天の仙人様

海沼偲

第55話

 ある日のこと、俺は朝早くに起きて、いつも通りサラ母さんの気の乱れを修正する作業をしていた。
 母さんはだいぶ元気になってきており、気が乱れるということもなくなってきており、軽く流して整えるだけでよくなってきていたのだ。そのため、食堂で俺たちと一緒に食事をとれるほどに回復してきているのだ。これには、父さんたちも涙を流して喜んでいる。俺だって、まさかここまで良くなるとは思っていなかった。せいぜい、応急処置レベルでしかないと思っていたのだ。しかし、現に母さんは治ってきているのだ。これほどうれしいことはない。
 今日も、母さんの手を取って食堂まで連れていくのである。俺の日課として加わっているのだ。この姿を見た使用人たちはほほえましいものを見る目でこちらを見てくるが、たしかに、俺もこの光景を見たら、優しい気持ちになる。だから、俺はむしろ誇らしい気持ちで歩いているのだ。
 その時のことだった。曲がり角でアリスと会ったのだ。別に驚くことではない。同じ家に住んでいるのだから、会うことは当然ある。だが、アリスの様子が変だったのだ。いや、様子というよりも、周囲がおかしかったというべきか。
 アリスのそばを光の塊が飛んでいるのだ。俺の口は顎が外れたかのように大きく開いた。それを見た、母さんは心配そうな顔を見せる。俺は大丈夫だと心配かけないようにふるまっているが、心臓が高鳴っていることは言うまでもないことだった。今目の前に光の塊……おそらく精霊が漂っているのだ。ここは聖域ではない。精霊が生きていけるような環境ではないはずなのだ。可能な限り、聖域を増やさないように仙術の修行はいつもの場所でしか行っていないのだからな。
 その光はチカチカと、アリスの周りを飛びながら明滅を繰り返している。それを追うように視線を動かしていると、アリスからは不思議そうな目を向けられてしまう。アリスは気づいていないのだろうか。それとも、気にしていない。そのどちらかかと俺は疑問に思ったわけである。

「アリス。それは何だい?」

 俺は、試しに精霊を指さして聞いてみることにしたのだ。そうすれば、これが見えているのが俺だけなのかがわかる。とはいえ、驚きの表情をあらわにしているのは俺だけなのだから、俺しか見えていないということも当然考えられる。
 その通りだと証明するように、アリスは不思議そうに首をかしげている。きょろきょろと周囲を見渡すが、何もいないような反応を見せているのだ。どうやら、アリスにすら見えていないようであった。俺はそれがたまらなく恐ろしくも感じた。つまりは、彼女が知覚出来ない何かによって、精霊が彼女の周りを飛んでいるのである。何があるのかと、不気味なことこの上がない。俺の手がにわかに震えているのを感じたようで、母さんが心配そうに聞いてくるが、相談しようとも、この恐ろしさを相談できる相手ではない。だから、無理に強がることしかできなかったのであった。

「どうしたのですか、お兄さま?」
「あ、ああ……いいんだ。俺の気のせいだったみたいだ。変な虫みたいなのが飛んでいるような気がしたんだけれども、見間違いだったみたいだ。変に心配かけて、ごめんな、アリス」

 俺は、とっさに嘘をついてその場を切り抜ける。アリスはあまり納得がいっていないようだったけれども、特に気にしていないらしく、それ以上何かを聞いてくることはなかった。母さんも、俺のことをじっと見ているが、特に重要なことでもなさそうで、にこりと笑った。俺も返す。
 朝食が終わり、母さんをいつもの部屋で寝かすと、自室へと戻って、頭を抱えた。ハルたちも心配そうにしているが、病気というわけではないので気にしないでほしいという思いがあった。
 ハルたちもあの精霊の姿は見えているらしく、それを聞いてみると、やはり疑問に思っていたようであったらしいが、他のみんなが見えていないので黙っていることにしていたそうだ。間違いではない。わからない状態で変なことを言って混乱させるほうが間違いなのだから。
 とはいえ、精霊が存在を保てる場所というのは聖域しかないはずだ。それ以外の場所で活動している精霊を聞いたことがない。妖精もまた同じであった。聞いたことがないものを考えてもわかるわけがないのだ。わからないとわかっている者に対して無理に頭を悩ませていることほど無駄なものはないのである。だから、俺はすぐにそれをあきらめるしかなかった。もやもやとしたまま俺の心に頭るのは非常に嫌なことであるのは違いない。しかし、それを解消する術もない。

「ハル、ルーシィ」
「なに?」

 ならば、彼女たちに聞いてみようとも思った。もしかしたら、彼女たちがこの気持ち悪さを取り除いてくれることもあるかもしれない。そう思ったわけである。で、試しに聞いてみたが、二人とも知らないという答えが返ってくる。本当に答えがわからない。アリスの周りでならば生きていける何かがあるのだろうか。そも、どうやって精霊がアリスの周りにいるのか。どこからやってきたのだ。

「こういうのって、英雄譚とかから調べたほうがいいんじゃないの? あれって大昔の偉い人のお話でしょ。もしかしたら、精霊と人に関係があるようなお話も載っているかもしれないよね」

