鱶澤くんのトランス!

とびらの

夏の思い出

 ――シノブに、彼氏ができたと聞いたとき。
 俺は言いしれぬ嫌悪感と羞恥心、そして、むなしさを感じていた。
 家事を担当することになったのは、果たして母にお仕着せられたものだったろうか。自分から言い出したような気がする。もう思い出せそうもないけれど。

 ――俺は、『青鮫団』の団長。少年達も守る。

 女将は『青鮫団』のことを、まるで騎士のようだと言っていた。ならば俺は騎士団長だ。彼らのリーダー。最後の砦であり、彼らを守る最前線の壁、それがこの俺の仕事である。

 俺は騎士団長――俺は――姫なんかじゃない。
 姫なんかじゃない。


 ――強い男になれ、ワタル。大事なものを守るために。強くなれ。男になれ。


 お父さん教えて。守るべきものがなくなったらどうすればいい。
 弱くて儚いものたちが、俺よりも強くなったらどうしたらいい。
 大事なものがなにもない男は、何のために戦えばいい。
 これから俺は何をすれば? 何が残ってる? なんのためのチカラ。なんのための俺。
 どうしたらいい。

 何にもなくなった俺。まだ何もないあたし。
 お父さん、俺は、あたしは、どうすればいいですか。


「ぅ、ゥウ――……っ」


 とめどなくこぼれる涙を、モモチは黙って、その胸で受け止めてくれた。
 モモチのシャツが、あたしの涙で濡れていく。あたしの涙をぜんぶ吸い取ってくれる。
 あたしの身体を抱き寄せ、髪を撫で、ぽんぽんと背中を叩く。きっとモモチは、あたしの気持ちなど見当もつかないだろう。全く意味不明、突然泣き出した変な女と思っているんだろう。それでも優しい。
 何にも聞かず、泣きやめとも言わず、ひたすらあたしを泣かせてくれる。

 モモチは、強い男ではない。だけどとても優しいひとだった。

 お父さん、あたし――今度は――優しくされてもいいですか?

 あたしは顔を上げた。
 そのすぐ目の前に、モモチの顎がある。視線をあげると、目が合う。琥珀色のきれいな目に、あたしの顔がいっぱいに映りこんでいた。

 あたしは目を閉じた。

 モモチは――しばらく、硬直していた。微動だにせず、ただあたしを抱きすくめて、戸惑っている。あたしは背筋を伸ばし、顎を持ち上げて催促する。

 ……口に出さないと、伝わらないのだろうか。

 その心配は杞憂に終わった。

 モモチはやっと、あたしの頬に手を添え、腰を抱いてのけぞらせ――
 ふんわり、重ねるだけの口づけをしてくれた。

 出会って、二日目。
 二度目のキスは、唇の柔らかさだけを伝えあい、すみやかに離れた。

 あたしは目を開けて、思わず笑ってしまった。だって可笑しいの、モモチ、変な顔。耳まで真っ赤になって、眉をたらして眠そうで、それでいて奥歯を噛んで緊張している。クックッと笑い出したあたしに、また何とも言えない複雑な顔をする。
 笑ってるばかりのあたしに、モモチはずいぶん、悩んだらしい。上ずった声で話し出す。

「……あの……おれ……アユムちゃんに、話したいことがあるんだ」

 俺は首を真横に倒した。

「やらしい話?」
「違う! 違わないけど違う!」
「……うん?」
「だ、だから……。つまりその」

 ゴホン、と咳払い。

「おれは……その。団長のことが好きだ」

 ……。…………。

「え、今の、鱶澤ワタルの話だよね。ホモ?」
「違うわ! なんでだ!」

 即座に怒鳴られた。いや、だっていまそういったじゃん。モモチは再び咳払いすると、虚空に向かって、とうとうと語りだす。

「おれが、進学校を離れて、北高に転校してきた理由を、鱶澤さん……シノブちゃんからなにか聞いたかい?」

 あたしは首を振った。シノブにはまだ、モモチとともにいることすら話していない。
 モモチが北高ウチへ来た理由、あたしたちが出会えた理由を聞きたいと促すあたしに、モモチは穏やかに、微笑んで。

