竜神姫 ~白髪赤眼のモノノフ~
第九章 魔術を使うと言うこと
「私の言葉分かるか?」
リヴァイアの言葉通り、まずは言葉だけでルシファムルグとの意志疎通を図ってみる。が、相手は依然として警戒の構えを崩さず、羽毛をより激しく逆立てる。
柔らかそうな見た目に反してかなり硬質なのだろう。まるで鉄同士が擦れ合ったかのような耳障りな金属音が、千火の鼓膜を振動する。
そこで、再度同じ言葉を口にし、今度は指で怪鳥を指したり自分の口元を指したりしてみる。すると、
「……………」
鳴き声こそ発さないものの、千火に警戒以外の感情を抱いたのだろうか。それとも、相手が敵意を向ける事なくこちらに接している事に気がついたのだろうか。身震いの一種のように小く、本当にわずかではあるが、確かにその長い首を横に振った。
「そうか。身振りで分かってくれるだけの理解力があるのか。リヴァイア、お前の言った通りコイツは頭が良いな…………抜けているが」
『………………凄いです、千火様』
「何が凄いのだ?」
感嘆の声を上げるリヴァイアに千火は首を傾げる。先にも伝えた通りーーというよりはこうして野生の動物や魔物相手に意志疎通を図り、成功させている時点で十二分に凄いのだがーー千火は前の世界においては動物と意志疎通していたのだ。
勿論、全ての動物と意志疎通が出来た訳でもないし、これから摘み取る獲物と会話した訳ではない。
怪我をしていたり、不慮の事故で親を亡くした子供であったり、そう言った狩るのも不憫に思えるような動物達だけだ。
当然最初からうまくいく筈がなく、相手が空腹になるまで待ってから、餌を与えるなりして信頼関係を獲得、その後に村に連れ帰って独り立ち出来る年になるか、怪我が完全に癒えるまでの間ずっと面倒を見ていたのだ。
鍛錬と世話の両立は難しかったが、それでもなんとか終えて嬉々として山へ帰っていく後ろ姿を見届けるのは、寂しいような嬉しいような、そんな心地になったものだ。……中には完全に懐いて離れようとしなかった者も居たが、それは全て子供だったので親離れという名目で無理やり野生に返させた。しかしその後で、狩りの時に手伝ってくれたり、自分の食べ物を分けて貰った時もあったのは、本当に良い思い出だ。
その頃に比べれば、この怪鳥はかなり素直な方だ。身振りだけでも千火の意志が伝えられる上に、否応をはっきりと示してくれるのだから。それを踏まえると、何故リヴァイアが凄いと賞賛したのかが、いまいち理解出来なかった。
『ルシファムルグは獰猛な上に警戒心の強い魔物に御座います。成体になられたばかりの個体はにおきましては特に顕著なのですが、千火様の身振りにこうもすんなり応じるなんて、滅多な事では御座いませんよ』
少し興奮気味に言うリヴァイアに、
「そうなのか?私としては、以前に住んでいた世界にいた生き物よりもずっと素直だと思えるのだが…………まあいい。素直に応じてくれているのは、私としても助かる」
と言って、再度片足が嵌まったまま抜けなくなっている若鳥に向き合うと、
「……?」
何か話している事には気がついてはいるようではあるし、何度も人間と対峙したことがあるのだろう。ひとりでに自分の武器に向かって喋っているその光景があまりに不自然に感じたらしく、長い首で器用に傾げさせて心底不思議そうな表情を浮かべている。それでも、羽毛が逆立ったままのあたり、完全に警戒を解いている訳ではなさそうだ。
「おっと失礼。そうだな……お前の足を抜くの手伝ってやるか?」
と言いながら、自分の足に雪をかけて埋まっているルシファムルグの状況を作り上げる。
ふんわりとした、しかしリヴァイアの加護の所為で冷たく感じなくなってしまった雪の感触が、足首から下を覆い尽くす。
(………感触だけで、冷たさを感じられないのは、少し痛いな。コイツを助けたら、リヴァイアに加護の度合いを変えられるか聞いてみるか)
冷たさを感じられない事実に少し寂しく思いながら、相手に指をさし、それから自分を指してから足を引っこ抜こうとする素振りを見せた。
「ピキィヤァー!!」
甲高い、しかし鳶のような勇ましさを感じさせる鳴き声を上げて首を縦に振った。
