剣豪幼女と十三の呪い
三/ルーンシュタット
「カイネ、ちょっと飛ばすぜ! 掴まっててくれッ!」
「うむ。おれはいつでも良いぞ」
急いで馬車まで舞い戻り、関所前を目の前にする。
衛兵の姿はひとりも見当たらない。
関所の建物もまた静寂に包まれている。
「……ジョッシュ、おまえさんは何人やった?」
「ふたりだ。どうも、関所近くにおびき出して仕留めるつもりだったみてぇだな」
「なるほど。……そういうことか」
馬車が急加速する。座席が上下に揺れ始める。
カイネは手すりをしっかりと掴みながら得心する。
つまり、別個におびき出したジョッシュを先に仕留めてから、たっぷりとカイネで〝楽しむ〟つもりだったのだろう。
「のう、ジョッシュ」
「なんだ!?」
「この身体にも情欲をもよおす輩はおるのだな」
「……あぁ、そういうことか――陛下のことをもう忘れちまったかい?」
「あれは陛下がおいかれあそばせておいでなのだと思っておったよ」
「ひでぇ言い草だな!」
ジョッシュは笑みすら浮かべながら手綱を取り、一気に関所を突破する。
その瞬間、後ろの方からかすかに怒号のような声が聞こえた。
あと少し遅れていれば余計な足止めを食っていたかもしれない。
「まずは一安心、といったところか」
「そう言いてぇところなんだが、ちょーっと森が深いな。道がわかりづらくて堪らん」
「……やむをえまい。山奥の地方であるしな」
かつてカイネが生きた時代、都市以外に生まれた人間は生まれた土地から一歩も出ることなく死ぬことが大半であった。
あれから二百年もの時を経て、しかしその大原則はほとんど変わっていないように思われた。
森とは人の往来を阻む壁であり、一方で豊穣な恵みをもたらすこともある。
ゆえにこそ、最低限の街道を除いては未開拓なのも無理からぬことであろう。
ジョッシュは少し手綱を引き締め、馬脚を緩めながらゆっくりと進んでいく。
速度は一旦捨て、進路を正確に取るつもりのようだった。
「……ところで、カイネ」
「うむ。どうした?」
「さっき、やつを尋問してただろ。何を聞いたんだ?」
「やつの所属を、ちとな。……領主の命令と言うておったが」
「領主の!? ……あれがかァ?」
「おれもそう思うのだがな……」
カイネは思わしげに眉をひそめる。
信じがたい話ではあるが、今のところそれを否定する根拠はない。
倫理を欠いた軍隊などさして珍しくもないのだから。
「正確には、傭兵団……ガストロ、という男が団長と言うておった。さしづめ、ガストロ傭兵団とでも呼ぶとしようか」
「ガストロ? ……カイネ、いまガストロと言ったか?」
「あぁ、たしかに言うたが」
聞き覚えでもあるのか、と頷く。
ジョッシュはちらっとカイネのいる座席を振り返り、言った。
「帝国に、同じ名前の魔術師がいたはずだ」
「……ほう?」
帝国の名にはカイネも覚えがある。
三カ国、時には四カ国を交えて繰り広げられた先の戦乱――五十年戦争。
その渦中にあった国こそヴィクセン王国北方の大国家、クライス帝国である。
「ガストロ・ヴァンディエッタ。帝国でも名の知れた魔術師でね」
「腕前は?」
「帝国魔術師ギルドにおける序列はBランク。かなりの腕利きだよ」
「ふぅむ」
王国の魔術師ギルドと単純には比較できないかもしれないが、ファビュラスよりランクは落ちるということ。
しかし、魔術師としてのランクは単純な戦闘能力の高低を意味しない、とはシャロンの教えであったろうか。
「ただ、な……そいつが有名なのは、腕前の問題じゃあなくってね」
「やらかしおったか」
「身もふたもねぇことを。……だが、その通りだ」
ジョッシュは神妙な口調でつぶやき、深々と頷いてみせる。
カイネはこくりと頷き返し、続きをうながす。
「魔術師の中でも、傭兵団を率いて組織ぐるみで魔獣狩りをやっている連中は珍しくないんだが……ガストロは、それだけじゃ飽き足らなくなったやつでね」
「聞かぬでもだいたい想像はつくが」
