一人で出来る、コトにさえ。

ノベルバユーザー161766

#3:夜を話した、二人。

 それから約一時間、男はそこでうなだれていた。去っていった女は戻ってこない。階段の下はどこに通じているのか、時間が経つにつれ興味が沸いた男は、ゆっくりと立ち上がってその先を目指した。薄暗い通路に足音がやけに響く。足音が外に響くかもしれない。男は静かに、薄暗い通路を歩き出した。
 階段は暗がりに通じており、足を掛けるまでは底が見えなかったが、降り始めると短かった。灯りが無く足下だけがよく見えなかったが、階段の先には明るい部屋があるようだった。女を訪ね、男は入室した。
 「……いるのか?」
 部屋は質素な作りだった。部屋の四隅に鉄パイプで作られたベッドが四つ。中央には朽ちかけた木製テーブルが一つ。それを囲むように椅子が四つあるだけ。あとはベッドの横に救急箱が一つずつ。テーブルに乗った花瓶の鮮やかな花だけが、窓もない部屋を彩っている。他に出入り口は見当たらない。女は忽然と消えてしまった。
 明るい部屋に入って数秒、男はようやく自分の状態に気がついた。左腕が血にまみれていた。それを見たと同時、痛みが襲ってくる。追われているときに撃たれたのだろう、むしろよくこれだけの被弾で済んだものだ。
 「づ……、いってぇ…………」
 叫びたかったが、それはこらえた。外にいるであろう追っ手に気付かれる可能性を恐れたためだ。事実、黒服を着た追っ手三名は先の行き止まり付近を捜索している。声を上げることが危険に繋がることは明白だった。
 痛みに耐えつつ部屋を見渡した。先の女はいないようだ。男は救急箱のうち一つの中身を勝手に拝借し、左腕に止血措置を施した。腰掛けたベッドは柔らかく、疲労からくる眠気は増大する一方だった。
 「入ってきたんですか。改めて、こんばんは」
 そんなことを考えていると、背後から女が声を掛けてきた。男は自分が入ってきた方向を見て治療をしていた。先程部屋を見渡した時に女はいなかったのだから、当然
 「どこにいたんだ?」
 と聞くことになる。先程の確認時、他に出入り口がないことは確認している。この女はどこに消えていたのだろうか。答えは割と単純だった。
 「この部屋に入ってくる前、壁を抜けたでしょう」
 「なるほど、他にもあるのか」
 部屋の壁を見てみるが、一見普通の壁と何ら変わりない。興味はあったが、男は自分のことを優先することにした。痛む左腕を堪えて女に尋ねる。
 「……ここは、安全なのか」
 「ええ。私達以外は知りません。入れたのはあなたが初めてです」
 男はその一言に安堵した。疲れがドッと襲ってくる。女を信用したわけではなかったが、不思議と嘘は言っていないように感じた。男は腰掛けたベッドに背中を預けた。左腕が痛んだが、それ以上に疲れや眠気を強く自覚し、欠伸を漏らす。
 「あなた、私を警戒しないんですか?」
 男が横になったベッドの側に椅子を移動させ、腰掛ける。女は男に興味を持ったようだった。目を瞑ったその顔を覗き込む。
 「してるさ。でも、そうだな、考え方としてはこうだ」
 男は目を開いて上体を起こした。女は驚いて仰け反ったが、男は意に介さずベッドの上に膝を立てて座り、女を直視して続きを言う。言っておかねばならないという風な、少しだけ強い目つきだった。
 「そっちが誰だろうと、俺は危険な奴らに追われてる。どうせ警戒するなら、あんた一人の方がやりやすい」
 そこまで言って、男は表情を緩めた。肩をすくめ、軽い声で続ける。
 「それに、あんたはこの隠れ家に俺を入れてくれた。匿ってくれたんだ。ならむしろあんたは味方だ。警戒もほとんどしてない」
 女は微笑し、椅子に深く腰掛けてから男に尋ねた。当然の疑問のはずが、男にはまるで浮かばなかったそれを。
 「ですが、こんな隠れ家を持っている者が、まともなはずはありませんよね」
 その通りだと男は納得したが、それは自分にも言えることだった。まともじゃないのはお互い様だ、と続ける。
 「俺だってあんな奴らに追われてるんだ。まともとは言い難いさ」
 そうですね、と女は返した。短い返事だったが、お互いのことを多少とも理解した満足感があったらしい。どうせ追っ手が去るまでの時間を共に過ごすだけの関係。聞きたいことはそう生まれないだろう。男はそう高をくくった。男はこの隠れ家で追っ手が去るまで待つ腹積もりだった。それは女も同意見だったようで、その返事の数秒後、