意志がちゃんと伝わったか確認するために、相手の大きな空色の瞳に視線を移す。
浮かんでいたのは、疑問と喜び。恐らく何故助けようとするのかという疑問と、純粋に助けてくれる事に対する喜びだろう。
「まったく、相変わらず動物は素直で可愛いな」
先ほどまでの警戒振りが嘘のように喜色満面の表情を浮かべる若鳥に、千火は思わずそう呟いてしまう。
若さ故なのかはしらないが、相手の言葉を少しも疑う事なく信じ喜ぶ姿は、まさに無邪気な子供そのものだ。というよりも、頭が良いとリヴァイアが言っていた割には、ちっともそれらしさが見えない。むしろバカとさえ言える抜け具合だ。……それでも、一応羽を逆立ててはいる。ここまで来ると逆立てる必要があるのかと問いたくなるが、そこは聞かない方が良いだろう。もっとも、そのことについて口にしたところで理解できないだろうが。
『…………千火様、相手は魔物に御座いますよ?』
魔物を動物と同一視している竜神姫に、認識の訂正を求める水龍王だが、その試みは見事に失敗する事になる。
「こんな素振りを見せられては動物にしか見えないだろう。身体の大きさや攻撃方法に魔術が加わる事、獰猛の度合いが異なる点を除けば、魔物も動物も大きな差など無い」
『充分巨大な差があるとわたくしは思うのですが……』
「まあ良いだろう、そんな問答。それよりも、早くコイツの足を抜いてやらないとな」
『そんな問答の一言で片付けないで頂けますか?良いですか千火様、ルシファムルグはーー』
と先ほどから何か聞こえているような気がするが、気のせいだろう。
水龍王の説教を聞き流しながら、足元に行っても良いかもう一度身振りで聞き巨鳥の許可を得た上で向かおうとして、
「……と、その前に。一つ聞いておきたい事がある」
と思い出したかのように足を止めて、再度巨鳥の瞳を見る。
どうしたの?と言わんばかりにこちらを見据えてくるその素振りは、千火を襲ったあの飛竜と大差ない大きさであってもやはり可愛いく見えてしまう。
『………………』
さすがに何を言っても無駄だと理解したのだろう、水龍王は説教を中断する。
あとでしっかり魔物についての知識を覚えて頂かないとなりませんね、という呟きが嫌に聞こえたような気がしたが、聞こえなかった事にしよう。ただでさえ話が長いのに、これ以上説教に似た物を永遠と聞かされるのは御免こうむる。
「腹、空いてないか?」
相変わらず身振りでしか会話出来ないところが不便だが、それでも相手が意思表示してくれる所はありがたい。もっと気軽に話せれば良いのだがな、とは思いつつも身振りで伝える。
ギュルルルルル!!
怪鳥が鳴き声を上げるよりもはやく、巨大な腹に住む虫が絶叫にも似た叫びを上げる。
「ふふふ、まあそんな事だろうとは思っていたさ。……どうだ?さっき食べようとしていたこれ、食べるか?」
相手に意志を伝えた上で、仕留めたばかりの大蛇を差し出す。
「ピキュ?」
しかし、今度ばかりは不思議そうに首を傾げるだけで素直に食べようとはしなかった。
単独で生活するようになる動物は、獲物を横取り、或いは狩る事は確かに多いが、子供の頃とは違って第三者に餌を譲って貰う事は殆どない。素直に食べようとしないあたり、それはこの怪鳥にも通じているのだろう。現に、怪鳥の瞳は困惑に埋め尽くされている。
『…………そんなに簡単に仕留められた獲物を差し出してしまってよろしいのですか?』
魔物にしても人間にしても、警戒を解かせ、かつ信頼関係を築くのに最も簡単な方法が、胃袋を捕まえることにあるとはリヴァイアも理解している。
それでも、こうも無償でせっかく仕留めた大蛇を丸々一匹あげてしまうのはいかがなものだろうかと思った水龍王の問いに、
「お前の気持ちも分からなくもないが、いかんせんこの蛇は大きすぎる。塩漬けにして保存食にするにしても、罠や釣りの餌として使うにしても、全て腐らせる前に使いきれるかとと問われればかなり怪しいだろう?それなら、無駄なく食いきれそうなコイツにあげてしまった方が海蛇の為になる。だからあげようと思っただけだ」
肩を竦めながらそう答えると、再度怪鳥に視線を向けて、
「ほら、食べろ」
飛べない影響で随分下に下がっている頭に近づき、大蛇をちらつかせてみる。
