天の仙人様

海沼偲

第25話 聖域の存在

 一週間か。それほどの時間が流れていった。いくつもの太陽が昇っていき、そして隠れていくのである。静かに流れていく時間の中で、それが何度も繰り返されているのだ。
 毎日見ていると、変化というものがわからなくなってしまうものであるが、始まりの記憶を思い出せば、今の景色が大きく変わっているということがよくわかるというものである。多くの年月を過ぎ去れば、その時間が長引くほどに、過去と今とでは別のものとして存在しているといえるほどに変わってしまう。だが、それは年をこえていかなくてはならない。日では変わることはないのだ。だが、それが起きているのだ。一週間前とそのあとで、変化が見てわかるというのであれば……それは、通常の変化というものから大きく外れたような変わりようであることは言うまでもない。
 それは、ある地点を経過すればわかることだった。空気が変わる。がらりと。戻ってみる。また変わる。俺が先ほどまでいた空間というのは非常に粘つくようなどろどろとした世界だと実感するほどに、俺が足を踏み入れた場所はさわやかに、さらさらとした重さを感じることのない空間なのである。空気が美味しくなるとかそういうレベルではない。呼吸をしているだけで、死にかけの老婆が若返るかもしれないと錯覚するほどの活力がみなぎってくるのである。呼吸をしているだけでだ。そこから、段々と精霊の姿が見えてくる。妖精もちらっと見える。彼らは、俺を歓迎するように集まる。手招きをしている。笑い声、それを聞くと、心がふわりと浮かぶような気分になる。
 下に視線を向けると、草の波が流れており、俺の足にゆったりと当たっている。点々と、花、花、花。花が咲いている。赤、白、青。色とりどりの花が波に揺られて頭を振っている。葉からは、時折、気泡が飛び出し、中空をさまよいはじける。ふらふらと俺の鼻のもとによって来た気泡ははじけると、すがすがしい森の匂いを届けてくれる。頭の靄がすべて消え失せてしまい、すっきりとしたような快感に襲われるのである。
 上は。木々が背を伸ばし、葉が空を覆っている。しかし、緑は薄く、光が差し、隠された太陽の光が俺たちのもとまで届いている。太陽の光は、バラバラに分解されて、色鮮やかに光り輝いている。虹色に時間ごとにゆっくりと変化しているのである。チカチカとせず、程よい美しさを保ったままに、変わり流れているのだ。その間には、妖精が飛び交い、枝に座って果実を食べている。ヒトの手のひらほどある果実は光によって金に輝いているようであり、金銀財宝よりも魅力的なものに見えるのである。
 小鳥たちが枝に止まってさえずる。メロディーとなり、この森に溶けていく。うっとりと、小鳥たちの鳴き声に自分たち自身が聞き惚れているのだ。自分たちの声を何層にも美しく、変質させていく。そして、それとハーモニーを奏でるかのように、妖精たちも歌いだしている。それぞれがそれぞれに好きなように歌っているだけだが、それが不協和音として残ることはなく、一つの完成された音楽として俺の耳に届くのである。
 俺を迎え入れるように精霊の一体は、こちらへと近寄ってきた。ただの光の塊。しかし、意志を持ち明滅によって感情を表現している。それにつられるようにしていくつもの精霊が集まってくる。群がってくる。すうっと、光が落ち着いた色を見せる。濃い青色の光に包まれる。ここは夜。朝でありながら、星空がここには展開されているのである。俺は、それについていくように足を進ませる。そうして、いつもの岩の前へとたどり着く。
 岩はグラデーションがかかっており、ゆっくりと色彩が変化していく。光を反射して虹色ではなく、岩そのものの色彩が変化している。そして、それはサイケデリックに過激なのではなく、おさえられるかのように淡く、儚い色合いであるのだ。もとの灰色のキャンパスに消えてしまうほど薄く、絵の具が塗り替えられていくのである。それに触れると、波紋が広がり、気の波が表面に浮かび上がる。岩は生きている。あたたかなものが内外から湧き上がっており、俺に力を与えてくれるような錯覚さえ覚える。花々は踊り、木々は音楽を奏でる。笛の音色が奥底からこちらへ向かって集まってくるのである。
 ここは一種の水場である。水のない水場である。神秘的なのである。あまりにも陳腐だが、これを伝えるにふさわしい言葉の場所だった。ありふれて使い古された言葉が、そのままに美しさを保ったまま、しっかりと情景を伝えることが可能なのである。鳥も虫も獣もなにもが、ここでは争いを起こさず、存在している。この空間は小さなものである。周りを歩けば半日もかからない。それほどに小さいだろう。だが、ここは檻か。そうではない。外が檻なのだ。これが本来の世界なのではないか。それほどに錯覚できる光景であった。
 俺は、緑色の後姿を見つける。今までにも何度も見ている姿かたち。とても愛おしく感じてしまうほどである。近寄って肩に手を置いた。それは振り向いた。摘んだ花を鼻に当てて匂いを嗅いでいたようだった。少女らしい趣味をしている。