「まぁ、想像通り。ガストロ山賊騎士団を名乗るイカれた連中が、帝国領内を荒らし回った――交易商人から国内の農民から被支配民族から、何から何までお構いなしさ」
「……けだものよな」
「そう。で、そこまでやった奴を捨て置くわけにはいかねぇからな。帝国軍とギルドが協働して討伐した、ってな話を聞いたことがあるんだが……」
――そこで話は現在に繋がる。
ルーンシュタットは距離的にも帝国辺境からさほど遠くはない。
「そやつらかも知れんな」
「……いや、まさか。確かに討伐されたと聞いたはずだぜ?」
「そりゃあ、大っぴらに逃したとは言えんだろう。国の沽券にも関わってくる」
「確かにそうだが……いや、だからといってな。仮にそうだとすれば、領主の命令ってなァどういうことだ?」
「さて……」
手綱を引くジョッシュに問われ、カイネは顎先に手を当てて思案する。
「可能性はいくらでも考えられよう。領主の兵が潰されたか、勝手に領主の私兵を名乗っておるか、あるいは……」
「あるいは?」
「領主自ら兵力として雇い入れたか」
「…………いや、いやいやいや。それこそまさかだぜ、カイネ」
「だと良いがな」
どれであっても決しておかしくはないとカイネは考える。
五十年戦争当時の乱世、支配力の弱まった地方に攻め入って狼藉の限りを尽くす傭兵団の類などいくらでもあった。
一介の農民に過ぎなかったカイネの出自も、元をたどればとある傭兵団に行き着く。
もっともその傭兵団は、同業者である傭兵団を狩って名を挙げた異端者の寄り合い所帯であったが――
――閑話休題。
「……とにかく、長居は無用ってこたァわかったよ」
「そうだの。たったふたりで地方平定に手を貸すような義理もなし」
今回のカイネの目的は飽くまで解呪師を探し、そして王都まで連れ帰ることである。
それ以上の仕事は、可能か不可能かは別にせよいささか気が重い。
「……それよりジョッシュ。迷ってはおらんだろうな?」
「問題ない。完璧さ」
「あの地図がどれだけ信じられるかも怪しかろうに」
「だから、その一番近くの村に向かってるのさ」
なるほど、とカイネは首肯する。
村を離れて暮しているとはいえど――村から離れているからこそ、村人たちの庇護がなければ生活は難しかろう。
近くの村で聞き込みをすれば自分たちの足を棒にするよりも話は早い。
「よし、任せた。おれはすこし寝る」
「どうした。疲れたのか?」
「寝られる間に寝ておくだけだ。構わぬでよい」
と、カイネは言うなりちいさな身体を背もたれに委ねる。
程なくして聞こえるかすかな寝息。
ジョッシュは呆れたように息を吐き、前を見てしっかりと手綱を取った。
***
ルーンシュタットはごく小規模な領地ながらも複数の村が存在している。
ジョッシュが馬車を走らせたのはそれらの村のうちのひとつだった。
「着いたぜ、カイ――」
「うむ、起きておるよ」
「……っとと、そうかい」
ジョッシュが後座を振り返ったところでカイネはふりふりとちいさな手を振り返す。
一角馬はすでに足を止め、村を囲む柵に横付けするように停車していた。
カイネは軽やかな足取りで馬車を降りて周囲の様子を見渡す。
「ふむ。ずいぶん静かだのう」
「……言われてみりゃあ、確かに」
あいにく、馬車を止めるための停留所や宿場などは一切ない。
ジョッシュはやむを得ず土に楔を打ち、馬を路傍に繋ぎ留めておく。
空は曇天。畑仕事日和とは言いがたいが、屋内に引き上げるにはまだ早い頃合いである。
「入ってみるか」
「……行くのか?」
「ま、どうにかなるであろう」
カイネも出身は農村である。
ではよそものが歓迎されぬかというと、決してそうとは限らない。
村の外の世界を知る数少ない伝手として、旅人が重宝されることはままあるものだ。
カイネは軽やかな足取りそのままに柵の隙間から村の中へ侵入する。ジョッシュは慎重にその後をついていく。
その時である。
「う、動くなッ!!」
空から若い男の声がした。
カイネは言われた通りに立ち止まり、視線だけをゆっくりと上げる。