「ピキュ?」
小さく鳴き声を上げる。それは、本当に食べて良いの?と聞いているようにさえ思える声音であった。……少なくとも、千火にとっては。
「ああ、良いぞ。足が抜けても、空を飛べないようでは話にならないだろう?」
身振りでそう伝えると、ようやく怪鳥も巨大な口を、恐る恐るではあるがゆっくりと開いた。
まるで巨剣のような獰猛な輝きを放つ嘴だが、その中身は生き物らしい赤くヌメり気のある舌があった。吐息が血や肉が腐ったような臭いでかなりキツいのだが、これぐらいは野生の肉食動物なのだしご愛嬌というものだろう。
その先に大蛇の頭を軽く乗せると、ガッシリとした強靭な嘴でしっかりと咥え、ゆっくりと飲み込み始めた。普通は千切って食べる物なのでは、と思うがとりあえずは食べてくれたことに一安心しておく。
食事中ではあるが、再度片足の所へ行く事を身振りで伝えるーー大蛇に夢中になる事なくちゃんとと千火の意志を読み取って返事を返してくれたことに、やはり賢いなと千火感心してしまうーーと、問題の右足の元へと向かう。
「…………凄い足だな」
早速出迎えてくれた左足に、千火は溜め息を吐きたくなる。
黄色い鱗に覆われた足は、千火の胴回り程の太さはありそうだ。間一髪猛禽類の足元に逃れた小動物になったかのような、今にも食われてしまいそうな心地にさえなる。
その先にある足の指先に備え付けられた鉤爪は、リヴァイアのそれとさほど変わらない鋭さと頑丈さを持っているのは一目で分かった。現に、何度も踏ん張った影響なのか、左足の下は亀裂が幾つも入っている。千火の影響で入ったひびもあるのだろうが、ちゃんと足場を気をつけなければ溝に嵌まってしまいそうだ。
「羽毛は……意外とふんわりしているな。金属の擦れるような音がしていたあたり、剣のように鋭いのかとも思ったが」
股下を通るのに羽毛が剣のようではさすがに問題だ。安全確認の為に羽毛を触ってみたのだが、これが柔らかいのだ。ヒヨコのそれにも似た、思わずそのまま抱っこして寝たくなってしまいそうな柔らかさと温かさに感動していると、
『先ほどの羽毛の硬質化は、アクティビションと同じ支援魔術の一種 ブレイドアーマーに御座います』
リヴァイアが補足説明をしてくる。
「ほう、さっきのアレも魔術なのか。となると、私もしっかり鍛錬すれば、あれを使える用になるのか?」
『………………魔術ですので勿論体得は可能に御座います。一応お聞きしますが、体得なされた後はどう運用致すおつもりですか?』
なんとなく不穏な響きを感じ取ったリヴァイアは問い掛けてみると、
「いやな。武術に秀でていたり、腕を傷だらけにしたりしていて女らしさの欠片も無いが、私も一応は女だ。化粧というか、そういうものの一環で髪を伸ばしてみたいとかねがね思っていたのだが、どうにも戦や狩りの時には邪魔くさくなりそうで伸ばしていなかったんだ。男共のように髪を一つに束ねるのもそれで良いのだろうが、女の私が男共の髪型をしたら色々と問題があったからな。……まあ、それは以前の世界の話でしかないのだし、今の世界でそれをするのもまた一興だろう」
案の定、女性のじょの字すら存在しない物騒な答えが返ってきた
『…………つまりお洒落も兼ねて髪を戦う武器に出来るのであれば伸ばしてみよう、と言うことに御座いますか?』
「そんな所だ。何かおかしいか?」
『…………いえ、なんでも御座いません』
魔物すらも動物と同じように扱ってしまわれる上に、戦いの事となられるとお洒落すら武器にせんとするその考え方が、既に人間の女性としてどうかと思われるのですが。喉元にまでせり上がったその言葉をなんとか飲み込み、
『それよりも千火様。今はルシファムルグの右足を掻き出す事に意識を集中しては如何ですか?ルシファムルグもジストサーペントを食べ終えてしまったようですし、なによりまたジストサーペントのような氷の中を突き進める魔物が現れては大変ですよ』
千火が問い掛けるよりも早く、ルシファムルグの足を掻き出す事に話題を振る。
実際、ルシファムルグは先ほど千火があげた大蛇を食べ終え、千火の様子を伺っているのだ。
