竜神姫 ~白髪赤眼のモノノフ~

スサノオ

第十章 暴食、そして微睡みの底へ



 木で作られた小さな薙刀を中段に構え、少女は相対する。
 相手は、自分よりも遥かに高い身長を黒一色の着物と袴で覆い尽くした壮年の男性だ。手に握る得物は薙刀より少し長い、黒樫くろかしの太刀。しかし使い込まれた年月の違いとを物語るように、あちらこちらに傷が刻み込まれており、木でできているはずの刃ですら、真剣のように斬れてしまいそうな雰囲気が感じられる。
 鋭く黒い眼光を光らせ、そんな刃無き妖刀とも形容できる木刀を正眼に構えたその姿は、まさしく『目で相手を斬る』事を可能とする達人そのものであった。
 何度目にしていようとも、死ぬことがないと分かっていても、どうしようもなく足下が震えてしまう。
 だが、決しておくしはしない。この程度で尻尾を巻いて逃げているようでは、目の前で今にも叩き斬らんばかりの形相を浮かべる男に、自分の力を存分に見せつける事が出来ないのだから。

「いざっ!!」

 自分が抱いた恐怖心を押し殺すように、相手にそれをバレないように、甲高い声と共に大気を引き裂かんばかりの気合いを発し、目の前に立つ男へ一直線に向かう。 
 愚直なまでに真正面から向かってくる少女の動きを、しかし一切侮ることなくどこを狙って打ち込んで来るかを見定め、

「…………」

 後方に素早く飛び退き、足めがけて放たれた刺突を避ける。同時に、次の攻撃が繰り出されるよりも早く間合いを詰め、飛び退き様に上段に構えた木刀を素早く振り下ろす。
 剣道における引き技の一つ、引き面と呼ばれる技である。
 一連の動作は鮮麗されており、迷うことなく少女の小さな頭を叩き割らんと迫る。
 だが、少女はすぐさま相手の攻撃を見切り、刺突で伸ばしたままの腕を戻すことなくそのままクルリと一回転する。上段より振り下ろされた斬撃を避けながら、斬撃ではなく柄での殴打を狙った一撃を見舞う。

 辰巳神流薙刀術 巻絞かんこう反蛇はんだ。 

 戦の中で数々の打ち合いを演じてきた当主が、単騎で多数の相手を打ち殺す為に体得した、首を押さえられても尚巻き付いて絞め殺さんとする蛇を体現化した技だ。
 最初に使用したのが薙刀であった為薙刀術の一種と分類しているが、全ての長柄物において使用可能な上に、武器ごとに性質が異なる場面も多々ある。為に一応、薙刀術の一種として分類されている。

「ほう、巻絞かんこう反蛇はんだを使うようになるとは、小癪な奴よな」

 小癪と罵っているものの、その口調はどこか嬉しそうだ。とはいえ、それを受けてやる道理はない。すぐさま振り下ろした木刀を斜めに切り上げ、薙刀を受け止める。
 そのまま鍔迫り合いへと派生させるが、しかし少女は薙刀に込める力を抜いてわざと弾かせる。
 弾かれた衝撃を腕から逃がすために衝撃のまま身体を再度一回転させ、そのまま遠心力によって威力を増大させた刺突を、相手の腹に叩き込もうとする。しかし、相手は余裕を持って後方に大きく飛び退き刺突を避け、瞬時に脇構えへと移行。少女との距離を一瞬で詰めると、居合切りの要領で横凪の一撃を見舞う。
 長柄物は、その特性上近距離での打ち合いには向いておらず、いかに相手に間合いを詰めさせずに戦うかが重要な武器だ。こうして何度も間合いを詰められている辺り、まだまだ未熟としか言いようがない……のだが。

「せいやぁっ!!」

 すぐさま少女は脇構えから放たれる真一文字の斬撃を、柄をたてる事で受け止めてみせる。
 受け止めた衝撃は恐ろしく強く、薙刀を伝って少女の腕を痺れさせる。思わず手放しそうになる。
 それでもなんとか受け止め切ると、痺れた腕に喝を入れて柄で木刀を弾いき、そのまま上段から薙刀を振り下ろす。
 そこから十数合程の打ち合いへと展開、しかし斜め下から繰り出された斬撃を受け止められないと判断。少女は後方に大きく飛び退く事で避けてみせる。

