天の仙人様

海沼偲

第69話

 ルクトルが屋敷の使用人として働き始めてから、いくつかの日にちが経った。最初の方は、メイド服を着ていたわけであるが、最近は男性用の作業服を着ていることが多い。つなぎである。わざわざメイド服を着なくても俺に嫌われることがないということを知ったのならば、別に着る必要はないのである。しかし、女性使用人たちには不評である。だからなのか、ルクトルが休みの日には、使用人たちの着せ替え遊びの標的にされているのをよく見る。可哀そうではあるが、彼が可愛らしい服装を着ている姿を俺に見せてくれるのは嬉しい。彼が着ていたい衣服を着ているのが一番いいのだろうが、それと同時に、とても愛らしい少女のような顔立ちを最大限生かすような可愛らしいドレスなども着ている姿を見たいという、俺個人の欲望もあるのだ。この二つを両立させることは出来ないのだから、彼の気持ちを優先させてしかるべきであるが、そのような時には、俺は何も口を出すことはしなかった。
 彼は出会った当初のような、やつれたような顔つきではなくなってきている。いまだに青白い顔色ではあるが、これは生まれつきなのだそうだから仕方ないとして、肉付きもよくなってきているため、安心している。しかし、それとは対照的に俺の体が少し疲れを見せているようでもあるのだ。気のせいかもしれないが、貧血のような症状に近いような気がするのである。とはいえそれが起きるのは朝起きただけであり、すぐにでも体調は万全に戻るのだけれど。生気でも吸い取られてしまっているのかと心配しているわけだが、別にそういうわけではなく気の巡りも正常である。だから、特に気にすることでもないかと放置しているし、放置することしかできなかった。お師匠様の力を借りようかとも思ったが、今回は気まぐれで来てくれなかった。
 今、ルクトルはゴシックロリータというべきか、その服装に身を包んでいる。それがひどい程に似合っている。彼の口を閉じた時の表情と非常に合っているのだ。彼は俺の隣に座って、本を読んでいるのである。行商人の息子らしく、文字を読むことに関しては問題ない。物静かにぺらぺらと紙をめくる音のみが響いているのみであり、そこに在るルクトルの姿にはわずかながらの神聖さがあった。だが、姿はまるで魔性である。より闇へといざなうような悪の化身であるかのような誘惑的な姿でありながら、聖母のような美しさを包んでいるという、矛盾があった。闇と光が同時にいるのである。灰色か。だが、灰色のようにくすんではいない。どちらも輝いているのだ。
 俺の視線に気づいたらしく、俺たちの視線が合う。すっと、わずかに彼が体を寄せてくる。そして、再び本に視線を落とす。彼の呼んでいる本は王子さまが囚われのお姫様を救い出すという王道の物語であった。子供向けに盛り上がる内容になっているし、大人が読んでもそれなりの奥深さを持っている。

「わたしは、お姫様ですね。アラン様が、王子様なのです。この物語は、まるでわたしたちが出会うことを知っていて書いてあるかのような物語です。運命なのでしょうか。とても素敵です」
「そう読むことが出来るのかい?」
「ええ、そう読めてしまいます。囚われてしまったわたしを、さっそうと助けてくださるのです。この王子様は。素敵です。憧れてしまいます。でも、わたしも、それに値する方に助けていただけて、とてもうれしいです」

 彼は、それを言うと、また静かに本を読み始めるのだ。俺は、その言われたことを、ふと何度も反芻しているのであった。
 本を読み終わったようで、閉じてテーブルの上に置いた。ソファに倒れ掛かるように力を抜く。その時に、体がずれて俺にもたれかかるようになってしまう。しかし、彼はそれを修正しようという気はないらしく、そのままもたれたままである。さらに、俺の手に触れると、そのまま手をつなぐのである。俺はそれに力を籠める。ぎゅっと、強く、そして優しく、握りしめる。暖かく、そして冷たい。彼の手のひらは、二つの温度が混ざり合っているような、感覚であった。
 彼は愛に飢えているのだ。親からの愛を途中で奪われてしまった。だからこそ、飢えている。ならば、俺は彼に親からもらうはずだった愛情を与えてやる義務があるのだろう。こういう小さなことでもいいのだ。彼を愛していると、大切にしていると思い行動に出していくことが必要なのだ。彼の姿を見ると、より深くそう感じるのである。

「アラン様。アラン様の手はとても温かいのですね。わたしはアラン様の使用人となることが出来てとてもうれしいです」
「そうかい、そんなことを言ってくれると嬉しいな。俺も、ルクトルのようなとても心優しい少年と一緒に過ごすことが出来てうれしいよ」
「アラン様……ありがとうございます。父と母を失って、もうどうしようもない時に、アラン様と出会ったことは、わたしの幸運だったのかもしれません。身内以外で初めて大切な人と言える存在が出来ました」