羽毛を逆立ていないところから見て、とりあえずは警戒を解いてくれたらしいーーもっとも、たった数分程度でルシファムルグの警戒を解かせてしまうのは、凄いなどという言葉では済ませれない神業とも呼べる所業なのだがーーが、いつまでも手間取っていれば手に入れたばかりの信頼を落としかねない。
加えて、ルシファムルグ程の大物であっても、餌として食らわんとする魔物も居ないわけではない。幸いにも、海中にまで足を突っ込んでいから、そうした魔物達に今のところ気付かれてはいない。が、それもジストサーペントが氷を掘った拍子に海水が流れ込んで浸かってしまえば、一発でバレてしまう。そうなれば、もはや救出どころではなくなってしまう。
「…………そうだな。助けると言っておきながら、アイツを待たせるのも悪いしな」
正論ゆえに返す言葉のない千火は、そう言って太もも近くまで埋もれた右足まで近付く。
氷を砕き、右足をここまで深く埋めてしまったあたり、どれだけ凄まじい勢いで突撃してきたかがよくわかった。
「さて、掘るとするか。リヴァイア。魔素の度合いは任せるぞ」
千火はリヴァイアに魔素の調節を任せると、ルシファムルグがつついた拍子に出来た氷の亀裂の中へと入る。かなり狭いが、そのまま身動きが取れない程ではない。
それを確認してから、水色の羽毛や黄色の鱗の位置確認し、どうすれば抜けるか考えつつ、氷に覆われた海面に軽く拳を殴りつけた。
たったそれだけの行為だというのに、千火の腕は難なく氷を砕き、肘のあたりまで埋まってしまう。
この調子で慎重に掘り進めれば日没までに出してやれそうだな、と。そう思った時だった。
「ぬ?」
アクティビションを使って抜こうとしたのだが、うんともすんとも言わない。
リヴァイアに全力解放をお願いしようかとも考えたが、それでは右足を傷付ける恐れもある。為になんとか今出ている力で抜こうとするが、依然として動く気配がない。……だというのに氷の冷たさが伝わってこないのは、千火としとは寂しい限りだ。
「…………どうしたものか。リヴァイア、何か策はあるか?」
『………………』
「おい、どうした?魔素の調節を誤ったくらい、別段私は気にしないぞ。猿も木から落ちるということわざもあるくらいだ、いかに神と同じような存在であろうと、こうして間違いを犯すのはお前も生き物である確かな証だ。だからそう落ち込んでくれるな」
『………………』
「………………なあリヴァイア。お前、まさかとは思うが、こうなること分かって魔素の量調節したのか?絶対に怒らないし、お前を殴るなんて事はしないと約束するから、正直に言ってみろ。大丈夫だ。少なくとも、自分から言った約束はよほどの事が無い限り破りはせん」
黙り込んだままのリヴァイアに、それはそれは恐ろしい般若顔で言葉を投げ掛ける。怒気か空気を通して伝わったのか、関係のない筈のルシファムルグの右足も一度ブルッと震える。
『…………………………申し訳御座いません。わたくしは、千火様がどういうお方なのか分からなくなってしまいました』
「………本当にどうした?」
なんの脈絡もなく告げられたその言葉に、千火は首を傾げざるを得ない。
まったく会話としても成立していないし、第一まだ会ってから数時間しか経っていないのだ。たったそれだけの時間で自分を理解しろとは、一言も言った覚えはない。だというのに千火の事が分からないと言われても、別に仕方がない筈なのだが。
嘘を吐いた事を誤魔化そうとーーしているようには到底思えない。口調や声音からも、本当に分からないという感情が滲み出ていた。
何が分からないのか。千火は気になってしかなかった。
「私が分からないとは、いったいどう言うこーー」
『申し訳御座いませんが、これ以上この話題につきましては振らないで頂けますか?わたくし自身、少し事が事なのでどう千火様にご説明すれば良いか分かりませんし、何よりこれは数千年生きてきたわたくしにも理解しきれないものに御座いますので』
皆まで言わせないその口調は普段のそれと比べると明らかに早く、焦っているように思えた。……いや、怯えているという方が正しいのだろうか。完全に千火の中に存在する゛なにか゛について明確に説明する事が出来ず、かと言って自分にとっても得体の知れない代物に混乱している。
