天の仙人様

海沼偲

第64話

 俺たちは朝起きてから、夜眠るまで……夜寝てからもであるが、常に愛し合っているし、その光景というものを使用人たちに見せてきた。見せてきたと言うと語弊があるかもしれない。正確には見られてきたであろうか。そういうところを見ていれば、たとえ幼児の愛情とは言え、男女が愛し合うさまを羨み、自分もと動く者がいてもおかしくはないだろう。実際、使用人たちの間でも恋人関係になったものがいる。同僚からも祝福されていたし、俺も末永く幸せに続くように祈らせてもらった。
 やはり、愛情というものはもらい、与えていると生活が豊かになるのか、仕事にも精を出していた。父さんたちも嬉しそうにその姿を見ているのを何度か見かけたものである。
 だが、今日はその二人に影が下りてきているようであった。明らかに普段とは違いピリピリとした空気がそこには存在していた。まあ、喧嘩ぐらいはするだろうと思う。たとえどんなにくだらない理由であろうとも、喧嘩が起きて当たり前である。俺たちだって喧嘩をする。底冷えした冷気のような鳥肌の立つようなものに近いが。そう考えると、このように感情をむき出しにする喧嘩というものも悪くはないのではないかと思う。
 だが、どんな内容の喧嘩をしているのかということを興味に思ってしまってはいけない。それは彼らの愛を侮辱することに他ならないのである。喧嘩というのも、また愛であるのならば、それに介入することは、愛を引き裂くことと同じなのであった。だからこそ、仲裁を俺はしないし、したくもないのである。虫唾が走るといってもよかったのだ。それほど不快極まる行為だった。
 そういえば……今年は月が大きいな。普段よりもわずかながら、月が大きいと感じる。錯覚かもしれないが、空に対する月の比率が変わったように思えてならないのである。そういうわけもあって、俺は夜の空を見ながら、そんなことを考えているわけである。ただじっと空を見ているだけなのにもかかわらず、毎日だというのにも、空というのは一つとして同じ顔を見せることはないのだということを語り掛けてきてくれているようであった。それがたまらなくうれしく感じる。会話出来ているのではと思ってしまう。話しかけてみよう。綺麗だと。言葉が帰ってくるだろう。ありがとうと。それとも、お世辞はいらないよ、かもしれない。いや、月は謙虚なのだ。だから後者だろう。遠慮がちに答えるのさ、そんなことはありません、とね。だが、夜の中では君が一番目立つ。闇の中では君ほど大きく世界を輝かせるものはいないだろう。それが非常に美しいかった。それを謙虚だとは言わせないさ。
 月は綺麗だ。星が周りをキラキラと飛んでいるわけだが、それ以上にただ一つ、大きくて模様を見せつけるかのように堂々といるのだ。俺はそれが好ましく思えた。最もこの大地に近いところにいるのだ。小さくとも大きく見せる力を持っているのである。素敵であろう。俺はなんとなく手を伸ばしてみる。もしかしたら届くかもしれない。指の先が触れるかもしれない。そんなわずかな期待もあるのだ。だが、俺の指先はふらふらと宙をさまようばかりである。
 ハルの腕が俺の首に伸びていき、絡まるように首に回される。だんだんと首が絞まっていく。呼吸をするのが苦しくなってくる。酸素がゆっくりと体から消えていくのを実感する。俺はゆっくりと息を吸って、酸素を取り戻す。そして、再び、息苦しさを味わっていく。
 ハルはじっと俺の顔を見つめている。見つめられている気配がするのだ。首を絞められてわずかながらにもがいている俺の顔を見ているのだ。それは楽しいことなのだろうか。ああ、楽しいかもしれない。興味深いかもしれない。俺が苦しむ姿というのは普段見れない顔だ。それを見ることが出来るのだから。
 緩んだ。息が滞りなく体の中へと沁み込んでいく。俺は深く息を吸って吐いた。体に力がみなぎるかのような気がする。仙人だって霞を食べなければ死ぬのだ。
 ハルは俺の隣に座って、窓の外を眺めた。星と月と、闇がある。それだけであった。むしろ、それ以外には必要などないのだ。光があって、闇が生まれているだけであった。それとも、闇があって光があるのか。どちらでもいい。どちらとも取れるままにしておくのがいいのだ。二つが同時に存在し続けていることの美しさを夜は見せてくれているのだ。俺はうっとりと眺めているが、それをハルは眺めているようにも感じられたのである。

「俺の顔を見るほうが楽しいかい? 俺の顔なんて、ここに広がるもの達に比べれば、醜悪極まりない劣悪なものだよ」
「アランの顔を見ても楽しいとは思わないよ。とっても素敵だなって思う。これ以上ないくらいにとても素晴らしいものなんだって思うの。それで、私のものとしてすべてを支配したいと思う。アランは私だけを見て、私はアランだけを見る。私たちの目線はずっとお互いから離れることはないの。とっても素敵だと思わない?」
「ああ、きっと素晴らしいだろうね。美しいものしかこの目には入らないんだ。きっと、煌びやかで素敵なことだろう。この世の他に勝るものなんてないといっても不思議ではないだろうさ」
「そうでしょう?」

