竜神姫 ~白髪赤眼のモノノフ~

スサノオ

第二章 裏切りの龍王 

 

 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!
 ……どれだけ、どれだけこの時を心待ちにしていただろうか!!どれだけこの瞬間を待ちわびた事だろうかっ!!
 翼竜の心は狂喜乱舞していた。
 血溜まりを作って倒れ伏す、今にも死んでしまいそうな、両親の、親友の、兄弟の、愛した者の仇を見つめて。
 狩りの帰りに見つけ、さっさと獲物を巣に置いて戻ってこようと思って羽ばたいた。たったそれだけだというのに、風に舞う砂塵のように吹き飛んだ姿を見たときはこんなに脆いものなのかと拍子抜けさえした。だが、それ以上に、楽しいとさえ思った。
 お陰で探すのに少し時間が掛かってしまったが……急降下で周辺の木々を薙ぎ倒したのは正解だった。
 の張られた洞窟に逃げ込まれてはどうしようもなかったが、幸いにもあの人間は身動きが取れそうな様子はない。もっとも、取れたとしてもこの竜から逃れる術はほぼ皆無なのだが。
 どんな表情を浮かべているのだろうか。恐怖か、絶望か、怒りか、憎しみかーー或いはそれら全てか。ああ楽しみだ。こんなにも心が踊るのはいつ振りだろうか。
 浮かべているであろう愚劣の表情に思いを馳せながら、翼竜は死にかけの獲物の表情を覗き込んでーー自分の感情が歓喜から怒りへと変わったのが分かった。
 疑問だった。
 絶望でも、怒りでも、恐怖でもない。ただ、何故殺すのかと。死の間際に立つ者が見せる特有の色褪せた、しかしこの世界としては決して珍しくない赤い瞳は問いかけてくる。
 たたでさえ面白くないのに、死に掛けの怨敵が見せた表情の変化が更に翼竜の逆鱗を逆撫でする。
 次に浮かべたのは、あろうことか哀れみ。まるで己の死など分かりきった事だと、割り切っているかのように。己を殺す相手に、感情移入してくるのだ。その眼差しは、どこか自由奔放なあまり怪我しないか心配そうに見守っていた、愛しき日の翼竜の母を連想させた。
 プライドの高い翼竜にとって、それは許し難い事だった。下等で脆弱な、それも怨敵以外の何物でもない存在に哀れみをかけられるなど、自らの力と存在に絶対の自信と誇りを持つドラゴンにとって最大の侮辱だった。しかもあろうことか、その視線が彼の母親のそれと重なってしまったというその事実が、余計に腹立しくて仕方なかった。
 何故かような下劣な生き物の眼差しを我が母と重ねなければならない!不愉快だっ、我直々に噛み殺してくれるっ!!
 憎悪に駆られるままに、翼竜は人一人丸呑みに出来る巨大な口を開き、色あせても尚哀れみの視線を向け続ける忌々しい人間を噛み殺そうとしてーー

「グガァッ!?」

 ーー突如として水面が爆発した。いや、爆発ではない。水面から、巨大な何かが飛び出したのだ。
 その証拠に、八丈は下らない巨体を誇る翼竜の右半身が飛び出した何かに噛みつかれ、そのまま地面に投げ飛ばされてしまったのだから。

「貴様っ!!水龍王の身でありながらその下等生物を庇うと言うのか!?」

 森の木々をなぎ倒しながらもすぐさま四つん這いのような格好で体勢を立て直した赤き翼竜は猛り吼え、己が身体に食らいついた挙げ句森林に投げ飛ばした張本人ーー水龍王を恨みがましい視線で睨んだ。
 水龍王。千火が最も良く知る蛇に似た二十二、三丈はありそうな長大な身体を持ち、その全身は魚の腹を思わせる透き通った白銀色の鱗に覆われている。鼻先から一対の長い髭を生やしたその姿は、まさしく千火にとって馴染み深い龍の姿だ。
 だが、その長大な頭部は槍のように尖っており、大部分を占める口に至っては山脈型のようにゴツゴツしたダツのそれと言っても差し支えない。後頭部から後方に掛けて生える角は左右と真ん中の三本と一本多く枝分かれしていない。水中で暮らすことに特化しているのか腕はなく、代わりに頭部からだいぶ離れたところに翼のような巨大な胸ビレが二対生えている。……など、幾つか異なる点はあるが。