「――霞ヶ丘高で、イジメにあった。それで逃げてきたんだ、おれ」

 あたしは息をのんだ。
 モモチは、もうなにも気にしていないかのように、とにかく穏やかだった。

「昼間に、先輩たちにされたような可愛いもんじゃないよ。『天竜王』にされたリンチのように直接的なものでもない。もっと陰湿で、悪質で……どうしようもなく、誰を糾弾すればいいのかもわからない……そんなイジメに、おれは半年間さらされた」
「……理由は、なにかあったの……?」
「まあね。それだけじゃないと思うけど。――あのさ、霞ヶ丘高には、学年でひとつだけ、特別進学クラスっていうのがあって。入試で抜群の高得点をとったやつだけが固められ、一回り高等な授業を受ける。ただし進級時に交換があるんだよ。特進クラスの落第者と、一般クラスの優等生が、入れ替わって二年生にあがる。……その候補は、一年の秋には通知される」
「モモチは、そこに?」

 彼は頷いた。そして自嘲気味の苦笑いを、俺に向かって見せる。

「あくまで候補、そして候補生はクラスに何人もいたよ。五クラスあるから、ざっと二十人。ついでにいえば落第候補生も数人、公表されてないけど通知はされていたらしい。ライバルは合わせて二十五人――いやもしかすると、その親友とかかも。わからないけど――」

 そこから……モモチの語り口は、淡白だった。感情のこもらない、淡々とした声で、彼は事実だけをあたしに語ってくれた。

 モモチが試験不正カンニングをしていたという匿名のタレコミを受け、学校に呼び出しを食らったこと。それが何度も、何人からも届いたらしく、教師から冷ややかな目で見られ始めたこと。
 桃栗太一のアカウント名で、SNSで同級生に暴言を吐いている捏造をされたり。クラスの誰ぞ、物がないと騒いだら、モモチの机から見つかったり。
 そんな騒動が、何か月も毎日続いた。

 ……ひどい。いやらしい手段だ。モモチを暴言や暴力で攻撃し、被害者にするのではなく、モモチを加害者に仕立て上げたのである。
 渋い顔をしたあたしに、モモチは続けた。

「そんなことに、負けなかったけどね。不正も盗みも、冤罪だってちゃんと訴えた。証拠なんかないから、学校はおれの訴えをちゃんと飲んでくれた。処分されることはなかったけど――火のない所に煙は立たないぞって……特進クラスへの推薦を見送られた。――その発表がされた翌朝、机に花が飾られていた。推薦取り消しオメデトウ、来年もよろしくね! って。……それで……なんか、心が折れてしまったんだ……」

 呟く声に、あたしの皮膚がざわつく。モモチのことを思うと手が震えた。ふいに、涙が浮かんできたのを慌ててぬぐう。顔をそむけたあたしの頭を、モモチは撫でた。

「泣くなよ」
「ばかやろう、慰めてほしいのはお前だろうが! ……酷い。許せない……そんなことしたやつら、全員ぶっとばしてやる……!」
「……ありがとう。君もそう言ってくれるんだね」

 モモチは笑った。

「シノブちゃんは、そんなおれにずっとヤキモキしてたんだ。それからいつもこう言ってた。この学校にお兄ちゃんがいれば。お兄ちゃんなら、こんなこと絶対許さない。おれを守ってくれるはずだって――」
「シノブは同じクラスだったんだろ? あいつはかばってやらなかったのか」

 俺の問いに、モモチは首を振った。

「シノブちゃんとは、ナカムラ経由で知り合った。ナカムラとおれは同じ中学で、霞ヶ丘高ではクラスが離れた。ナカムラがおれを助けることは難しかったし、シノブちゃんに飛び火させないよう、おれたちに釘をさしてきた。おれも同意だった。彼女がおれをかばうのを、おれたちは許さなかった」
「それで――シノブは、お前に転校をすすめた……?」
「いや、さすがに転校は親の意思。今両親は仕事で外国暮らしでね。最初にカンニングの件で連絡があった時点でピンときたらしく、つらい目にあってるなら、コッチに来いって言われたんだ。だけどあっちは進級が九月だから、とりあえず避難で、どこか他の学校にって――」