「オハヨウ」
「ああ、おはよう。今日もいい天気だね」

 彼女は笑っている。俺も自然と笑顔になる。再び会えたことに感謝をしてお互いを抱きしめる。あたたかなぬくもりをじっくりと肌で味わう。生きている,そして活きている。その感触を交わし合っているのだ。
 俺たち二人は、ほんの少し地面に寝そべる。草花が俺たちの体を包むように受け止めてくれる。固さなどなく、ベッドに寝ているかのようにふうわりとした感触なのだ。そこから、緑の匂いが漂ってくる。自然の息吹を全身で感じ取るのだ。

「ハフウ……」

 息が漏れた。お互いを見る。俺は彼女の頬に手を触れた。彼女もまねをする。だんだんと近寄っていく。額が当たる。じっとしている。あたたかく、流れていく。時間も感情も、何もかもが。二人の目線が合うというこの現象だけで、すべてがわかる。そうとさえ錯覚できるほどだ。いいや、錯覚ではないかもしれない。今まさに心が通じ合っているのだと、胸を張って言えてしまうのである。
 足りたのか。俺たちは起き上がって、腰に差している木刀を手にした。争うわけではない。感謝をするだけだ。踊るのだ。舞だ。死と生を感じ、今の生をかみしめる儀式であった。この場所に、この地に、生きることの喜びを伝えるように武踏を演じるのである。ゆっくりと動き出した。手足が型をもって相手を攻める。それを流し止める。それの繰り返しである。速さはいらない。緻密であるべきである。
 俺たちはこの世界における最初の男女であり、アダムとイブなのだ。その舞はだんだん緻密に激しくなる。叫びが、爆発が、俺たちと共鳴する。地面が震える。待機だって震えるさ。自然の力を俺たちは享受している。その喜びの舞である。
 どれほどか。時間の流れというものがとまり、永遠の中で踊り続けた。永遠が瞬間にあり続けていたことだろうか。終わりというものすらも忘れてしまったかのようにひたすらに踊っていたのだから。そのせいだろうか、お互いに汗を流していた。

「今日はこれぐらいにしようか」
「ウン」

 これもある意味では仙術の鍛錬になるのである。すべてが修行である。彼女もそれに付き合わせているのは悪いと思うが、だんだんと俺についてこれるようになってきている。その成長が嬉しく感じる。だから、俺は彼女を誘っているのだろう。いまでは、ゴブリンとしては常識の外の強さなのかもしれない。彼女の武道は、力強く美しい。惚れ直すほどに。
 俺はそんな素振りなど見せないように努めて冷静に汗をぬぐう。恥ずかしい、そう思っているのかもしれない。惚れるということに罪はない。ただ、生物としての感情として、そう動いてしまうのだった。俺はまだまだ、自然ではない。一部にはなれていない。だが、それもいいかと思えているのだった。

「……なんだ?」

 地面が揺れている。地震ではなかった。生き物の手によって引き起こされる揺れであった。足音が聞こえた。まだ遠くではあるが、段々とこちらに近づいてくるように感じた。ゆっくりと大きくなっていくのだ。不規則な振動はそれ以外のことも伝えようとしていた。

「苦しんでいる」

 その振動は助けを求めているようである。抗えない力に対する抵抗がわずかに見えた。もがいていたのだ。俺は放っておけなかった。危険かもしれないが、放っておいたほうが大事になるのではないかと思い至ったのだ。助けられるのは俺だけか。俺しかいないか。振動の主は強い。それが地面越しに伝わるのだ。大きいから? 違う。漏れ出す気が、地面を伝って、俺に教えてくれる。お前だけが頼りだと。頼むと。助けてくれと。伝えてくれるような、そんな気がするのだ。俺を待っているのだ。ならば、行くしかない。俺はそっちへと足を踏み出す。

「ドコイクノ……?」

 彼女は、不安そうに俺の袖をつかんだ。しかし、その力は弱い。止められないと理解できているかのようであった。俺のことをよく知っているからこそ、強く引き留めることが出来ないでいるのだ。俺は申し訳なくも思い、それと同時に俺のことを理解してくれることの喜びを思う。

「助けてくる。あいつは今まさに苦しんでいる。助けを求めるようにして暴れまわっているんだ。俺にしか助けられない。だから行くんだ。待っててくれるか?」
「……ウン。マッテル」

 彼女は俺を信じてくれた。だから、俺の袖を離してくれる。無理やり引きはがすことなく、俺と彼女はつながり合っているのだ。信頼しているのだ。そう思えるかのように、手を離してくれたのだ。なのだとしたら、俺はその期待に答えなくてはならないだろう。そう心に誓うのだ。

「ありがとう」

 俺は彼女を軽く抱き寄せて肩を叩くと、足音のなるほうへと走り出した。俺の走る速度は、俺の心を表しているかのように早くなっていく。加速していくのだ。
 聖気に満ち溢れていた場所から外れた。いつもの世界へと戻る。だんだんと足音が大きくなる。もうすぐそこなのだと理解できるのだ。いるのだ。木の向こうに。
 出会った。足跡の主と。そのものは、血走った眼をこちらに向けていた。苦しんでいるような。救済を望んでいるような。そんな眼であった。

「……キメラ」

 俺は、わずかに動いた口でそう呟いた。

「天の仙人様」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く