「……はぁ……はぁ……はぁ……」

 この一連の流れが終わるまでに掛かった時間は、僅か一分。だというのに、肩で息をする少女の表情は、緊張と疲労がにじみ出ていた。
 自分とは違って、相手は何度も戦場においてその武勇を天下に轟かせ、しかし唐突に行方をくらませたモノノフ。
 天下無双、常勝無敗とさえ唄われ、あの第六天魔王と名高き信長すらも褒め称えた徳川最強の配下、本多忠勝との一騎打ちでも互角の打ち合いを果たし、その二つ名から無敗という言葉を取りさらった豪傑。

「どうした?よもや、この程度の戯れで疲れたなどとは言うまいな?」

 油断のゆの字すらもない、しかしいたって自然体のまま木刀を中段に構え直すと、小さき挑戦者をあおってくる。

「なんのこれしきっ!!」

 正直、手に握る薙刀は恐ろしく重い。だが、それでも無様は晒せぬと間合いを詰めようとして、

「あらあら、まだこんな所で打ち合いをしていらしたの?千火も父上と一緒に打ち合いしてばかりいないで、母上と一緒に炊事すいじや洗濯くらい手伝ってよ」

 そんな雰囲気を吹き飛ばす、のほほんとした柔らかい声に動きを停止する。
 少女ーー千火が声のした方向へと視線を向けると、そこには桃色の着物に身を包んだ一人の女性がいた。
 千火にはない艶やかな真っ黒い髪をかんざしで飾った美貌は、声音同様の柔らかい雰囲気がにじみ出ていた。
 取れたての黒真珠のような輝きを放つ真っ黒い双眸は大きく、少し見開いただけでもこぼれ落ちてしまいそうな程だ。しかし、その輝きは決して無機質な物ではなく、春の日差しのような温かく安心感を与えてくれるものだった。

「なんだお龍。水を差すような真似をしおって……」

 本格的に扱きに掛かろうとしていた千火の父ーー宗一は溜め息を吐く。
 それでも完全に構えを解くことなく中段に構えたままなのは、用向きがたいした事でなければ、このまま打ち合いを続けるという意志の現れだった。

「本当に、あなたって人は……。村長があなたの事を呼びに来たのよ」

 武の道一辺倒の夫に対し呆れながら、それでも相変わらず優しい眼差しで打ち合いを中断させた理由を伝える。

「むっ、村長がわしに用、とな。分かった、すぐにそちらへ向かおう。……千火よ、わしが帰ってくるまでの間、お龍とともに留守を頼むぞ」

 決して無視してはならない事案であると判断した宗一は、今まで使っていた木刀を腰に差して千火に向かって言う。
 真剣を帯びるべきかもしれないが、事実現役のころに三十人ほどの軍勢に夜襲を受けた際、木刀一振りだけで全て打ち殺してしまった事があるのだ。たとえ山賊や浪人がいきなり押しかけて来ようとも、すぐに打ち殺せる。むしろ、戦において一番頼りになる真剣を、そんな下らないことで使いたくないというのが、宗一の言い分であった。
 そんな異色の経歴をを持つ豪傑の表情は、先ほどまでとはうって変わって愛おしい物を見つめるような温かなものだった。

「はっ!ちちうえ、どうかおきをつけて」
「……いらぬ心配をするな。戦場へ出るわけでもないのだぞ」

 斬り合いでもしている時のような鋭い声音であしらう一方で、どことなく嬉しそうな表情を浮かべながら、宗一は道場から姿を消していった。

「さあ、千火。洗濯に行くわよ」
「はい、ははうえ」

 その後ろ姿を見送った千火は、自らの得物である薙刀を背負うと、先程まで打ち合っていた時と打って変わって、年相応のたどたどしい足取りでお龍の後ろを追いかけ、道場から出て行く。
 すると、最初からこうなることを見越していたのだろう、すぐそばにはドッサリと着物が押し込まれた桶が地面に置かれている。

「千火、お願い出来るかしら?」
「しゅぎょうでもっとおもいものもってきたえてるし、なぎなたよりもずっとかるいからだいじょうぶだよ!!」

 そう言って得意気に桶を持つが、量が量だけに小さな千火の視界は洗濯物で覆い尽くされてしまう。

「あ……おっとっと……」

 なんとか前に進もうとするも、足場すら見えないせいでふらつくその姿は、一生懸命な千火には悪いがなんとも愛らしい。

「やっぱり千火に全部持って貰うのはまだ早かったかしらね」
「だいじょうぶだもん!!こうみえてわたしはちちうえにーーうわぁっ!!」

 それでも意地を張って歩こうとして、小石につまづいて危うく転びそうになる。
 転ばなかったところは褒めるべきなのだろうが、これでは、川にたどり着くまでの道のりで転ぶのは目に見えている。

