だからこそ、無理やりに吐き出させるわけであるが、それを助けるかどうかは、また違ってくるのである。これに手を伸ばせば、また別の動きへと変わるだろうが、それ以上に彼らが壊れる可能性が出てくる。もう壊れているが、かすかにつながれた望みが確実に壊れてしまう道を選ばせてしまうことだってあり得るのだ。俺は恐ろしくなる。手が震える。

「兄さん、よく聞いてくれ。これはとても大事な話だ。絶対に聞き逃してはいけない。そして、真剣に答えなくてはならないことでもあるんだ。兄さんは、彼女のことが好きかい? 愛しているのかい?」

 兄さんは訳が分からないというような顔を見せていた。上手く理解できていないような顔を見せているのである。俺はそれを予想していた。兄さんならば、そんな反応をしてもおかしくないとは予想できるのである。だが、今はその反応で許されるはずがないのである。あいまいな答えなど許されてはいないのだから。
 そのために、俺は何度も問いかける。答えてくれるまで。兄さんは恥ずかしがり屋だから、答えてくれるまでに多大な時間を使うことだろう。俺はそれでも構わないのだ。ただ問いかけ続けるだけなのだから。これには頭の中で答えを出しても意味がない。口に出さねば意味がないのだ。口に出すことが最も重要な意味を持つのであるのだから。そうしなければ次へと進むことはない。絶対にそうだと言い切れる。確信に近いものがあるのだから。

「…………。……好きだ。彼女のことも好きだ。マリィも好きだが、それと同じくらい彼女のことも好きなんだ。一人の女性だけを愛さなくてはならないなんて怒られるかもしれない。だが、アランだってわかるだろう。二人とも、幸せにしたいんだ。どんだけ傲慢で自己中心的な考えだと罵られようとも、この考えを変えるなんて無理なんだ」

 やっと答えてくれた。この答えを引き出すのに、どれほどの時間を使ったことか。長い時間がかかったことだろう。だが、これを今兄さんの口から出したということは非常に大きいことなのだ。
 だが、兄さんの答えは俺には予想できていたことである。ならば、するべきことは一つしかないだろう。この感情は、最も美しいのだから。その美しいものは隠してはいけないのだ。見せなくてはいけないのだ。俺は笑う。ただ笑う。嘲笑ではない。真剣な笑み。その考えの全てを肯定する笑みなのだ。それだけでも兄さんにはわかったことだろう。顔が思いっきり赤くなっているのだから。

「い、いや、それだと僕はマリィという婚約者がいて、さらにミーシャに手を出すということになるじゃないか。いやまあ、確かに、僕の望みをかなえるにはそうするのが良いのだろうが、それは、なんというか……怖いんだ。怖くて怖くて仕方がないんだ。考えただけで手が震えてもおかしくはない」
「それがどうしたというのだ。たしかに、俺だって、二人もいるさ。でも、彼女たちを愛している。好きだという感情は二人ともに同時に存在している。愛するという気持ちに優劣なんて存在しないんだ。二人をともに永遠に愛し続ければいい。愛がなくならなければいい。永遠ならば、たとえ何人作ろうとも、永遠ならば、自分を通せるならば、いいのさ」

 俺の説得はむちゃくちゃなのかもしれない。自分の理論でしかない。だが、兄さんの環境は変わってしまったのだ。変わったところで元の環境を戻そうとするには、いいや、元にも戻すことなんて不可能なのだ。ということは、兄さん自身が変わらなくてはいけない。変化を望まなくてはいけないのだ。それが、兄さんの唯一の救いなのではないかという考えでしかなかった。ならば、それに対する恐れなど乗り越えていかなくてはならないだろう。

「こ、断られたらどうするのさ。もう二度と関係が修復されることはないんだぞ。そんなこと怖くてできるわけない――」
「――諦めるといいさ。もうもともと壊れているようなものだと思えばいい。それならば恐れなど一つもないだろう。それに、いま大事なのは、自分の感情をたださらけ出すことだけなのだからね。自己満足だよ。断られても、受け入れられても、どっちでもいいのさ。そうでなくてはいけないのだから」

 俺は無責任であった。それが愛おしくてたまらないからだ。未来なんて、どっちでもいいのだから。どちらも愛せてしまうのだから。そこまで到達しなくてはいけないと思うのだから。

「天の仙人様」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く