 「そこについて聞きたいのですけれど」
 と、むしろ興味を抱かせてしまった。「そこ?」と男は返したが、すぐに納得して回答した。女が聞きたいのはつまり、男の素性や身分なのだろう。
 「悪いけど、教えられない。守秘義務がある」
 追われている事実を話したことに思い至り、口が滑ったと後悔するが、そこだけならば守秘義務には反しない。相手と自分の素性、組織名さえ漏らさなければ。男は口に右拳を当て、続きを待つ女に対する回答を考えた。
 (こちらの組織のことも、相手の組織のことも言えない。だがこいつは俺を助けてくれたし、……これ以上巻き込まないのが返礼か)
 男は腹積もりを改めず、しかし心構えは改めた。この女は恩人だ。仲間以外で、初めて接することのできた人だ。答えられないことは答えないが、それ以外なら答えよう。そう決めた。
 「では、あなたのお名前は」
 決めた直後、答えられない問いだった。男には名前がない。呼び名はあったが、人としての名前には程遠い。教えるには抵抗があったが、少し悩んで口を開いた。
 「二一六番だ。二一六番」
 「まるで私達のような名前ですね。やっぱり、あなたは私達です」
 女は破顔した。やはりこの男ーーー二一六番は“私達”だと。男には意味が分からなかったが、女の名前を聞くことで疑問を解消しようと試みた。
 「君の名前は?」
 二一六番か聞くと、女は妙な返事をした。表情も僅かに曇り、答えに迷っているようだった。
 「あー……ちょっとお待ちください。聞いてみますから」
 「聞くって誰に」
 「おー、乙女の秘密ということで」
 女が自身を乙女扱いするときにロクなコトはない。二一五番が言っていたことを思い出し、二一六番は深く追求しなかった。
 「まあ、いいけどさ」
 女は不安げな顔で立ち上がり、男に背中を向けた。独り言を二、三発した後、「よし!」と振り返った。独り言は計算と短い言葉のようだった。
 「イナミといいます」
 イナミと名乗った女は頭を下げた。明らかに二一六番とは毛色の違う名前だったため、男は疑問を苦笑してしまう。
 「俺の名前とは随分違うな」
 「あ、そー、そうですね?」
 明らかに怪しかったが、イナミという響きは一七三と変換することができた。部隊員の二一七番も自分ではニーナと名乗っていたのだし、納得をすることはできた。だが、確かに二一六とイナミでは大きく異なる。なによりも、響きが。
 「ああ、随分違う。俺の名前なんかよりずっと、綺麗だ」
 二一六番が言ったことは本音だった。同時に、羨望でもある。それを僅かにでも感じ取ったのか、イナミは二一六番を綺麗な響きにしようと努力した。
 (二一六……うーん、二、一、六……。にいちろく……。にーいちろくー………)
 イナミは考えてはみたものの、語彙の狭さに悲しくなるだけだった。
 「ごめんなさい、私では二一六番を綺麗にできません」
 あまりに申し訳なさそうに頭を下げるものだから、二一六番は可笑しくなって笑ってしまった。左腕が痛んだが、痛みを忘れるくらいに、この会話は人間らしくて楽しかったのだろう。
 「はは、ははは!いや、いいんだ。俺は名前を貰えるから」
 守秘義務に反するが、楽しさが二一六番を会話に興じさせた。仲間以外とする人間の会話が、こうも楽しいものだとは思わなかった。
 (でも、後でこの会話は人に漏らしてはいけないと言い含めておこう)
 二一六番が笑顔の奥で考えていると、イナミは疑問を提示した。
 「名前を、貰う?」
 イナミが座り直しながらそれを聞き返すと、二一六番は悲しげな顔で頷いた。それ以上は何も言わなかったが、イナミには目の前の男が、自分と重なって見えていた。
 「ああ。詳しくは話せないんだけど、俺は名前を貰いに行くんだ。その途中であいつらに追われた、いや追われている」
 「そこに行けば、あなたは人間になれるのですか?」
 問いに、二一六番は強く頷いた。
 (あいつらも、仲間達も、そうなるはずだった……)
 彼らが死んだのは彼ら自身の責任だったが、二一六番はそこまで冷たくはなかった。彼らとは長い時間を過ごした。大柄だが泣き虫だった二一五番、自己中心的でムードメーカーの二一七番、皆のまとめ役だった二一八番。彼らは皆、二一六番の前で殺された。