「あなた様こそ、この世界に転生してきたばかりの者にこのような手荒い出迎えをするとは何事ですか?」

 そんないかにも獰猛そうな姿とは異なり、糾弾する水龍王の透き通った声は月明かりに照らされたさざ波のように静かな物だった。

「出迎え?ハッ、水龍王たる者が何を腑抜ふぬけた事を!!転生者であろうとなかろうと関係無い!!人間など、我らを滅ぼさんと望む輩にしか過ぎぬ存在!!そのような下劣を殺しはせども庇うなどとはまったくの愚行!!今すぐその死にかけを渡せっ!!そうすれば此度こたびの件、すなわち竜の長たる龍王にあるまじき、人間を助けたなどというふざけた愚行に目をつぶろうぞ!!」

 種族が異なるとは言えども罵詈雑言ばりぞうごんを王を前にして堂々と並べるなど、死にたがり屋としか思えない行動だ。しかし、水龍王はその舐め腐った凶行に対してまったく怒る事なく言葉の意味だけを汲み取り、諭すように言葉を返す。

「まだ分からないのですか?彼女の瞳を見てあなた様も感じ取った筈です。この世界に絶対の平和と安寧をもたらした人間、竜神姫としての器を。命を重んじ、いかなるものであろうとも同情なされる優しき心を持っておられる事を。」
「その上辺だけの人格と力を持ち合わせていると信じたが為に、ファーブニル様は殺されたのだぞ!?たかが一人間の本性を見抜けなかったお前の言葉を信じたがために!!」
「……わたくしとしましても、その言葉に対する言葉は持ち合わせては御座いません」
「ならば何故それだけの仕打ちを受けていながら、お前に生きることを許したデュポン様に感謝のいを捧げずその死にかけを助けようとする!!今一度言おう!!その死にかけを渡せ!渡さねば水龍王に謀反むほんきざしありとーー」
「ですが、その言葉が偽りであろうとなかろうと、あなた様に彼女をお渡しする事は出来ません」

 水龍王はそう言うと、血溜まりに倒れ伏す千火の身体を、箸で豆を挟むように慎重に優しく咥えーー巨大な口の中に入れてしまう。
 それを見過ごす翼竜ではなかったが、しかし動く事が出来なかった。王と名乗る者に相応しい、特異かつ最凶の能力を知っているが故に。

「……貴様、裏切るのだな?我ら竜族を」

 翼竜は問う。先の言葉に偽りはない。
 事実、竜という自然界の頂点に君臨する者達の中でも、水龍王は下等生物に最も肩入れしている。その眷属もまた同類の為、前々より飛龍王デュポンから動向を監視するよう王令が発せられていたのだ。
 そして同時に、水龍王、或いはその眷属が実際に人間を守るために武力行使に出た場合、地龍王ヨルムンガンドと連携を取り水龍王を撃滅するとも。
 こんな同族だとは思いたくもないほど愚か者でも一応は水竜族を束ねる王だ、デュポンからの警告も受けていた筈だろう。

「逆に問わせていただきますが、その竜族を滅亡の寸前まで追いやっていた魔族からわたくし達を助けてくださったのは、いったいどなたに御座いましたか?ほかならぬ、今わたくしたちが争い、下劣などとあなた様が罵られている人々では御座いませんか。確かにあの『裏切りの竜神騎』を竜神騎にしてしまったわたくしに非が御座いますし、ファーブニル様を殺されたあなた様方の気持ちは痛いほどわかります。ですが、人々すべてがかような悪しき存在でないにも関わらず悪と決めつけ殺して回るその行為が、どれほどの悪影響を及ぼしているのか分かっている上で、戦闘行為を続けるあなた様方をこれ以上野放しにしておく訳には参りません。問わせて頂きます。あなた様方は人々、魔族に加えて母なる水を司ることを許されしわたくし達を敵に回し、この世界を崩壊へと導かんとする愚を犯すおつもりに御座いますか?」

 その上で、否とーー人間の女を守るために同族と戦うと言ったのだ。

「愚を犯すもなにもなかろう!!我ら竜族を裏切り、人間に媚びへつらう力ある家畜にならんと欲しているのであれば、それを討つのが竜種としてのせめてもの手向けだ!!母なる水だと?その水を生み出したのはほかならぬ我ら天を司りし飛竜族であろう!!思い上がるも大概にしやがれ!!」
「……左様に御座いますか。承知致しました。……いずれ戦場にて相見えましょうと、デュポン様にお伝えください」

