天の仙人様

海沼偲

第82話

 くらくらとした頭のせいか、まともな思考が出来ていないと思うのは正しいのであろうか。だんだんと、思考が鮮明になってきているという感覚を覚えているのだから、いままでが、より濁った考えの中でいたのかもしれないと思えてきてならない。俺は静かに、息を吸って体の換気をするのであった。新鮮な空気が体の中を巡っていき、今編んでよりも素早く頭が覚醒していっているような気がいてくる。気分の問題でしかないが、こういう良くなる方向へと向かっていっているのはいいことだろう。
 すると、今もまだべったりとくっついたままで離れる気配など一つも見せなかったルクトルが、何かを思い出したのかばっと距離を取るのであった。その顔にはすべてが終わったかのような絶望感が漂っているのである。生きている価値がないとまで思っていても不思議ではないだろう。彼の顔色は青白くありながら、赤く染まっている。二色が奇妙に混ざりあっているのであった。それでありながら、どうも紫っぽい色には見えないのだ。赤青いという不思議ないろである。それが彼の肌に非常に似合っているようである。俺は彼の肌にすっと手を伸ばし頬に触れる。柔らかい肌である。静かに撫でるのだ。しかし、彼はそれでも顔色一つ変えることなくじっと下を向いたまま固まってしまっただけで、何もしてこない。それがにわかに恐怖を駆り立てているのであった。
 俺は、彼の手を握ってみるのだが、反応を示してくれることはない。俺としてはどうしようもない。ならば、何をすればいいのかと、どうすれば彼の意識が戻ってくるのかと悩んでしまう。何が正しいことであろうか。何をすれば、彼はこちらに反応を示してくれるだろうか。俺はそれを求めるように、彼の頭をなでるのであった。

「あ、あの……あの……ごめんなさい、ごめんなさい。ご、ごめんなさい。申し訳ございません。出過ぎた真似をしてしまいました。わたしごときが調子に乗ってしまったのです。卑しい身の上でありながら、アラン様のお優しさに付け込んでしまい、こんなはしたない真似をしてしまったのです。許してください。もう二度といたしません。もう二度と、アラン様に近づこうなどとすら望みません。遠くから、ただ遠くから見ておくだけにします。それだけにとどめます。ですから、許してください」

 彼は、ぼそぼそと、小声で、なおかつ早口でありながら、呟いている。頭を下げているのだから、よけい聞き取りづらくてしょうがない。俺は静かに、彼の頭を上げさせる。彼は涙に顔を濡らしているのである。鼻水も出てしまっている。ぐしゃぐしゃに歪んでしまっているのである。愛らしい顔が涙で台無しになってしまっている。それもまた綺麗なものではあるが、今はそういうことではない。俺は静かに彼を抱きしめるのだ。彼はそれに怯えを見せるのである。体を震わせて、今すぐにでも離れようと体を動かすのである。だが、俺はそうはしなかった。そうしてはいけないと思ったのだ。わかったのである。理解できたのである。離してしまったら、失ってしまうような気がしたのだ。何かが確実に消えてしまうのだ。

「何を泣いている。どこに泣く必要などあるのだ。ルクトルは、何をしたというのだい。何の罪を犯したというのだい。その罪は、償わなければいけない程のものなのかい。いいや、そんなことはない。断じてない。お互いが、愛し愛されているからこそ起きたことに、罪というものはない。ならば、これは罪だろうか。そうではないだろうな。俺はルクトルを愛しているのだから。それならば、お互いが愛し合っているからこそ起きただけのことだろう。愛が交わっただけだ。もしかして、ルクトルは俺のことを愛してくれてはいないのかい? それだと非常に残念極まることだが、それなら、今の反応も納得がいってしまうけれども」
「い、いえ! わたしも、アラン様のことは愛しております。お慕いしております。愛していないなんて、あり得るわけがありません。世界で最も、誰よりもアラン様のことを愛しております」
「そうか、ならば、これに対して、ルクトルが謝ることなど一つとしてないではないか? だったら、笑おう。愛し合っていることを喜び、笑おう。それが好きだ。俺はそれを愛している。人は笑顔の時が最も美しいのだから。だから、ルクトルにも笑っていてほしい。君の綺麗な姿は笑っている時なんだからさ」
「はい、アラン様……」