 と、提案してくれたのはルーシィであった。……たしかに、英雄譚は太古の昔の英雄たちの武勇伝が書かれている。もしかしたら、ここにその答えが書かれている可能性だってある。俺はとりあえず、今まで読んできた英雄譚の内容を思い返していく。
 やはりあいまいだ。それっぽいような気がする話はいくつか候補があるが、記憶だけでは無理だな。今日は聖域まで散歩に行く余裕はなさそうだ。この疑問を解消しないと気持ちが悪いのだ。背中をウジ虫が這いまわっているような不快感。それがまとわりついている気がして仕方がない。
 俺たちはさっそく書斎へと足を運んだ。ここにしか本がないからな。そして、英雄譚に関係のある本を引っ張り出してきて、三人で手分けして探すことにした。目星をつけている話を探すように言ってある。これでなかったら、片っ端から探すしか、ないかもしれない。それは嫌だと思いながら、本をめくっていく。

 それを見つけたのは、ハルだった。大きな声を上げて知らせてくれた。俺たちはその話を呼んで納得した。たしかに、この話が一番アリスの現状と合っている可能性があるのだ。
 それは、一人の魔術師の話であった。ただ、その魔術師は普通の魔術師ではなかった。精霊魔術師だったのだ。彼は、幼いころから精霊の声が聞こえており、精霊の力を借りることが出来る体質だそうだ。他にも、彼の目には自分の周囲に何体もの精霊が漂っているのを感じ取れるらしい。それらの力を使って、魔導言語を編み出したともいわれている。そうだ、そういう話だった。俺の中では魔導言語を最初に生み出した魔術師としか頭になかった。彼が、この世界で唯一の魔導士と呼ばれていることも思い出す。世界で最初に魔法を生み出したと言われる偉大な人物の英雄譚なのだ。これは、この地に住む人間で知らない人はいないと言われるほどの偉大な人物らしい。だが、どんな人なのかはよくわかっていない。子孫が一人もいないのだ。文献も英雄譚のみ。だから、空想の人物なのではないかともいわれているが、今のアリスが彼と酷似しているようにも見えた。これに賭けるしかないのは事実なのである。

「これか……」
「たぶんこれだと思うよ。でも、本当にそうなのかな。アリスちゃんは別に精霊を感じ取れている様子はなかったよ」
「もしかしたら、わからないのかもしれない。精霊の声は妖精と似ているような綺麗な音色だ。それでも音楽として流れるわけではなく、オルゴールやハープの音一つ一つがポロンポロンと聞こえる程度だろう。これを精霊の声だと断言できることは出来ないんじゃないか。空耳が定期的に聞こえてきているとだけしか思っていない可能性だってあるだろうさ。だから、アリスもそこまで気にしていない可能性がある」

 一応は、これと似たようなことがアリスの中で起きているという結論に至った。というわけで、さっそくアリスを呼び出した。
 アリスは、突然呼び出されたことで緊張しているらしく、縮こまって俺たちの前に立っている。これは悪いことをしたと、俺は穏やかに笑みを作る。それにつられるように体の緊張もほぐれていくように感じる。

「アリス、聞きたいことがあるんだ」
「なんでしょうか。お兄さま」
「どこからか、綺麗な音が聞こえたりはしないか? たとえば、ハープだったり、ピアノだったり、他にも木管でも金管でもなんでもいい。何かしらの楽器の音だった理がアリスの耳から聞こえてくると思うんだけど」

 アリスは悩むように頭を抱えて思い出そうとしていると、はっとしてこちらを向いた。何かを思い出したのか、それとも今感じたのか。たしかに、今精霊が音を出した。それを聞き取った可能性はたかい。精霊も彼女と何かしらの意思疎通をしたいという思いがあるのかもしれない。

「いま、聞こえました。ちりんと鈴の音みたいな音が聞こえました。これですか、お兄さま」
「ああ、たぶんそれだ。アリスはその音について何も思わなかったのか」
「いえ、綺麗な音だと思いました。でも、よくわからなかったので、気にしませんでした。いま鈴の音を聞いて今までにも何度か聞いたことがあると思い出しました。でも、それ以上には何もわからなくて、特におかしいところはないので放っておいてました。」
「そうか……ありがとう」

 これまでの言葉からで、アリスは魔導師様と同じような体質であることが分かった。しかし、わかったからといっても、どうしようもないぞ。俺は精霊魔術なんてしらないからな。教えられるわけがない。

「お、お兄さま。私も何か病気なの?」

 声を震わせている。俺は安心するように頭に手を置いて、ゆっくりと撫でる。すると、俺の胴体に腕を回して抱きついてきた。

「心配しなくていい。別に病気じゃないよ。でも、そうだな……出来たら、その鈴の音に話しかけてみてくれないか。誰かに見られると独り言みたいで変な子に見られるから、ひとりでいる時とかにさ」
「それをするといいことがあるの?」
「たぶん、あるさ」
「わかった、やってみる」

 アリスは、ゆっくりと頷いた。これから、アリスがどうなるのかしっかりと見てあげないといけない。それが兄である俺の使命であろう。そう固く思うのであった。

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