 二一六番は仲間の死を割り切ってはいる。任務は死を覚悟で行うものと説明を受けていたし、その結果に納得して始めたことだ。それでも二一六番は、彼らが死んだことに意味を持たせたかった。
 「……ああ、せめて俺は、人間になってやるんだ」
 「そうですか。なら、朝までここにいるといいでしょう。あの追っ手が何者かは聞きませんけど、私はあなたに人間になって欲しいですから」
 二一六番は少しばかりの驚きを見せながらも、イナミの厚意に甘えることにした。
 それから少しだけ話をした。お互いのことや、人間になった後のこと。組織に戻った後のこと。数時間が経っていたと気付き、お互いが眠気を訴えたその時まで、お互いにとって初めての、他人との会話を。
 眠る直前、お互いにこの話を内緒にすることを約束した。イナミは少し嬉しそうに「わかりました」と言い、二人ともが床に就いた。
 (人間になれば、こんな暖かさもある。俺も、誰かにこうしてやりたいな)
 数時間前に仲間が死んだ夜だというのに、その重苦しい気持ちを少しは忘れることが出来るくらいには、イナミとの会話が心地良かったのだろう。翌朝、後悔や重圧が押し寄せてきても、また誰かと話せばいい。そう思わせるほどに。
 二一六番が寝る寸前に考えたことは、一般的には優しさと呼ばれるそれだった。彼はまだ、そんな当たり前すら知らない。

 夜が明け
 男はこの日から人間となり
 女はこの日より人を目指す。

 二一六番が殺風景な部屋で目を覚ますと、イナミはどこにもいなかった。探す気は起きなかった。目覚めて考えた時に、昨晩の会話をひどく後悔したからだ。浮かれていたと言ってもいい。
 仲間の死、自身の危機、助けてくれたイナミ。全てが異常だった。その異常さに当てられた。自分も高揚していたのだ、と。
 「話さなくてもいいことを話した……。まったく、バカが……」
 守秘義務に触れることも話してしまった。イナミとの会話は、仲間達との近しいものではなく、司令部との業務的なものでもなく、心地良い距離感があった。だからきっと、気が迷った。
 イナミが昨晩の会話を誰にも漏らさないようにと願いながら、二一六番は隠れ家を出た。外から隠し壁の扉を閉じる方法を知らなかったため、出入り口はそのままとなったが。
 (アイツらはこの辺にはいない、みたいだ)
 路地裏から出る間際、二一六番は慎重に追っ手の存在を確認した。端から見られることもない早朝、人がいるだけでも目立つ繁華街だ。二一六番の血にまみれた服は、相当な異常として認識されるだろう。幸い組織の隠れ家はそう遠くない。二一六番はそこで着替えを得ることにした。
 雑居ビルの一室にたどり着いた二一六番に、ドアノブを握った途端、悲しみが押し寄せてきた。昨晩まで、ここで会話をしていた仲間達。彼らは死んでしまった。生き残ったのは自分だけだ。
 (隠れ家、昨日の今頃は、みんなで会議をしていた……)
 死んでしまった仲間達のことを思い出す。誰が悪かったわけでもない。作戦が悪かったとも思えない。ただ、運が悪かった。二一五番が狙撃する間際に強風が吹いたことも、それによって弾道が逸れるタイミングだったことも、その弾が目標の護衛に当たったことも。また、それによって二一五番の位置が露見したことも。
 本来二一六番達は、周辺の捜索や当日の警備状況、目標の行動を調査する要員であり、二一五番の下準備をする役回りだった。突入は最終手段。二一五番が外す心配など、まったくしていなかった。全ては、運が悪かった。
 扉を開けると、昨日のままの散らかった隠れ家だった。組織の部隊員間には、作戦開始時に隠れ家を散らかす風習がある。誰が始めたものかは不明だが、この風習を嫌う部隊員はいなかった。
 (本来は、自分達で片付けるために散らかすんだけどな……。俺一人、か)
 敢えてもう片方の理由には触れなかった二一六番だったが、触れないことでより強く意識してしまう。部屋を散らかして出撃する理由。単純で、子供のわがままのようなそれを。
 (自分達がいたことの、些細な証拠か……。みんな、ごめん。俺だけ生き残って)