 水龍王はそう言うと、川幅程もありそうな長大な身体を川へと沈めーー少しも水しぶきを上げることなく川底へと姿を消していった。

「すぐにお伝えせねば」

 翼竜もまたその姿を見届けると、巨大な翼をはためかせてどこかへと飛び去っていった。

 



「…………ッ!」

 意識が覚醒するや否や、すぐさま千火は状態を起こし周囲を警戒する。
 翼竜が最後何かに妨害されていたとはいえ、まともに呼吸出来ない時間が長く続いたのだ。加えて、先日同様身体は軽く、怪我の類も一切無く、服もまた同様である。また別の世界へ飛ばされたのだろうと考えるのが自然であろう。
 ……ただ、最初にあの世界に来たときと比べて明確に違う物がある。
 まずは場所だ。洞窟という事に変わりはないが、天井に所々穴が空いているお陰で日が射し込んで非常に明るい。木漏れ日のそれを思わせる優しくも神々しいその光の強さから、申の刻ーー九時頃だろうと予測する。
 さすがに、見とれるなどという愚を二度も犯す千火ではない。
 今いる場所は最奥部らしく、後方にはどこかへと続く道が巨大な口を開けている。対する前方は亀の甲羅のようなーードーム型の広大な場所いっぱいに、以前の世界で見た滝壺とは比べものにならない、小さな海とでも形容できそうな程広大な湖が広がっていた。太陽光に照らされるその湖面の色は、快晴の青空よりも尚蒼い透き通った綺麗な色をしている。が、深さはかなりあるらしく、その下には真っ暗な深淵が広がっている。そんな湖面から突き出る苔むした巨大な岩の数々は、まるで海に浮かぶ小島のようだ。
 そんな場所だからこそ……湖の中心に存在する、一際巨大な岩が目に付いた。
 いや、それはもはやそこら辺から突き出している岩ではない。
 何かの儀式に使われていたのか、やたらとその場所だけ人の手が加えられている。大きさと形を綺麗に整えた漆黒の石が、純白色の正方形をした土台の角に規則正しく積み上げられている。その四角形の巨大な石もまた、山を描くようにーー現代で言えばピラミッドのように積まれている。そしてその頂上には、何か細長い物が突き刺さっているのが見えた。真上から降り注ぐ太陽の光を直接受け、それはどこか神秘的で威厳のある輝きを放っている。

「む?」

 そこから視線を逸らそうとしたところでーー祭壇に続く道のように、千火の目の前には規則正しく並べられた石が顔を出していた。大きさと距離から考えて、千火でも十分に飛び移って向かう事が出来そうだ。しかし、千火は疑問に思う。

「あの祭壇へと続く道、か?しかし、さっき見回した時にはこんな規則正しい石はなかった筈だが……」

 どうも目覚めた当初と比べて石の配置が記憶と一致しない。そう思ってもう一度周囲を見渡して見ると、やはり石の配置が変わっている。どころか、石の様子すらも変化していた。
 島の緑を思わせた苔がなくなり、絵とも文字とも似つかぬ模様が刻まれている。また、小島のように乱雑に突き出ていたそれも、積み重なった石柱の延長線上になるように並べられている。しかも、石柱が一番高く見えるように、壁に近付くにつれて背丈が低くなっている。
 そればかりか、後ろを振り向いてみると大口を開いていた筈の道が、荒削りの巨大な大岩によって塞がれてしまっている。

「……はぁ~。とんでもないところに飛ばされてしまったな」

 明らかに、あの白銀色の長い物が千火を呼んでいる。その証拠に、先ほどから妙にあの長い物体に視線が行ってしまうのだ。
 最初は見た目と怪力の所為で殺され、次の世界では洞窟を抜けた先で木の実にむしゃぶりついてるところを竜にあっさり殺され、今度は山の頂上に鎮座する棒に見入られ逃げられなくなってしまった。
 最初に子ども達にあんな仕打ちをした罰かなと思いつつも、千火は溜め息を零す。

「分かった。今、そちらに向かおう」

 とは言っても嘆いてばかりでは意味がないので、千火は山に続く石の道へと飛び移る。
 その際に自然と視界が湖面に向くのだが、一瞬だけ何やら魚の腹のような美しい純白色の巨大物体が見えたような気がした。