 そうかそうか、なるほどな。とりあえずの時間つなぎなら、偏差値の落差なんかどうでもいいよな。なるほどな――って。

「ちょっとまって、九月? モモチ、夏休み開けたら北高からいなくなっちゃうの!?」

 あたしの絶叫に、モモチは黙って、夜空を見上げていた。

 そうなの? なんとか言ってよ。揺さぶるあたしを抱き寄せ、モモチはもう一度、口づけをくれた。そして頬を掻く。

「その、つもりだったんだけど。…………いま、おれのなかで、絶賛会議中です……」

「行かないで」

 強烈なセリフは、いとも簡単に口から飛び出した。モモチも目を丸くして、あたしを見下ろす。あたしは自分でも驚いていた。

「せめて来年とか。できればこのまま、北高を卒業して……でなくてもどこか日本の高校に。なんか他にも手段はあるでしょ。あるよね……」
「まあ、あるけど。高度な授業もネットで受けられるし。学歴は大学がモノをいうし」

 モモチは案外あっさり、そんなことを言った。そしてあたしの頭を抱いて、自分の肩に引き寄せる。
 鼻先がモモチの肩に埋まった。

「……そうしようかな……」

 あたしは、ふと思いつき、頬に垂れる前髪をつまんだ。

「……外国か。……そこならこの髪の色も、とやかく言われなくて済むのかな。……地毛なわけないだろ嘘つきって言われずに――」
「えっ、その赤い髪、地毛なの?」

 とモモチは驚き、あたしの髪をひと房手に取る。まじまじと眺めながら。

「へー。すごい。こんな鮮やかな赤毛ってほんと見たことないよ。外国人だってたいていは色を入れてるんだ」

 そう珍しそうに感心していたが、あたしを疑いはしなかった。それがとても嬉しかった。
 モモチに髪をなでられながら、呟く。

「なかなか信じてもらえないんだ。学校も、地毛証明書を受理はしてくれたけど明らかに疑ってた。……それだけで、不良だと思われて絡まれるし、普通のひとには怖がられるし。もう『青鮫団』にもわざわざ言ってないし……」
「黒髪に染めるのは?」
「……体質が、地球の――一般の、染料にひどく合わないらしくって。無理に染めたら皮膚がただれるって、母ちゃんが……」

 ふうん、とモモチ。
 それだけで納得してくれて、彼は微笑んだ。

「団長もそうなのかな。――じゃあやっぱり、あの人、不良なんかじゃないんだ」
「……うん。ただ目つき悪くて、勉強できないだけ……」
「あはは。いや、わかるよ、おれもそんな気がしてたもん。むしろなんか育ちがいいよね。アユムちゃんも、言葉遣いはちょっと乱暴だけど、なんかどっか箱入りっぽいというか」
「別に育ちがいいことはないと思うけど」
「いやー、なんかこう、所作がピシッとキレがあって……あ、これはお父さんが自衛官だからか」

 あたしは首を傾げた。良くも悪くも、自覚がない。
 モモチは微笑んだまま、ベンチに座りなおす。
 そしてあたしに真っすぐ、向き直った。
 あのさ、から、言葉を始める。

「……おれ……鱶澤兄妹のことが好きだ。親御さんには会ったことはないけど、きっとシッカリした人なんだろうなって、思う。
 ……だから……。いや、だからってわけじゃないんだけど。ていうか今すぐとかそういうことでもないんだけど。
 アユムちゃんとは、まだであったばかりだし。君のこと、まだなんにもわかっちゃいない、けど――」

 モモチはあたしの手を取った。

「もし、おれが外国で暮らして……そのまま就職して、永住ってなったらさ……」

 彼の手は震えていた。その手首をしっかり捕まえて、あたしは額を乗せる。

「うん。あたしも、連れて行って」

 モモチはあたしの手を握り返し、すぐに引いた。再び、顔面が彼の胸に埋まる。
 あたしは額を擦り付けて、彼を抱きしめ、顔を上げた。

 今度は目を閉じはしなかった。
 でも、モモチは顔を傾ける。探り合うように、距離を縮め、重ねる。

 今日、三度目のキスは長く。四度目、五度目で、濡れた音がこぼれだす。
 それでもあたしは逃げず、抗わず、彼の舌を吸っていた。

 少しずつ、倒れこんでくる体重もそのまま受け止め、狭いベンチに寝転がっていった。

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