 大柄な二一五番の服は、自分のベッドをそれ数枚で覆うほどだった。逆に小柄な二一七番のベッドには、女性向け雑誌が散らかっている。二一八番の机は丁寧にまとめられているようで、愛読書の順番が違ったり、上下逆に収められていたりした。みんな、自分の証拠を残している。
 二一六番は、自分の証拠を見て苦笑した。二一五番から貰ったスコープ、二一七番から貰ったロケットペンダント、二一八番と交換した本。それらが自分のベッドに置かれている。
 (自分の物、無いんだな、俺)
 それらを片付けず、棚から今着ているそれとはなるべく異なる装いの服を取り出して着替えると、ハイスクールの制服に見えるそれを着ている自分に再び苦笑した。
 (学生かよ……。学生、か……。これから、できるかな)
 着替えた後、部屋からはすぐに出なかった。街に人が溢れる時間帯の方が、万一追っ手に見つかった場合に逃げ切ることが簡単だったからだ。睡眠は十分ではなかったが、眠る気にはなれず、二一七番の雑誌や、二一八番の本を勝手に読むなどして時間を潰した。
 (そろそろいいな)
 日が昇りきるころ、二一六番は動き出した。繁華街を歩き、電車に乗り、住宅街を通って組織の司令部に。
 任務は失敗したが、組織の命令は生還だった。生還すれば、組織からは脱退、人間としての戸籍と住居を与えると。それを信じて帰投した。
 司令部はマンションの一室だった。マンションの半数は部隊員が住んでいる住居で、マンション自体も組織の物だ。訓練施設が地下に併設されており、毎日のように訓練が行われている。
 司令部の呼び鈴を押して二一六番を名乗ると、扉はすぐに開かれた。白髭の濃い、痩身の男が二一六番を迎え入れる。リビングへと通され、柔らかいソファに座るように促された。座ると同時に、白髭の男は二一六番を労った。
 「生還ご苦労だった。二一六番。任務は無事成功した」
 二一六番は驚愕した。任務は失敗だったはずだ。目標は始末できず、自分以外は皆死んだ。部隊員の犠牲と目標の生存。両方を加味すれば大失敗のはずだった。にもかかわらず、
 「成功、でありますか」
 「どうした。不満か?私達が出した任務を覚えていないのか?」
 任務の内容を思い出す。一、目標の排除。二、不可能であれば、目標の警備調査。三、一若しくは二を達成後、生還。
 優先度は上から定められている。目標の排除が不可能であれば、その警備調査。しかしそれは作戦開始時点で達成している。警備調査を行い、それによって襲撃を立案したからだ。そのことを司令部に報告したのは二一六番だった。その後、目標の排除を行おうとして失敗。生還はしたものの、最優先目標の達成には失敗している。警備の調査についても、襲撃が失敗したことで体制は厚くなるだろう。優先目標の両方は、だから失敗であると二一六番は考えた。
 (それでも達成と司令部は言う。つまり、生還は達成条件ではなく前提?)
 「疑問を抱いているようだが、目標の排除にも成功している。作戦は間違いなく成功だ、二一六番」
 「排除に、成功、でありますか。しかし、我が隊は私を除いて全滅。私自身も目標の排除に成功しておりません。何かの間違いでは……」
 背筋を伸ばして、白髭の男に言う。顎をさすりながら、男は答えた。
 「前に言ったことがあるな。君の代わりはいくらでもいると」
 「は。確かに仰いました」
 「君からの調査報告を受け、あの屋敷には君達四人では荷が重いと判断した。だからあの直後、君ら以外にも二隊、予備隊を配置してね。君達が陽動をしている間に作戦は成功だ。実にいい手際だった」
 「…………、は」
 二一六番には怒りが沸き起こったが、それでも頷くことしかできなかった。事実、作戦は成功したのだから。自分達に予備隊の配置が知らされなかったのは、自分達が殺されることさえ司令部の予想通りだったからだ。二一六番も含め、隊は全員死ぬ予定だった。その予想を超えて生還したからこそ、白髭の男は二一六番の生還を労った。
 「さて、報酬を渡そう。私達は国営組織だ。裏とはいえ、約束は守る」
 白髭の男が立ち上がり、リビングからキッチンカウンターの裏に回った。がさごそと何かを漁る音が聞こえ、「ふむ、これだな」という声を最後に、こちらに戻ってくるようだった。
 「これが報酬だ。中身は確認したが、君の方でも確認しなさい。説明もしよう」
 「は。ありがとうございます」
