Milk Puzzle

巫夏希

03: Backup Memory

「ミルクパズル症候群。ということはそれは」
「はい。これはわたしのBMI端子です」


彼女ははっきりとそう告げた。
しかしその様子に悲しんでいる様子は見られない。まるで彼女自身の運命を受け入れているようにも思えた。
わたしは期待と疑心を織り交ぜたような複雑な感情を抱いていた。
ミルクパズル症候群を研究したことは無いが、決して情報を仕入れていないわけではない。それについてはわたしだけではなく、この世界の人間が一番関心を持っていることだといえるだろう。
しかし、今の世界では科学的根拠に基づかない予防法が、主にマスメディアによって流布されていることも事実だ。例えば、毎日八時間以上睡眠をとると良いとか、ある野菜を摂取すれば良いとか、その方法は様々だ。
そう言った嘘がまるでほんとうのように説明されてしまうと、人々はそれが真実であると考えてしまう。言霊の力とは恐ろしいものだ――そう考える学者も多い。
そういえば昔『言霊』について研究していた時代もあった。とはいえ、学生の卒業研究レベルだったが、それによってある程度浅く広く知識を蓄えることが出来た。
そして、それによって仕入れた知識の中に、ある言葉のリズムが人の意識に入り――それが人の活動に何らかの影響を及ぼすというシステムがある。その文法を研究している学者も居るが、難解な言語の構造から一つの新たな文法を作り出すことが難しいらしい。結果的にそれを悪用してしまうと様々な犯罪を引き起こす可能性があるということから、その学問を研究しないことを暗黙の了解とするルールが徐々に世界的に広まっていった。


「……先生、わたしの話を聞いていましたか」


信楽くんの言葉を聞いてわたしは我に返る。


「ああ、聞いているよ。それで、君は何がしたい」


ソファに背中を預けて、わたしは質問した。


「だから、何度も言いましたが、わたしは……ミルクパズル症候群に罹患しています。これは絶対に治療出来ない病です。発症が確認されたら、早急に記憶のバックアップを取って、記憶が完全に消える前にバックアップを使用して元の状態に戻す。その場合、バックアップしてからの記憶が完全に消失することになりますが、これが現在唯一の治療法になる。それは、先生もご存知ですよね」


わたしは彼女の言葉に頷いた。


「ミルクパズル症候群は治療法がそれしか無い。だから、わたしも家族からそれを進言されました。だから、BMI端子を埋め込む手術を受けて、バックアップを取りました。大学で勉強をしている間にもわたしの記憶は消えていく。いつやってくるか分からないタイムリミットを、わたしはおびえて待つことしか出来ないのです」
「……それは、ミルクパズル症候群の患者が言っていることだ。確か、そのような研究データも残されている」
「ミルクパズル症候群は治療出来ない。脳が一枚のミルクパズルになる前に、バックアップで塗り潰さないといけない。けれど、わたしはあるとき思ったんです。……それって、ほんとうにわたしなのか、って」
「……どういうことかね。自己同一性は認められているはずだが」
「そういうことでは無いんです。問題は、わたしがわたしであることは、記憶を上書きされても問題ないのか……ということなんです」


記憶のバックアップ。それは確かに一つの問題として提起されていることもある。
とどのつまり、記憶のバックアップを取ると、そこで自分が二人に分かれるのではないか――そう考えている人間も多いということだ。


「わたしの考えを言わせてもらうと」


ここは彼女の気持ちを落ち着ける必要があるだろう。そう思ってわたしは話を始める。


「君の記憶は、流動性だと考えられる。とどのつまり、記憶は不変では無いということだ。常に記憶は変化を遂げていき、脳の保存容量は無限大とも言われている。ということは記憶は変わらない、なんてことは誰だって有り得ないということになる」
「でも、それは一つの記憶に限った話ですよね。わたしが言っていることは、ある時点で二つの記憶が存在すること……。それは、ほんとうに『わたし』だと証明出来るのか。それが、わたしの考えている問題なんです」

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