 彼がそこまで俺のことを想ってくれていることはとてもうれしい。それだけ俺を愛してくれているということなのだ。俺はつないでいる手に力が入ってしまう。指を絡ませるように深くつないでいく。
 ルクトルの匂いがこちらへと漂ってきた。男性的でもありながら、女性的な匂いであった。誘惑するような魅惑的な香りが彼から出ているのである。それと混ざるようにわずかな血の匂いもしている。鉄の匂いのようでありながら生の匂いである。その独特の匂いはいつまででも嗅いでいられるほどの魔力を持っているような気がするのだ。虜になってしまっているのかもしれない。このままでは逃げられないだろう。だが、俺は逃げるつもりはなかった。彼の虜になっても構わないとさえ思っている。俺は彼から離れるつもりはないのだ。ならば、虜になることがそれをより強く意識づけてくれるようで、望むところなのであるのだから。
 可愛らしいルクトルの姿も、一週間に一度しか見ることは出来ない。それは残念でもあるが、彼はその姿が真の姿というわけでもない。普段の作業着の方がより、本来の姿に近いかもしれない。どちらが彼の本性なのかはわからないが、おそらく、普段の仕事着なのだろうと思う。
 休みは終わったのだ。いつものようにルクトルは、仕事を始めていることだろう。そして、俺は今日もわずかに体が重い。貧血なのかどうなのか。体に力がみなぎっていないのである。それもすぐになくなるから、気にはしないが。気にするべきかもしれないが、それに気を張ることが無駄な疲労を生むような気がしてならないのだ。だから、気にしないことにするのだ。
 最近はサラ母さんの所へ行くことはない。なにせ、病気が治ったといっても間違いではない程に回復しているのだから。俺がわざわざ整えてあげる必要もないのである。跡は自分の回復力だけで元気になるだろうと思う。とても喜ばしいことだった。もし、俺が学校に行くことになった時に母さんの病気が治っていなかったらどうしたものかと思っていたのだから。

「ルクトルという少年はなかなかやるのう。まじめに仕事も取り組んでおるし、将来はお主についていっても大丈夫であろうなあ。それに見目麗しい。世の女子どもが放っておかない美貌の持ち主だしの。いや、女子どもはその美しさに嫉妬をするかもしれないの。それほどに罪な男じゃ」
「ええ、ルクトルは頑張っていますよ、九尾様。仕事を頑張っていることで今までのつらい過去を忘れようとしているのかもしれないですが、俺が彼のそういう弱さを補ってあげればいいのです。それに、女はそこまで醜くはありませんよ。美しいのです。宝石でもあり、河原の石でもある。そのどれもが、同等に輝いているのです」

 九尾様がまたもや使用人に憑依して遊びに来ているのである。憑依されている使用人の仕事をしながら、俺と会話をしているわけである。一応は仕事をしておかないと怒られてしまうからな。そこは抜かりないのであった。

「くっくっく、お主はたちはまるで恋人みたいだのう。男と女でなければ、そこまで想い合うこともあるまいよ」
「そうでしょうか。俺にとってみれば、男も女も変わりなく。みんな愛すべき存在ですから。ルクトルが可愛らしい少年であることには間違いありませんが、男らしい少年であったとしても俺の愛は変わることはありませんよ。愛というのはそういうものでしょう。区別なんてつけられないのですよ」
「いいのう、いいのう。わらわも、鞍馬とそれほどまでに深く愛し合いたいものじゃ。狂ったように、壊れたように二人がお互いにお互いを求めあう。美しいのう。わらわも狂いたいものじゃ」

 心底羨ましそうにルクトルを見ている。愛する者に愛されているという幸せを、九尾様は知っているのだろう。だからこそ、恋い焦がれているのだろう。求めているのだろう。喉から手が出るほど渇望してしまっているのだ。

「残念ですね、九尾様。私はアランに愛されていますから、そのつらさを共有は出来ませんけど。もし、アランに愛されないと考えただけで夜も眠れなくなりますね。もしかして、この気持ちが九尾様のお気持ちなのですか?」

 俺の隣にいた、ハルも彼女の言葉に同意するようにうなずいた。それと同時に、俺の手を握る。離れないようにしっかりとである。俺は彼女の方を向いてにこりと微笑むと、彼女は頬を緩ませながら俺の頬にキスをする。
 とはいえ、お師匠様も人が悪いというべきか。彼の中ではどういう思いが渦巻いているのか。それを知りたくもあるし、見てはいけないような気もする。愛を知らないか、愛を捨てたか。それとも、愛に捨てられたのか。俺はわからない。だが、それは愛ではないという思いがある。真の愛にお師匠様を触れさせてあげたいという思いがある。そのために、九尾様には頑張ってほしいものだ。
 だが、このおせっかいを行動に移すことはしない。愛を他人の力によって無理やりはぐくませるのは嫌いなのだ。他人の力によって生まれた情は、愛情には永遠にならないのだから。所詮は恋でしかなくなってしまうのだ。俺はそれをひどく嫌悪しているのだ。
 九尾様は、この後も一言二言会話を交わすと、いなくなる。意識が戻った使用人はきょとんと、とぼけたような顔をしていたが、意識がゆっくりと覚醒していくと、慌てたように仕事に戻っていくのである。
 俺は、彼女の後姿をただ何となしに見ていたのであった。

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