「はいはい、そんな事言ったって見えない物は見えないでしょ?少し母上が持つから、千火は残りを持って貰える?」
「…………ははうえのいじわる」
「ふふふ、ごめんね。どうしても母上、千火のことを見るといじわるしたくなって仕方ないのよ」

 千火のむくれた顔を見ながら洗濯物を少し持って謝るお龍の顔は、やはりというか謝罪の色が全く見えない。
 その態度が嫌でムスッ、とそっぽを向く姿には、道場で声を張り上げて宗一に挑み掛かっていた幼き挑戦者の面影など、これっぽっちも見当たらない。子供らしいその姿に、お龍はまた声を上げて笑ってしまう。

「……わらわないでよ、ははうえ」

 少し泣きそうな声で、千火は母上に笑うのを止めるように言ってくる。
 ごめんね、ともう一度謝ると、お龍は山奥にある川に向かって歩き始めた。これ以上いじると、本当に泣かしてしまいそうだ。
 その後ろで、ザッ、ザッ、と、草履と地面が擦れる音が聞こえる。いつもの時と比べて明らかに足取りが遅いし、幼い容姿には不相応な力強ささえ感じられる音すらも弱々しく、その中に確かに感じられる筈の覇気も見受けられない。
 それがまた可愛いくて、ついついいじりたくなってしまう。だが、そこはグッと我慢する。

(いけない、いけない。こんなことをいつまでも繰り返してたら、千火だけじゃなくて他の子供達にも嫌われちゃうわね。なんとかして早く治さないと)

 そんな自分自身ですらも困ってしまう性癖と悩みを受け継ぐ事になるなど露程も思わず、千火は相変わらずぶうたれたままテコテコとついて行く。
 千火が宗一に頼んで武術を学ぶようになったのは、元はといえばこの母親の悪癖あくへきがきっかけだった。
 どんなに嫌だと言っても毎日のように意地悪してくるが、かといって本当に悪意があるのかと聞かれたら無いと断言出来る。時折村の母親達に、どのように治せばいいか相談してさえいるのだから、千火としても何も言えなくなってしまう。
 だからと言って、そのまま放置しておいてもいつ子供いじりの悪癖が治るかまったく分からない。というか、本当に治るかどうかすらも怪しいところなのだ。
 そこでこっそり宗一に相談してみたところ、『お前もわしのようにたくましく強いモノノフになれば治るやもしれぬな』との事だったので、素直にモノノフとしての道を歩み出したのだ。
 もとより千火も、女性でありながら城主となった井伊直虎のような勇ましく凛とした女性に憧れていた身だ。モノノフとしての道を歩む事に、抵抗など一切無かった。

「千火ぁー、どうしたのー?そんなところでボサッとしてないで、早く洗うの手伝ってー」

 そんな事考えていると、いつの間にやら川に着いていた。
 所々大きな岩が顔を出す川は、決して広いと言える物ではないが、洗濯をする分には十二分に深い。

「はーい、今そちらへ向かいまーす」

 その川へ急いで向かい、急いで着物の袖を捲り上げると、既に洗っている母親に倣って洗濯板を片手に着物を洗い始める。
 季節が春というだけあって、水が少し冷たく感じる。が、先程まで宗一と打ち合っていた千火にとっては、むしろこのぐらいが心地よかった。

「あら、千火。また左腕にそんなに沢山の傷を作ったの?」

 洗い始めて早々、ゴシゴシと宗一の漆黒色をした着物を洗っていると、お龍が左腕を覗き込んで問い掛けてきた。
 六歳になったばかりの女の子であれば、小さく細い柔らかい筈の左腕。しかしそこには、ビッシリと痛々しいまでの傷が刻み込まれている。
 その事実に大して驚きの声を上げないのは、千火自らが父親たる宗一の後ろ姿を追い掛けているのを知っているからこそだ。
 たとえいじり倒したくなるくらい可愛い娘が、戦場に立つことを望んでいたとしても、それを受け入れるのが母親としての勤めだと思っていたから。……それが自分に原因があるなどとは、露程分かっていなかったのだが。