「……何か居るな。もしかすると、あの棒は下にいる何かの力を押さえ込んでいるのかもしれないな」

 そう思いつつも、千火は祭壇に向けて石の道を飛び移る。
 最悪、その何かを目覚めさせたとしても、封印している物体を薙刀や槍の代わりにして戦えなくもない。見たことしかないが、この際に棒術というものを学ぶのも良いかもしれない。水中に逃げ込まれたらそれまでだが、だとしたら誘い出したところを仕留めれば良い。

「……やはり、武器になりうる物があるだけでも、心強いな」

 武器になりうる物があるだけで楽観視してしまう自分に苦笑しつつ、千火は山へとたどり着いた。
 遠くにあった所為もあるが、間近で見るとかなり大きい。積み重ねられた石の一つ一つが千火の身長ほどあり、幅に至っては千火の身長の二倍はありそうだ。その黒い石にもまた、何やら弦植物に似た模様とも文字とも見れる不可思議な物が連続して刻まれている。

「この模様……というより描かれ方から察するに文字か?いずれにしても、これはいったい何を示しているのだろうか」

 もう少しじっくりと見ておきたいところだが、あの細長い棒ーー実際はかなり大きいのだろうが、あれひなんとなくではあるが、『早くこちらに来い』と急かされているような気もしなくもない。これ以上待たせてまた厄介事が起きても困るので、千火は棒のある頂上を目指す事にする。

「……山登りと同じ要領で向かわなければならないのかと思っていたが、親切なものだな」

 そう言う千火の目の前には、規則正しく綺麗に詰まれた純白色の山に走る階段があった。バランスよく中央に配置されており、どこか踏み入るのも躊躇ってしまいそうな程丁寧かつ綺麗に削られている。
 だが、千火は何の躊躇いも無しにそんな天国への階段を思わせるような神々しいそれに足を掛けた。この階段の先に待つあの棒が読んでいるのだ、遠慮する必要などない。
 そうして、現代でいうピラミッドのような山を登り切り、ついにそれと対峙する。

「……これは……っ!!」

 見取れまいと思っていた千火としても、頂上に刺されていた棒の正体を前にしては見惚れざるを得なかった。
 そこに突き刺さっていた物は、槍だった。だが、それは普通の槍ではない。
 太陽光を浴びて金色に輝く台座に刺さった槍の穂先より少し下には、三日月状の幅広の刃が二つ備え付けられている。上下に刃を引き伸ばした幅広の斧の先に槍の穂先をつけた、両斧槍とでも呼ぶべきその刃の色は、白銀色とよく似合う、しかし初めて見る透き通った水色だった。台座で埋まっているものの、その特異な穂先を含めると長さは千火が愛用していた大薙刀とさほど変わらない。遠くから見たときの大きさと比べてまるで比に合わないが、その存在感のある白銀色の柄には、とぐろを巻いた二頭の竜のような模様が刻まれている。そして、その巨大な斧が付いた中心部に、何とも言えない、しかし間違い無く青と断言できる不思議な色をした涙型の宝石が埋め込まれていた。

「…………」

 明らかにこの槍は異常だ。一目見ただけで御神体だと言われても納得出来そうな特異かつ神々しい姿。しかし武器として見れば、刃の輝き方から飛び切り一級の、到底一流の職人であっても鍛えられそうにない超大業物とでも呼べる代物だと一目で分かる。そんな槍が、早く握れと言わんばかりに輝きを放っている。
 その荘厳とも、壮麗とも言える斧槍をしばし時を忘れて見入っていた千火だが、急かすような柄の輝きに眩しさを覚え、反射的に目を瞑る。

「……本当に、私で良いのか?」

 それでようやく正気に戻った千火は、思わずそう問い掛けた。
 千火も村を守るために大勢の人間と戦い、かつより確実に守れるように武の腕を磨いてきた。そんな千火であっても、さすがにこれを握るのは躊躇われた。
 台座に突き刺さった姿だけで、自分の技量が両斧槍が求める技量にまったく達していない事が分かる。武芸者である事に誇りはあれど、それは身の丈にあった得物を使っていたからである。間違っても、このような超大業物、いや、神業物とも呼ぶべき得物の良さを完全に生かしきれる自信はない。武器とは、ただ振るって命を奪うだけの道具ではない。その良さを最大限に引き出し、相手を越える技術で翻弄してようやく命を奪うまでに至る、それが武器と言うものだ。
 千火の武人としての本能はハッキリと言っている。これは自分如きが使って良い代物では決してないと。
 だが、それでも。