 報酬は紙袋一つに纏められていた。中身を取り出し、リビングのテーブルに広げる。書類が二枚と、とても使い切れない使い切れない現金が入った通帳、何の変哲もない鍵が二つ。それだけだった。
 「説明といっても簡単なものだ。この書類と、鍵についてだけだからな。金は好きに使え。今まで組織で働いた給金の残りと、今回の謝礼だ」
 「鍵は、どこの物でしょうか?」
 何の変哲もない鍵だった。シリンダー錠を開けるためのそれで、凹凸部に特殊な加工がされてあるようにも見えない。
 「君の住居の鍵だ。一つは予備だから、無くさないように。書類に君の住所が記されているはずだ」
 言われ、書類に目を移す。緑と白の、特徴的な書類だった。
 「は、書類は、戸籍のようですね」
 「そうだ。お前の誕生日と年齢、住所と本籍が記載されている」
 しかし空欄があった。それは二一六番にとって最も大事なものであり、何よりも欲したものだった。彼はそれを与えられる物だと思っていたために、その空白を見つめ続けることしかできなかった。
 「名前は、ないのですか」
 「自分で決めるがいいさ。新しい人生だ。自分で、な」
 「…………」
 「なに、今日じゃなくていい。明日から七日以内にこれを私の手元に届くようにすればいい。送付してもいいし、直接手渡しでもいい」
 二一六番は昨晩のことを思い出した。イナミと名乗った女。彼女が昨晩そうしたであろうように、自分も自らの名前を決める。彼女は誰かに聞いていたようだが、ああ、願わくば彼女のように、綺麗な響きで呼ばれたいものだ。
 「今日はもう帰るといい。また名前が決まったら来い。期日前に連絡はする」
 「……わかりました。失礼します」
 「ああ、そうだ。お前、昨日追い回された連中がどうなったかは知っているか」
 立ち上がり、暇をしようとしたところに声を掛けられた。昨日の連中、イナミのことではないだろう。追っ手三人のことだ。
 「いえ、存じません」
 あの後、彼らには一度も遭遇していない。目標が死んだことにより、彼らの仕事もなくなったはずだ。二一六番は彼らに恨まれていても不思議ではない。
 「彼らは捕縛した後、買収した。これからは教練に携わって貰う。高い練度を持つようだったからな。なんにせよ、もう追われることはないだろう」
 「は。安心しました」
 頭を下げ、二一六番は退室した。自分の住所は先程確認した。そこを目指すことにする。マンションを出、住宅街を通り、電車に乗って、見覚えのある通りに出た。今朝通った繁華街だ。
 進む内、昨晩の路地裏を横切った。イナミは元気にしているだろうか。あてがわれたアパートはすぐ近くにある。いずれ会うこともあるだろう。二一六番は路地裏への視線を切り、通りを渡ってすぐのアパートの二○三号室に入った。鍵は、彼を迎え入れるかのように軽く回り、カチリと音を立てた。
 アパートは何の変哲もない、外からは一見高級そうに見える作りの、ごく普通の部屋だった。6畳の洋室と、4畳ほどのキッチン。バスとトイレは別。住むには十分以上の環境だ。
 キッチンには冷蔵庫と電子レンジ、洋室にはベッドとチェストが用意されていた。二一六番は紙袋の中身をチェストに入れ、ベッドに寝転んだ。疲れがどっと押し寄せてくる。
 (名前、か。自分で決められるとは思わなかった。いざ決めていいと言われると、どうしていいかわからないもんだな)
 色々思案を巡らせてみるが、これだという名前は浮かばない。自分を象徴するものになるのだから、よく考えて決めたい。幸い時間はあるのだし、ああ、そうだ。イナミに聞ければ、何か掴めるかもしれない。
 思い立って、ベッドから起き上がった。二つで一組になった鍵をズボンのポケットに仕舞い込み、外に出る。外に出ると、昨晩の路地裏が真正面に見えた。そこに入っていく、乱れた髪の女も。
 (あれは、イナミだな。あんな格好、普通の女はしないだろう)
 部屋に施錠をして、二一六番はその姿を追う。路地裏まで女を追い回す自分を、ストーカーっぽいと毒吐きながら。
 昨晩、イナミとした話を思い出した。組織に帰って、名前を貰った後のことを話した。他愛もない例え話は、その前提が覆されて成立しなくなってしまう。そんなことが少し面白くて、二一六番は笑みをこぼした。

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