「うん。ちちうえに、みぎうでをうしなったときのために、ひだりうでもつかえるようにしておいたほうがいい、っていわれて、さいきんやまおくでしゅぎょうしてるの」
「まあ、それでここ1ヶ月父上と一緒に山に篭もってたのね。……もう、千火は女の子なんだから、そんなに沢山傷を作っちゃ駄目よ」
「いくさばにたったら、おんなもおとこもかんけいないんじゃないの?だって、いくさばにたったらむきあうあいてはみんなてきでしょ?そのてきだって、わたしたちをたおすことがもくてきなんだから、ぶきをもってあいまみえたらたおしにくるのはまちがいないでしょ?」
「…………はぁ~、なんでこう育っちゃったのかしらね。母上は悲しいわ」

 すっかり戦場に立つ覚悟を叩き込まれてしまった我が娘に、思わずお龍は天を仰いだ。

「どうしてかなしいの?」

 千火としては、母上の悪癖を治すためにモノノフを志したのだが、変わるべき本人が悲しんでいるとなると、やはり気になってしまう。
 なにがいけなかったのかな、と思いながら尋ねたその一言にお龍は答えようと口を動かした時、

「うわぁっ!!」

 何か大きな魚が近くで飛び跳ねたのだろうか、千火の顔面に大量の水しぶきが掛かった。

 

 

 
「…………っ!!」

 顔に水を掛けられた事で意識が覚醒した千火は、跳ね起きた勢いそのままに前転の要領でその場から飛び避け、水を掛けてきた張本人の姿を赤い瞳に映し出した。

「お目覚めになられましたか?」

 そこに映し出されたのは、最初に出会った時と同様の、絶望さえ感じたあの蒼の景色。
 しかし、その蒼はあの時とは異なり人間大の大きさであり、しかも真っ暗闇を少しだけ照らし出す焚き火の光に当てられ、オレンジ色に近くなっている。いや、蒼だけではない。
 地面に降り積もった雪も、そこから生える木々も……相変わらず大きいままのルシファムルグの鮮やかな翡翠色の翼も。全てが緋色に照らされていた。
 その翼から視線を外して上を見上げれば、黄金色の羽根飾りがよく目立つ赤い鳥頭が心配そうにこちらを見ていた。

「……リヴァイア、お前どうやってここに?というか、何故そんなに小さくなっているのだ?そもそもここはどこなのだ?あの後一体どうなったのだ?」

 そこから視線を外して、蒼ーー小さくなったリヴァイアに視線を向けて問いかける。
 そこで心配の色を空色の瞳に浮かべている、怪鳥に咥えられるまでの記憶はあるだが、何がきっかけで自分が気絶し、どうしてこの場にあの鳥がいるのか……そしてなにより、千火が仕留めた大蛇より少し大きい程度とはいえ、何故リヴァイアがこの場に姿を現しているのか。聞きたい事は山ほどある。
 …………のだが。
 ギュルルルルルルッ!!
 凄まじい胃袋の鳴き声が響き渡ると同時に、何日間も食べていなかったかのような空腹感が千火を襲った。
 今まで立って言葉を発していた事が信じられない、というか何故今まで忘れていたのかと聞きたくなる恐ろしい空腹感に、千火は思わず膝を着いた。

「…………は、……腹がぁ……へっ……減った……」

 さっきまで凛としていた声音すらも、今では掠れてしまっている。今の空腹具合なら、あの大蛇を十匹は平らげられそうな気さえする。

「やはりそうなられましたか。しばしお待ち下さい、今から食べ物をご用意致しますので。……あなた様はただちに食料、出来ればジストサーペントかラルドウルフをあと一頭程お願い致します」

 そんな千火の反応に慌てる様子もなく、リヴァイアは怪鳥に向かって指示を出しながらそう言うのと、篝火に白色に輝く魔法陣が展開されるのはほぼ同時だった。

「おぉ……!!」

 そして、魔法陣からは千火が見たこともない、赤い何かの甲殻らしき物に盛られた料理がズラリとその姿を現した。
 見るかにイノシシの肉と分かる、魚の活け作りのように頭を添えられズラリと並べられた焼き肉に、ニラに似た長い葉っぱと黄色い何かが所狭しと浮いている汁物。
 取れたて新鮮だと一目で分かるみずみずしさを帯びた野菜と思われる青物の上には、これまた醤油をドロドロににしたような、しかし篝火で食欲をそそる輝きを放つ液体がこれでもかとばかりにかけられた何かの肉が器から溢れんばかりに盛られている。それを彩るように添えられた赤く丸い小さな物は、木の実だろうか。
 そんな、千火にとっては見慣れない、しかし絶対に美味だと分かる料理が所狭しと並べられたのだ。
 これが幻ならなんの嫌みだとリヴァイアに殴りかかっただろう。だが、鼻孔をくすぐる香ばしい匂いが、雪原に並んで篝火に照らされる料理一品一品が本物である事を物語っていた。