 だが、俺はそれをやりたいとは思えなかった。ハルを永遠に見続けることが嫌なのではない。ハルの綺麗なところしか見えなくなるところが嫌なのである。それだけではない、世界中の全ての美醜が俺の世界から無くなってしまうのだ。それは非常に恐ろしいことであった。世界と共に生きるには、世界を見なくてはならないのだ。現実を。事実を。そのすべてを見つめていなくてはならない。それが最も美しく、愛すべきことであるのだ。

「俺は、ハルを見たいんじゃないんだ。今ここにいる瞬間だけのハルだけではだめなんだよ。ハルの過去も今も未来も含めて、いいところも悪いところも、可愛らしいところも意地悪なところも、そういうところをも含めた存在としてハルを見たいし、そのハルを愛しているんだ。だから、ハルの綺麗な容姿を見続けるのも悪くないけど、それだけじゃ……ハルを見ていることにはならないんだ」

 ハルはうつむいて何も言わない。俺は、抱きしめるように体を寄せる。そして、頭をなでるのだ。そのたびに、ハルのさわやかでありながら甘さを残すような匂いに酔っていく。こういうところもいいのだ。全てをもってハルという存在であるし、そのすべてを愛しているわけなのだから。
 ハルは唐突に俺を押し倒して、上に乗りかかる。下から見上げるハルというのも新鮮であった。また新たな一面というのを見ることが出来た。俺は心が喜びに飛び跳ねているのを感じるわけである。
 そして、自分の唇を俺へと当てる。お互いがつながっているのだ。絡まるように。愛が流れ込んでくる。俺もそれに応える。熱い。愛は熱をもって交わる。暖かさと、心地よさに心がさっと流されるように感じる。混ざり合っていく感覚である。深く深く、より深くへと進んでいくのである。
 唇が離れていく。名残惜しくはあるが、永遠ではない。始まりあれば終わりもあるのだ。終わりがない者がいうことではないだろうが。荒い呼吸と共に、熱の視線を向けている。俺は髪に触れる。さらさらとしている。よく手入れされている。傷んでなどいない。傷むわけがない。美しさのレベルが一つ違うのである。

「アラン……好きなの。とっても。一人占めしたくて仕方がないの。ルーシィとは友達だよ。彼女も、アランのことが好きなのは知っている。でも、私も好き。私の方が好き。この世にいるどんなメスが持つ行為のどれよりも私がアランに対する好意の方が大きい。そんなのは言うまでもなく決まっているの。だから、アランといたい。ずっといたい。彼女に向いている時間すらも私のものにしたい。出来ないのは知っている。アランはそういう人だから。みんなを愛しているから。同じぐらいね。それでも、私がアランを独り占めしたいという想いも絶対に譲らないの。譲れるわけがない。これは私一人のものだし、ルーシィなんかに渡さないの。だから、意地悪でもいい。アランは愛してくれるから。だから、どんなに悪い女の子でもいいの。あなたに愛されればそれが正解だから。正しいことだから。正しいことをしちゃいけないなんて、どこの世界の神様も言わないでしょう?」

 俺は静かに聞いていた。何度も反芻するように。ハルはそういう女の子だというのは知っている。だから、驚きはない。それに、そう思ってもいいじゃないかと思う。俺だって自分の信念を曲げない。ならば、彼女が曲げなくてはいけない道理はない。俺はハルとルーシィを愛し続けるし、ハルは、俺を独占しようとしていいのだ。どちらも大正解だ。それに、そうやって動くハルが、俺は好きだ。愛しているのだ。それがハルなのならば、その通りに動いているのならば、愛せない通りなどないのだから。

「そうだ。そうだな。正しいよ。たとえ、世界中のだれが、ハルのことを否定しようとも、俺がハルのことを肯定してあげるよ。ハルが俺を独占しようとしてくれるのは、俺にとっても、ハルにとっても正しいことなんだ」
「でも、アランはルーシィも愛しているのでしょう? それだって変わらない。私の想いと同じように変わらない。永遠に」
「もちろん。それは俺が譲れないところだ。ハルと一緒だよ。だから、どちらも正しくて、どちらも達成できないようなものだね。矛と盾が両方とも壊れるようなものだよ。それでも、いいかい? 俺を愛してくれるかい? 俺は愛し続けるよ。ハルを愛し続ける。矛も壊れて、盾も壊れて。何も残らなくなっても、体すら壊れてしまっても。それでもハルを愛し続けるよ」

 ハルは笑った。今更何を言うのかと語っているかのようであった。そうなのだ。俺たちは絶対的な信頼感を持っている。愛してくれていると。永遠に続くと。だからこそ、我がままでいられるのだ。そういう自己中心的でありながら、それすらも含めて愛しているのである。俺たちの中で成立するのであれば、それが正解なのであるのだから。
 ハルは俺から離れる。そのおかげでようやく上体を起こすことが出来た。同じ目線になる。やはり愛らしい。ただじっと見つめているこの視線。それを交わしているだけであるが、お互いの想いが通じ合っているようで、嬉しくなる。見つめ合っている時間は永遠であり、有限であるのだ。ずっとずっと、続いてほしいという想いを無視するかのように終わりは来てしまう。だが、肉体での愛は有限だとしても、精神での愛は永遠である。目を逸らしても、背中を向き合わせてもこの想いがなくなることはないと実感できるのであるのだから。

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