千火としても自分の中にそんな存在がいると聞いて薄気味悪く思うが、今は気にしている場合では無い。
「ああ、分かった。だが、この現状をどうにかする方法はないのか?これではアイツを助けるどころではないぞ?」
『本当に申し訳御座いませんが、千火様ご自身でどうにかしては頂けないでしょうか?わたくしは、わたくし自身の魔素の乱れをなんとか治さなければなりませんので。ですが、洞窟を出るときに説明したとおりの手順を踏まれれば、安定しない魔素であっても魔術は発動する筈です』
出来れば助力を得たいところではあったが、リヴァイアもこの様だ。どういう訳かは分からないが、魔素も乱れてしまっていてそれどころではない。
この世界の水を司る龍王、その魔素が乱れはるということは災厄が発生することを意味する。下手をすれば、リヴァイアの魔素が暴走し大津波、雹、豪雪、全水域凍結、猛吹雪などの現象が世界各地で起こりかねない。
現に、リヴァイアの魔素が乱れた影響で猛吹雪が既に吹き荒れているのだろう。暴風と共に白いものや固形物まで吹き付けてくる。
「ピキィヤァー!!」
早くしてくれと言わんばかりに、ルシファムルグが悲鳴にも似た叫び声を上げているところから見て、かなり酷い吹雪が吹き荒れているようだ。
もっとも、ルシファムルグとて何もただ待っていた訳ではない。食事を終えるや否やすぐさま足元の氷をつついて足を抜かんとしていたのだ。
(やれやれ、早速私自身で魔術を発動させなければならないとはな。まあーー)
実践に勝る知識なしとはよう言うしな、と息を一つ吐くと、狭いながらも左腕だけで、器用にリヴァイアの意志が込められた薙刀を背中から取り出すと、柄尻を凍った海面に叩きつけて立てる。
そして、左半身を覆う着物の袖を咥え、少し時間を掛けてなんとか脱ぎ捨てて見せた。
胸は依然として胸当てに隠されたままだが、吹雪が吹き荒れる氷海でさらけ出した左上半身にもまた傷が刻み込まれていたーーのだが、その度合いが常に露出している右腕の非ではない。
刀で切り裂かれたかのような切り傷や、矢で射抜かれた事で生じた傷が、まるで干上がった田んぼに刻まれる地割れのように深い溝を築き上げていた。今にも血を流しそうな痛々しいものすらあるその古傷の数々は、到底女性には不釣り合いな代物ばかり。まるで、一度左上半身が描かれた紙をバラバラに切り裂いて、無理やり繋ぎ合わせたかのような歪さである。
『千火様、その左上半身は……?』
「私に構っている暇があるなら、さっさと私が魔術を使う前に魔素をどうにかしろ。コイツも寒がっているようだし、乱れた影響で雹も降ってきて痛いのだろうな。まあ、これについてはコイツを助け出してから幾らでも話してやる」
そう言って、千火は右腕をうずめたまま眼を閉じる。
魔術、それも今まで意識させるだけで発動させていたアクティビション。それよりも遥かに危険で、難易度の高い魔術を、安定性を持った上で発動させる為だ。
今露出している両腕、その先に生える両手の指先にまで全体に意識を集中させる。すると、腕の中心部、つまり筋肉と骨に雁字搦めに纏わりつく細く赤い管と、青い管の両方を感じ取る。更に意識を集中させ、より細かく感じ取ろうとすると、今度は筋肉や骨、それらを覆う皮膚や管に至ってまでが、小さな四角い物体で構成されている事に気がつく。
そして、千火は想像する。それらの小さな四角い物体から、火山噴火の要領で氷を易々と蒸発させる炎が吹き出す様を。
すると、千火の両腕になにか、液体のそれとは違う、しかしなんとも表現しにくい何かーー魔素が、両腕を構成する物体いっぱいに流れ込んでくるのかが分かった。
(あとは、この量が四角い物体一杯に詰め込まれるまで待ちーーここで留める!!)
満たされそうになったその瞬間に、流れ込む魔素をせき止める重圧な壁を四角い物体一つ一つに作り上げ、せき止めるーーその様を想像する。
(よし、留められた。ならば、あとはこの量をしっかり覚え、調節し、常にこの状況を作り上げつつ、この小さな四角い物体から開け放つだけだ。頼む、上手くいってくれよ……!!)