ジョッシュもまた同じように足を止める。
「なんだ、物騒だのう」
「黙れッ! 子どもを前に出して油断させようったってそうは行かねぇぞ!!」
「えっ……俺?」
視線の先――茅葺屋根の上にいたのはひとりの若い農夫だった。
白い手ぬぐいで髪をまとめ、手の中に弓を構えている。
お世辞にも手練という構え方ではなかった。
冬眠から目覚めたばかりの鹿くらいなら狩れるかもしれない。
「おまえさんのようだな」
「待ってくれ、俺は――というか、俺らは別に怪しいもんじゃない」
「嘘をつくなッ! おまえもガストロの仲間だろうッ!?」
ガストロ――
その名を聞いたカイネとジョッシュはお互いに視線を見合わせる。
ジョッシュは屋根の上を見上げながら近づこうとする。
「そりゃ全くの誤解だぜ。そいつらには俺らもついさっき面倒をかけさせられたところだ。俺たちは――」
「ち、近付くなッ!! ――――あ」
若い男が叫んだ次の瞬間。
弓弦を張り詰めさせていた手がずるりと滑り、一本の矢が山なりに弧を描いた。
締まりのない軌道を描いた矢はてんで見当違いの場所に呆気なく墜落する。
怒りのやり場がないように屋根の上でぷるぷると震える若い男。
ジョッシュは気まずそうに二の句を告げずにいる。
「……うむ、なんだ。とりあえず、話をせんか。他の誰かでも構わんのでな」
「ほ……本当に、ガストロの仲間じゃないのか……?」
「誤解だ、って言っただろうが」
若い男は呆気に取られたように言い、ジョッシュは呆れたように肩をすくめる。
カイネは軽やかな足取りで一歩、二歩と歩み、三歩目で茅葺屋根の上に飛び上がった。
「――――ッな、なッ……!?」
「力を貸す、とまでは言えぬが。おまえさんらにちと聞きたいことがあるのでな――その代わりに、くらいなら働いても良かろう。どうかの?」
カイネは農夫の目の前まで歩いていってそう尋ねる。
彼はその場で弓を取り落とし、言葉を失って尻餅をついた。
「うむ。おれはいつでも良いぞ」
急いで馬車まで舞い戻り、関所前を目の前にする。
衛兵の姿はひとりも見当たらない。
関所の建物もまた静寂に包まれている。
「……ジョッシュ、おまえさんは何人やった?」
「ふたりだ。どうも、関所近くにおびき出して仕留めるつもりだったみてぇだな」
「なるほど。……そういうことか」
馬車が急加速する。座席が上下に揺れ始める。
カイネは手すりをしっかりと掴みながら得心する。
つまり、別個におびき出したジョッシュを先に仕留めてから、たっぷりとカイネで〝楽しむ〟つもりだったのだろう。
「のう、ジョッシュ」
「なんだ!?」
「この身体にも情欲をもよおす輩はおるのだな」
「……あぁ、そういうことか――陛下のことをもう忘れちまったかい?」
「あれは陛下がおいかれあそばせておいでなのだと思っておったよ」
「ひでぇ言い草だな!」
ジョッシュは笑みすら浮かべながら手綱を取り、一気に関所を突破する。
その瞬間、後ろの方からかすかに怒号のような声が聞こえた。
あと少し遅れていれば余計な足止めを食っていたかもしれない。
「まずは一安心、といったところか」
「そう言いてぇところなんだが、ちょーっと森が深いな。道がわかりづらくて堪らん」
「……やむをえまい。山奥の地方であるしな」
かつてカイネが生きた時代、都市以外に生まれた人間は生まれた土地から一歩も出ることなく死ぬことが大半であった。
あれから二百年もの時を経て、しかしその大原則はほとんど変わっていないように思われた。
森とは人の往来を阻む壁であり、一方で豊穣な恵みをもたらすこともある。
ゆえにこそ、最低限の街道を除いては未開拓なのも無理からぬことであろう。
ジョッシュは少し手綱を引き締め、馬脚を緩めながらゆっくりと進んでいく。
速度は一旦捨て、進路を正確に取るつもりのようだった。
「……ところで、カイネ」
「うむ。どうした?」
「さっき、やつを尋問してただろ。何を聞いたんだ?」