「………………これ、全て食べて良いのか?」

 正直、普段の千火であれば半分がせいぜいであり、到底食べ切れる量ではない。
 だが、飢えに餓えた千火は、これだけの量であっても足りないのではとさえ、思えてならなかった。

「左様に御座います。お代わりもお作り致しますので、存分にご堪能下さいませ」
「…………いただきますっ!!」

 リヴァイアがどうやって調理したのか、今の魔術は何なのか……問いたい事がまた増えてしまったが、そんな事今はどうでも良い。
 食欲に駆られるままに、千火は乱暴に手を合わせてから料理にかぶりついた。
 それが合図だったかのように、ルシファムルグは翡翠の巨大な翼を広げて暗闇に包まれた大空へと飛び立った。
 出会った当初に雪煙を払ったあの暴風が吹き荒れる筈だが、不思議な事に千火の白く短い髪を軽く攫っていく程度の風しか吹かない。羽ばたき音にしても無音に近く、あれだけの巨体にしてはおかしい所が多すぎる。
 その事に疑問を持つ筈の千火は、食事に夢中でそれどころではない。いや、そもそもルシファムルグが大空に飛び立った事実にすら気付いていなかった。
 箸などの食器を一切使わずに、手や服を汚す事すら気にせず数多の料理に食らいつくその姿は、まさに施された食物に群がる餓鬼の一匹か、飢え死に寸前に獲物にありつけた餓狼のような必死ささえ感じられる。
 鬼気迫る表情で次々に料理を平らげていく千火の様子を見ながら、リヴァイアは新たに魔法陣を形成、更に料理を召還していく。
 そんな状況がしばらく続いていると、ルシファムルグが新たなる食材を調達して戻ってきた。嘴には紫色のあの大蛇、その幼体と思わしき少し小さめの蛇を二、三匹、それこそミミズを加えるような格好で咥えている。

「わざわざありがとうございます」

 そう感謝の言葉を述べて、リヴァイアはすっかり小さくなった右手を地面に着けた。すると、リヴァイアの両脇に水色に輝く魔法陣が展開される。その魔法陣は大きく、ちょうどかつてのリヴァイア腕の太さと同じくらいはありそうだ。

「わたくしも少しばかりお腹が空いてしまいましたので、頂きますね」

 その言葉に合わせて、本来のリヴァイアの腕が二本出現し、器用にルシファムルグから大蛇を受け取ると、小さな腕一口サイズに切り分けて食べ始めた。血で汚れる事に一切の躊躇いもなく食べるその様子は、自然界に生きる者なのだと如実に物語っていた。……もっとも、それ以上に野性味溢れる食べ方をする人間の女性がここにいるのだが。

 






「…………ごちそうさまでした」

 リヴァイアが大蛇を食べ終えてからしばらくして、ようやく落ち着いた千火は赤い瞳を閉じ、すっかり食べ物で汚してしまった両手の平を合わせた。

「………………」

 のだが、なかなか眼を開けない。更に言えば、手の平を合わせたままピクリとも動かないのだ。呼吸する度に上下する肩と、膨らんだり萎んだりするお腹ーー百人前は軽く超える量の食事を食べたというのに、まったく膨らんでいないのだがーーの動きが無ければ、腹が満たされた喜びそのままに息絶えてしまったのでは、と疑いたくなるくらいだ。

(もしかして、寝てしまわれたのでしょうか?)

 無理もない。
 気絶していたと言えども、今日の疲労は決して三時間程度で癒せるような物ではない。
 転生してまだ間もないのに飛竜族に殺され掛け。
 竜神姫として相応しい者であるか見定める為に二つの試練を受け。
 リヴァイアの一切のサポートを受けずに自分の力だけで、千火の才能だからこそ成せた、無詠唱無魔法陣での魔術を発動させたのだ。
 正直に言えば、普通の竜神姫や竜神騎が最初に送る二日目ではない。
 このままでは筋肉が凝ってしまわれますし、横にしてゆっくり寝させてあげましょうか。
 そんな事を考え始めた矢先の事であった。

「…………すまない、待たせたな」

 宵闇に一際目立つ赤い瞳を開き、千火は足元を覆う雪に手を突っ込んだ。サクッとした感触だけで、やっぱり冷たさを感じない事実に嘆息を漏らし、水変わりにして手を擦り合わせてこびり付いた汚れを落とす。