そして、留められた分量をしっかりと頭に叩き込んだ上で、外側にびっしりと覆われた四角い物体に向けて、一気に解き放つ。
瞬間、ゴウッ!!という何かが勢いよく燃え上がる音が響き渡ったかと思うと、水が勢いよく蒸発していく音と共に、何か熱い霧状の物が勢いよく顔に吹き付けた。
「あつっ?!!」
思わず両腕で顔を覆いーーそしてハッとする。
両腕はまったく熱くない。だというのにゴウゴウと燃え盛る炎の音が間近で聞こえる。だというのに、それは千火の顔を燃やすことなくただ心地良い温かさを空気越しに伝えるだけだ。
やったか。そう思って目を開いてみると、両腕は紅蓮色の炎が纏わりついていた。
初めて自分の力だけで魔術に成功した事実に対して、喜ぶ暇もない。何故ならこの絶妙な魔素の調節を少しでも誤れば、本物の炎となって千火の両腕を瞬く間に炭に変えてしまうか、魔素が足りなくなって炎が無くなってしまうかの二択しかない。
(くそっ、この状態で、、掘るのは、骨が折れるな……!!)
もはや言葉を発している余裕もない。
それでも、燃え盛る炎を纏った腕を慎重に引き、殴打の一撃を凍った海面に叩きつける。
爆発音にも似た轟音と共に海水が蒸発し、瞬く間に千火の視界を白く熱い煙が覆い尽くす。しかし、最初のそれで慣れた千火は、遠慮なく、しかし本当に腕の動き一つ一つに注意を払い、流れ込む魔素の量を想像だけで調整しながら殴打を叩き込む。
(……なるほど、自分の意志だけで……発動させてみて分かった事だが……これは、かなり難しいな……!!)
詠唱を使わず、魔法陣も使わない状態での魔術の発動。確かに、相手に動きを悟らせないというかなり有利な方向へと持って行く事ができ、戦術的にはかなり有用である。
だが、その代償は恐ろしく重い。支援魔術を維持する行為だけでも、目隠しされたまま針の穴に糸を通すような繊細さが求められる。だというのに、この上戦闘においては相手の動きを見切り、捌き、反撃しなければならない。その難易度は、リヴァイアに魔素の調節を任せて戦っていた時とは比べ物にならない。
「ピキィヤァー!!」
十数発ほど右足周辺の海面を叩き溶かしたところで、勇ましいルシファムルグの鳴き声が聞こえたーー次の瞬間、埋まっていた海面が激しく震動する。その事実が、足が抜けるということを物語っていた。
「分かった!!」
もう抜けるとあれば、千火としても氷の下にいつまでも居座る道理はない。すぐさま腕に充満している魔素の供給を止め、腕を覆い尽くしていた炎の籠手を消し、
「リヴァイア、魔素は落ち着いたか!?」
魔素が乱れた水龍王に声を掛ける。
吹き込んでくる吹雪は、だいぶ弱まっている。
『状況は把握しては御座いますが、もう少し時間が欲しいです。這い出られては頂けないでしょうか?』
「いや、大丈夫だ。アクティビションでなんとかする」
出来れば魔素の調節を任せてここから飛び出した方が遥かに安全なのは間違いないが、調整役がこのざまではどうしようもない。
それでも、前世で散々発動させてきたアクティビションの一時的発動ならば、足を踏み抜くことなく抜け出すことは可能なはずだ。
そう決断を下し、アクティビションの一時的発動をさせるべく足元に意識を集中させようとした……ところで。
「ピキヤァッ!!」
甲高い鳴き声と共に、千火の身体は白銀色の嘴に咥えられる。
「あ、すまーー」
ないな、と、相手の意志を察して感謝の言葉を言い切るよりも早く。
ルシファムルグは思いっきり羽ばたいた。
それは、ルシファムルグにとって空へ飛び立つ為の行動。だが、当然今まで空を飛んだことのない千火が、ましてやアクティビションすらも発動させてもいない状態で、急激な重力変化からくる衝撃に耐えられる訳がない。
「ーーーー!!」
悲鳴を上げる間もなく、突然の襲いかかった重力の衝撃に耐えきれず、千火は意識を失った。
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