「やつの所属を、ちとな。……領主の命令と言うておったが」
「領主の!? ……あれがかァ?」
「おれもそう思うのだがな……」
カイネは思わしげに眉をひそめる。
信じがたい話ではあるが、今のところそれを否定する根拠はない。
倫理を欠いた軍隊などさして珍しくもないのだから。
「正確には、傭兵団……ガストロ、という男が団長と言うておった。さしづめ、ガストロ傭兵団とでも呼ぶとしようか」
「ガストロ? ……カイネ、いまガストロと言ったか?」
「あぁ、たしかに言うたが」
聞き覚えでもあるのか、と頷く。
ジョッシュはちらっとカイネのいる座席を振り返り、言った。
「帝国に、同じ名前の魔術師がいたはずだ」
「……ほう?」
帝国の名にはカイネも覚えがある。
三カ国、時には四カ国を交えて繰り広げられた先の戦乱――五十年戦争。
その渦中にあった国こそヴィクセン王国北方の大国家、クライス帝国である。
「ガストロ・ヴァンディエッタ。帝国でも名の知れた魔術師でね」
「腕前は?」
「帝国魔術師ギルドにおける序列はBランク。かなりの腕利きだよ」
「ふぅむ」
王国の魔術師ギルドと単純には比較できないかもしれないが、ファビュラスよりランクは落ちるということ。
しかし、魔術師としてのランクは単純な戦闘能力の高低を意味しない、とはシャロンの教えであったろうか。
「ただ、な……そいつが有名なのは、腕前の問題じゃあなくってね」
「やらかしおったか」
「身もふたもねぇことを。……だが、その通りだ」
ジョッシュは神妙な口調でつぶやき、深々と頷いてみせる。
カイネはこくりと頷き返し、続きをうながす。
「魔術師の中でも、傭兵団を率いて組織ぐるみで魔獣狩りをやっている連中は珍しくないんだが……ガストロは、それだけじゃ飽き足らなくなったやつでね」
「聞かぬでもだいたい想像はつくが」
「まぁ、想像通り。ガストロ山賊騎士団を名乗るイカれた連中が、帝国領内を荒らし回った――交易商人から国内の農民から被支配民族から、何から何までお構いなしさ」
「……けだものよな」
「そう。で、そこまでやった奴を捨て置くわけにはいかねぇからな。帝国軍とギルドが協働して討伐した、ってな話を聞いたことがあるんだが……」
――そこで話は現在に繋がる。
ルーンシュタットは距離的にも帝国辺境からさほど遠くはない。
「そやつらかも知れんな」
「……いや、まさか。確かに討伐されたと聞いたはずだぜ?」
「そりゃあ、大っぴらに逃したとは言えんだろう。国の沽券にも関わってくる」
「確かにそうだが……いや、だからといってな。仮にそうだとすれば、領主の命令ってなァどういうことだ?」
「さて……」
手綱を引くジョッシュに問われ、カイネは顎先に手を当てて思案する。
「可能性はいくらでも考えられよう。領主の兵が潰されたか、勝手に領主の私兵を名乗っておるか、あるいは……」
「あるいは?」
「領主自ら兵力として雇い入れたか」
「…………いや、いやいやいや。それこそまさかだぜ、カイネ」
「だと良いがな」
どれであっても決しておかしくはないとカイネは考える。
五十年戦争当時の乱世、支配力の弱まった地方に攻め入って狼藉の限りを尽くす傭兵団の類などいくらでもあった。
一介の農民に過ぎなかったカイネの出自も、元をたどればとある傭兵団に行き着く。
もっともその傭兵団は、同業者である傭兵団を狩って名を挙げた異端者の寄り合い所帯であったが――
――閑話休題。
「……とにかく、長居は無用ってこたァわかったよ」
「そうだの。たったふたりで地方平定に手を貸すような義理もなし」
今回のカイネの目的は飽くまで解呪師を探し、そして王都まで連れ帰ることである。
それ以上の仕事は、可能か不可能かは別にせよいささか気が重い。
「……それよりジョッシュ。迷ってはおらんだろうな?」
「問題ない。完璧さ」
「あの地図がどれだけ信じられるかも怪しかろうに」
「だから、その一番近くの村に向かってるのさ」
なるほど、とカイネは首肯する。