 彼は、静かに頷いた。そして、俺に笑顔を見せてくれるのだ。とても愛らしい笑顔である。俺はこの顔を守りたいと思う。とても美しい顔なのだから。そこいらの宝石なんかは、いしつぶての価値すらも見いだせない程に、素晴らしいものなのだと、胸を張って言えるのである。
 彼は、嬉しく思ってくれているのだろうか。俺に抱きついて離してくれなくなってしまった。彼の感情はまたしても爆発してしまったのだろうか。だが、俺も同じなのである。抱きしめているのだ。二人して、お互いが離れ離れになることを拒絶してしまっていたのであった。だが、今日は学校はないのだが、明日から成績が貼り出されて、クラスが決まるのだ。それまでの間に、心の準備とか、持ち物の準備もあるか。いろいろとやることはあるだろう。
 しかし、俺は彼の笑顔のまま抱きつく姿を見ていると、これを壊してしまうのが嫌になってしまった。ならば、諦めて、今日はずっと二人で一緒にいるのも悪くないのではないかとさえ思ってしまうのである。二人でベッドの上で抱き合うのである。愛を語らうのも悪くはない。鍵をかけて、世界に二人。俺とルクトルの二人だけで一日の世界を過ごすのである。俺にはそれが素晴らしいことのように思えてきて仕方がなかった。いいや、世界中のだれが見ても、素晴らしいことだと称賛してくれるのではないだろうか。それほどまでの自信すらある。
 食事や風呂といった時間を除いて、残りの時間は全てルクトルと一緒に部屋にこもっていた。だからといって何をするでもなく、ただ、彼が俺に膝枕をしてくれるだけである。そして、彼が話してくれる小話に耳を傾けるのだ。静かで安らぐひと時であった。話一つ一つは、自分で考えたものなのか、平坦で淡々としたものであったが、俺にはそれが心地よく聞こえている。時折、彼の方へと目を向けて、頬をなでるのだ。目を細めてにこりと笑ってくれる。とても可愛らしいのである。さらには、先ほどのでふっきれてしまったのか、軽くではあるが、キスをしてくるようにまでなってしまった。これは大丈夫なのかと心配してしまうわけだが、今二人きりだからこそ、しているだけだそうで。そうじゃなければしないのだといっている。明らかに怪しくもあるが、俺はその言葉を信じてやることしかできないのだ。ならば、それを信じるだろう。
 そんな一日を送った翌日。俺は目を覚ますと、すぐに学校に行けるように準備を始める。布団を完全にはいで、ルクトルも無理やり起こすのである。もぞもぞと起き上がると、唇を突き出して迫ってきている。先にそれではないだろうと、俺は首筋を彼の唇に当てさせると、思い出したかのように噛みついてきて、俺の血を吸いだす。このときに立っていると、急に力が抜けて倒れてしまうので、しっかりと座っておくことは忘れない。とても静かな時間が流れている。聞こえる音は彼が喉を鳴らす音だけなのだ。妙に官能的に聞こえてきて仕方がないのであった。
 食事が終わって、顔を離すと、今度はこちらの唇へと近づいてくる。あまりにも昨日とは違う積極性に思わず体をのけぞらせる。それをすると、あれはとても悲しげな眼を見せてしまうのだ。

「安心してほしい。これはちょっと驚いただけなんだ。昨日までとは全然態度が違うのだからね。もじもじとして、恥ずかしそうにしていたとは思えないだろう。こんなに積極的になっているのだからさ」
「そ、そうでした。申し訳ありません。……やはり、おしとやかな方が好きですか? それなら、変に求めないようにします。静かに、半歩後ろに下がって、アラン様の後をついていくようにしましょう」

 俺の答えを聞く前に、彼はすっと立ち上がっててきぱきと準備を始めるのである。昨日のうちに、自分の部屋から、学校に来ていく着替えなどを持ってきており、準備は万端であった。あとは、学校へ行くだけとなっているのである。男子の服を着ているわけであるから、それに対するわずかな不満が混ざったような表情をしている。
 俺は、静かにそれを見ているだけである。彼にとってどれが一番いいのかがわからない。正解は彼の好きなような表現をすればいいのだろう。だが、それでうまくいく世の中でもない。彼のぐちゃぐちゃに混ぜ合わされたかのような好意は、時間をかけて、ゆっくりとほぐしていかなくてはならないのである。それを慌ててはいけないのだと俺に言い聞かせる。
 部屋を出て、歩いていけば、同じ目的地に向かう新入生が視界に入る。彼らの後に続くようにしてのんびりと歩いているのである。道のわきに生えている名も知らないような草をぼーっと眺めるように流していく。こつこつと足音が俺の耳に残るように響いている。緊張しているのだろうか。何を緊張するというのか。だが、自分が出しているであろう音という音が、すべて聞こえてきているようにすら感じてしまうのである。それに、顔をゆがめてしまった。

「アラン様? どうかなさいましたか? もしお体が優れないようでしたら、わたしが、保健室まで連れて行って差し上げますが」

 と、彼は心配そうに俺の顔をのぞき込んでくる。だが、俺は笑う。笑みを見せる。これは、彼が心配するようなことではないのだ。だからこそ、俺はゆっくりと自然な笑みを浮かべるのである。彼もそれに安心してくれたのだろう。静かに下がってくれたのであった。
 大きな掲示板。そこには、俺たち新入生の成績表が貼り出される。そして、それぞれのクラスへと向かうのだ。今はまだ張り出されておらず、みんなが緊張の面持ちで、それを見ているだけである。今来ていても無駄に緊張する時間が長引いてしまうだけだと思うのだが、どうもせっかちな人が多いらしい。
 遠くから、大きな筒をもって、歩いてきている人が来る。そちらへと一斉にみんなが視線を向ける。同も、彼が持っているものに、成績が書かれているのだろうということが分かる。俺としては、次席になっているのならば、万々歳である。ハルに負けてしまったのだ。ハルが主席なのだろうということは言われなくてもわかるのだから。
 その紙を広げて掲示板に張り付ける。しっかりと両端までもが張り付けられたことを確認すると、その人はその場から離れていってしまった。それと同時に、生徒が一斉に殺到し、どこに自分の名前が書かれているかを必死に探しているようであった。俺はその波に飲み込まれることを嫌い、少し人が減ってから行こうと決める。
 しばらくすれば、当然人は減ってくるわけで、それに合わせて、俺も自分の順がどこなのかを探し始める。しっかりと。
 当然すぐに見つかった。何せ、一から順番に見ていけばいいのだから。そしたらすぐそこにいるだろうことはわかっていたのだ。しっかりと名前が書かれていた。次席の欄に自分の名前が入っていることが確認できたのである。
 そこのクラスは特待クラス。俺がこれから学校生活していくクラスであった。

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