「……千火様らしいですね。大丈夫ですよ、さほど時間は経っておりませんし」

 約三分に及ぶ長い食物への感謝の祈りは、目をつぶった事もあり長い黙祷のように見えた。
 いや、事実そうなのだろう。
 この世界における黙祷は、千火の生きていた世界と目を瞑っていた時間とは異なりちょうど三分。これはこの世界を支える二代目水龍王リヴァイアサン、初代地龍王ヨルムンガンド、二代目飛龍王ファーブニルになぞらえて三分としている。……軽く目を瞑って合掌するだけだった、魔族として人間と対峙していた頃と比べれば、随分平和になったものだ嬉しく思えたあの頃が懐かしい。

「そうか。……話は元に戻すが、どうしてお前がここにいるんだ?」

 そんな事など知らない千火としては、これでもかなり妥協した方だ。
 本当なら百三十四品ーー千火の胃袋に流し込んだ料理の数だーー一品一品に対して一分黙祷を捧げたいところだった。だが、さすがに質問を投げかけ、答えの言葉を用意して貰っておきながら一刻半まるまる待たせる訳にはいかない。だから切りの良い三分にしたのだが。

「…………」

 話しかけた当の本人ーーいや、本龍王は何故か懐かしい思い出達に耽っている様子。
 普通の人間ならば、ただ空を仰いでぼうっとしているようにしか見えないのだが、そこは物言わぬ動物の感情を瞳から読み取る事が出来る千火だ。
 懐かしさと、その奥底に滲み出る悲しさを、美しくも禍々しい蒼い宝石の輝きから見いだしてみせた。

「おい、リヴァイア?」
「…………」
「何をうれいている?過去に今の私と似たような事があったのか?」
「…………」
「……はぁ~……まったく、仕方のない奴だな。まあ、私も魔術に見入ってしまった口だし、お前についてとやかく言えた立場ではないが……」

 右腕の怪我を癒やしたあの魔術に驚いて固まった事に自嘲しながら、星空を仰ぐ水龍王に歩み寄る。
 千火が助け出したあの怪鳥は、未だ目をぱっちりと開きその様子を興味深そうに伺っている。
 そして、千火が顎の下まで来ても尚思い耽るリヴァイアに、

「おい、いつまでそのまま呆けているつもりだ?」

 肘を曲げたまま下から突き上げるようにして放つ殴打ーー俗に言う昇龍拳を見舞った。
 別に変に意識したわけでもない、冗談や遊びのつもりで放った、僅かな殺傷能力も持たない一撃。……のつもりだったのだが。

「っ!!」
 声無き短い悲鳴を上げ、小さくなった水龍王の身体が星空に飛び上がったのだ。
 …………………………飛び上がった?

「…………………………ピキュウッ!?」
「…………………………はぁっ!?」

 二人の声が、一羽と一人の声が同調して夜の樹海に響き渡るのと、雪を巻き上げて水龍王が倒れ込むのは、ほぼ同時だった。

「なっ、えっ、まっ、おっ、おっおおいっ!!リヴァイア!?大丈夫かっ?!」

 想定外の事態に千火は慌ててリヴァイアに駆け寄るが、

「………………………」

 完全に白眼を向いて気絶している。なんというか、よくこれで水龍王を務められたなと思えてしまう間抜け面だ。思わず笑いたくなってしまうが、しかし気絶させた張本人は自らの拳に視線を落とす。

「…………いったい何があったのだ?」

 別段違和感を覚えた訳ではない。だが、事実リヴァイアはこうして気絶してーー

「……むっ!?」

 ーーいた筈なのだが、千火が瞬きした瞬間にはそこにその姿は無く、代わりにリヴァイアの半身とも呼べる薙刀が横たわっていた。

「…………勝手な解釈をしてはならんな。とにかく、リヴァイアが気絶してしまった以上、起こすわけにもいかぬ。このまま寝るとするか」

 驚愕のあまり固まってしまっていたルシファムルグにも身振りで眠ろうと指示を出すと、薙刀を片手に近場の木に背を預ける。……勿論、座った際に雪でお尻が湿らないように払っておくのは忘れない。

「…………いったい、なんだったのだろうか」

 龍王を気絶させた右腕に視線を落としながら、千火は目蓋を閉じる。
 明日、リヴァイアが起きていたら謝りがてら事情を聞き、同時に右腕の事について少し聞かなければな。
 そんな事を考えながら、千火は再び微睡みの底へと落ちていった。

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