村を離れて暮しているとはいえど――村から離れているからこそ、村人たちの庇護がなければ生活は難しかろう。
近くの村で聞き込みをすれば自分たちの足を棒にするよりも話は早い。
「よし、任せた。おれはすこし寝る」
「どうした。疲れたのか?」
「寝られる間に寝ておくだけだ。構わぬでよい」
と、カイネは言うなりちいさな身体を背もたれに委ねる。
程なくして聞こえるかすかな寝息。
ジョッシュは呆れたように息を吐き、前を見てしっかりと手綱を取った。
***
ルーンシュタットはごく小規模な領地ながらも複数の村が存在している。
ジョッシュが馬車を走らせたのはそれらの村のうちのひとつだった。
「着いたぜ、カイ――」
「うむ、起きておるよ」
「……っとと、そうかい」
ジョッシュが後座を振り返ったところでカイネはふりふりとちいさな手を振り返す。
一角馬はすでに足を止め、村を囲む柵に横付けするように停車していた。
カイネは軽やかな足取りで馬車を降りて周囲の様子を見渡す。
「ふむ。ずいぶん静かだのう」
「……言われてみりゃあ、確かに」
あいにく、馬車を止めるための停留所や宿場などは一切ない。
ジョッシュはやむを得ず土に楔を打ち、馬を路傍に繋ぎ留めておく。
空は曇天。畑仕事日和とは言いがたいが、屋内に引き上げるにはまだ早い頃合いである。
「入ってみるか」
「……行くのか?」
「ま、どうにかなるであろう」
カイネも出身は農村である。
ではよそものが歓迎されぬかというと、決してそうとは限らない。
村の外の世界を知る数少ない伝手として、旅人が重宝されることはままあるものだ。
カイネは軽やかな足取りそのままに柵の隙間から村の中へ侵入する。ジョッシュは慎重にその後をついていく。
その時である。
「う、動くなッ!!」
空から若い男の声がした。
カイネは言われた通りに立ち止まり、視線だけをゆっくりと上げる。
ジョッシュもまた同じように足を止める。
「なんだ、物騒だのう」
「黙れッ! 子どもを前に出して油断させようったってそうは行かねぇぞ!!」
「えっ……俺?」
視線の先――茅葺屋根の上にいたのはひとりの若い農夫だった。
白い手ぬぐいで髪をまとめ、手の中に弓を構えている。
お世辞にも手練という構え方ではなかった。
冬眠から目覚めたばかりの鹿くらいなら狩れるかもしれない。
「おまえさんのようだな」
「待ってくれ、俺は――というか、俺らは別に怪しいもんじゃない」
「嘘をつくなッ! おまえもガストロの仲間だろうッ!?」
ガストロ――
その名を聞いたカイネとジョッシュはお互いに視線を見合わせる。
ジョッシュは屋根の上を見上げながら近づこうとする。
「そりゃ全くの誤解だぜ。そいつらには俺らもついさっき面倒をかけさせられたところだ。俺たちは――」
「ち、近付くなッ!! ――――あ」
若い男が叫んだ次の瞬間。
弓弦を張り詰めさせていた手がずるりと滑り、一本の矢が山なりに弧を描いた。
締まりのない軌道を描いた矢はてんで見当違いの場所に呆気なく墜落する。
怒りのやり場がないように屋根の上でぷるぷると震える若い男。
ジョッシュは気まずそうに二の句を告げずにいる。
「……うむ、なんだ。とりあえず、話をせんか。他の誰かでも構わんのでな」
「ほ……本当に、ガストロの仲間じゃないのか……?」
「誤解だ、って言っただろうが」
若い男は呆気に取られたように言い、ジョッシュは呆れたように肩をすくめる。
カイネは軽やかな足取りで一歩、二歩と歩み、三歩目で茅葺屋根の上に飛び上がった。
「――――ッな、なッ……!?」
「力を貸す、とまでは言えぬが。おまえさんらにちと聞きたいことがあるのでな――その代わりに、くらいなら働いても良かろう。どうかの?」
カイネは農夫の目の前まで歩いていってそう尋ねる。
彼はその場で弓を取り落とし、言葉を失って尻餅をついた。
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