「……いや、お前が私を使い手として望んだのであれば、何も言うまい。お前の使い手として相応しい者となれるよう精進するゆえ、長い付き合いの程、宜しく頼む」

 この両斧槍はその自分如きを使い手として選んだのだ。ならば、この神業物の使い手として相応しい技量を身につけるまで。
 両斧槍の前でそう誓いを立て、千火はとぐろを巻く二頭の竜が描かれた白銀色の柄を右手で握った。
 直後。

「ぐッ!?」

 握った手そのものが凍りついてしまったかのような激痛の伴う冷たさが伝わり、その手を通して膨大な量の何かが全身を乱暴にのたうち回りながら入ってくるのを、千火は劇痛という形で感じ取った。
 両斧槍を掴む手が凍っていないのは間違いない。だというのに、慌てて離そうとした手は、本当に凍りついてしまったかのようにくっついたまピクリとも動かす事が出来ない。そのくせ手からのたうち回る勢いそのままに、引き裂くような痛みを与えながら入ってくるそれは、流動する極寒の液体のような代物である。が、しかし本当に全身を引き裂いている訳ではない。目に見えない液体状の何かは、体内に張り巡らされた血液と混じり合うような、おぞましい嫌悪感と寒気を千火の全身を駆け巡った。

「……っつぅ……くぅっ……!!」

 嫌悪感と劇痛と異常な寒気が混ざり合った不快感に、千火は絶叫しそうになる喉を必死に鳴らすまいと口を閉じて耐える。千火が使えるあの怪力と同じ、叫んでしまえばそのまま気が狂ってしまいそうな嫌な感覚を覚えたからだ。そんな千火を嘲笑うかのように、液体状の何かは頭や心臓、肺などの生ける上で必要不可欠な臓器の中にすら入り込み、暴虐の限りを尽くす。それでも千火は必死に耐え続けられたのは、皮肉にも自分の持つ怪力を使った際の反動によってつちかった強烈な精神力と、痛みに強い肉体のおかげだった。
 どれほどの時間が経っただろうか。
 散々暴れ回っていた異様な冷たさを誇る液体状の何かは千火の血液にすっかり馴染み、今までとさほど変わらない自然な物へと変わっていた。

「……はぁ……はぁ……はぁ……」

 それでも全身の痛みの余熱で、千火はしばらく片膝を着いたままうずくまっていた。

「……耐えきったぞ、両斧槍……っ!!」

 身体が軽くなってきた所で、千火は柄を握る手に力を込めて杖代わりに立ち上がると、台座から両斧槍を両手で持ち、全力で引き抜いた。……のだが、

「なっ!?」

 そんな重量感のある見た目からは想像も出来ない、棒切れのような軽さだった。拍子抜けする程の軽さに驚き、体制を立て直す間もなく引き抜いた勢いそのままに千火は尻餅を着いてしまう。

「……いつつっ。……まったく、驚かせてくれるな。こんなに軽いとは思わなかったぞ」

 ジンジンと痛むお尻に顔をしかめつつ、引き抜いた両斧槍を杖代わりに立ち上がる。そして、空いた手で尻に付いた土埃を払いながら、改めて引き抜いた両斧槍の姿を見た。
 鋭く尖った穂先は、刃と同じ透き通った水色をしている。しかしながら、両脇に備え付けられた斧の先端もまた穂先に負けず劣らずの鋭さを誇っており、こちらも刺突として使うには充分な代物だ。また、この穂先や刃にもまた、石柱に刻まれた文字のような黒い模様が刻まれている。十文字槍と似たような造りをしているのだなと思いつつ、千火は棒のように軽い両斧槍を試しに右腕一つで振るってみる。ビュンッ!!という空気を斬り裂く獰猛な音が、振るわれる事に喜ぶ両斧槍の声に聞こえてまうのは、気のせいだろうか。

「………これだけ軽いと、本当に斬れるか、貫けるかどうか、心配になってくるな。とは言え、こいつを試すのに丁度良いものは見当たらないしな……。この洞窟を抜けた先で生き物を狩るか、木を刈り取るか何かするときに試させてもらおうか」

 そう言って頂上から降りようと台座に背を向けたーーその時だった。
 洞窟内に、その威圧だけで人を軽々と殺せそうな程強烈な殺気が充満したのは。前の世界で戦った翼竜のそれが可愛く思える威圧を洞窟内に放った元凶は、出所から察するに湖底にいるようだ。

「……ふっ、本当に私は凄いな」

 以前のように固まるかもしれないと思っていた千火であったが、驚いた事に自然体を保てている。威圧感は以前の比ではないのだというのに、神業物とも呼ぶべき得物を片手に握っている。たったそれだけでこうも自然体を保てる物かと自分でも疑問に思えてしまう。或いは、先の劇痛の時に入り込んできた何かが、千火の心と身体を鎮めているのだろうか。
 いずれにしても、以前のように何も出来ぬまま殺されると言うことはない。相手が水中にいるのは間違いないが、肉弾戦を仕掛ける時は必ず顔を出す。まずは肉弾戦を仕掛けさせるよう誘い、乗ってきた所を受け流すなり避けるなりして攻撃を捌き、反撃の一撃をくれてやるのが上策だろう。

(とは言え足場になるうるのは、この祭壇と周囲に点在する石だけだ。石の上で戦うには、足場が狭すぎる。存分に戦う事が出来るこの祭壇が崩されれば終わりだ。易々と崩されないようにするためには、相手の攻撃をなるべく祭壇に当てさせないようにする必要がある。となると、あの石の足場を使って攻撃をなるべくばらつかせるのが上策。……しかしな、距離はあの力を使って届くかどうかの瀬戸際だしな。今の状態であの力を使うとどうなるか分からないのが痛い所だが、それでも、やるだけやってみるしかないな)

 そうして作戦をある程度頭の中で組み立ている所で、元凶が湖面に近付いて来ているのを感じ取った。それと同時に、深く透き通った青い湖面がたちどころにボコボコと泡立ち、チラリ、チラリと、元凶の姿ーー白銀色に輝く蛇のような長大な身体を何度も映し出す。

「……来いっ!!」

 石を飛び移っている時に見えた白銀色のあれが元凶か、と千火は石突きを正面に向け、穂先を足下へと流した構えーー脇構えの構えを取る。構え方は薙刀のそれだが、最も変化に応じて柔軟に攻撃を放てる構えであり、千火が最も得意とする構え方だ。
 そんな千火の構えを待っていたかのように、強烈な威圧感を放ち続ける白銀の巨影はついに湖面を割って姿を現した。
 ゴツゴツとした山脈のような、しかし槍のように鋭く尖った長い口。後頭部に生える巨大な三本の角。太く長い首の下に生えた、水色の膜が張られた翼のような巨大な二対のヒレ。神々しくも美しい龍の姿だが、千火はそれに感銘を抱く事なくキッと赤い瞳で龍の蒼い瞳を見据える。勿論、なぜこの竜が姿を現したかの理由を探るためだ。
 見据える千火の姿を鏡のように映すその巨大な瞳に映る感情は、興味。それも、何か大事な物をしっかりと品定めするような厳しくも期待の籠もった強い眼差しだった。

「……私がこの両斧槍の使い手として真に相応しいかどうか、確認しに来たと言うわけか?」

 前の世界で殺された翼竜とは異なり、理性を感じさせる瞳を見て千火は問い掛けてみる。すると、千火の言葉が通じたかのように、白銀色の竜はその長い首を縦に振ってみせた。

「私の言葉が分かるのだな。……なら、名乗らなければならないな」

 言葉が通じた事実に関心しながらも、千火は己の名を名乗る。

「私の名は辰巳神千火と言う。訳あってここに飛ばされた者だが、この両斧槍が私を呼んでいるような気がしたため手にとった次第だ。……審判者よ。どうか私がこの両斧槍を使う者に相応しいか否か、この勝負を以てして決して欲しい。よろしくお願い致す」

 言葉が通じるならばと、千火は武人としての礼儀を示すべくとして頭を下げる。
 やはりこの龍は千火の言葉を完全に理解しているらしい。そんな千火の行動を見て、龍もまた低い鳴き声で軽く吼え、千火同様に頭を下げてみせた。

「…………いざ、尋常にっ」

 千火のその言葉を合図に、水竜は襲いかかった。

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