オモテ男子とウラ彼女

葉之和駆刃

第七十七話 『銃弾』

 ヒカルはヒカリを連れて、歩道橋の下に隠れた。あれから、どれほどの距離を走ったのだろうか。周りを警戒したが、誰も追ってこない。どうやら逃げ切れたようだ。ヒカルは安堵し、その場に腰を下ろす。ヒカリを見ると、彼女もとても息が上がっているようだ。長時間走り続けたのだ、無理もないだろう。

 ヒカルは、夏希のことを思い出した。彼女は、二人を守るために怪我を負ってしまった。無事に救急車は着いただろうか。ヒカルは彼女を置き去りにしたことで、強い自責の念に駆られていた。
 夏希に何もしてあげられなかった自分が、酷くもどかしかった。するとヒカリもヒカルの隣に腰を下ろし、肩に寄りかかってきた。ヒカルは、彼女が自分を元気づけようとしているのだと悟った。そしてヒカルは、ヒカリの手を握った。ずっと走り続けていたせいか、手には汗が滲んでおり、とても熱かった。

「大丈夫か?」

 ヒカルはヒカリに声をかけると、彼女は小さく頷いた。そこでヒカルは、息を整えた。白い吐息が宙に舞い上がっては消える。一月の夜は身が凍えるほどの寒さだ。走った直後で今は大丈夫だが、汗が乾くと風邪を引いてしまいそうだ。

 ヒカルは携帯を取り出し、画面を開いた。今頃、良は起きているだろうか。現在の時間は、午前四時前。学生と言っても、流石に寝ているだろう。迷惑かと思いつつも、ヒカルは援助を頼もうと良に電話をかけてみることにした。しかし、やはり出なかった。結果はわかっていたが、今のヒカルには誰かに頼ることしか出来なかったのだ。そんな自分に、ヒカルは嫌気が差した。

(なんで……こんな目に……)

 やはり、自分の人生は初めから詰んでいたのか。そんなことが脳の奥に現れては、儚く消えていく。そんなヒカルを心配してくれたのか、今度はヒカリが声をかけてきた。

「大丈夫だよ、きっと何とかなるから」

 ヒカルが隣を見ると、彼女は笑った。このような事態においても、楽観的に考えられるヒカリをヒカルは羨ましく思った。しかし、ヒカルにはわかった。彼女も不安でならないのだと。プラスに考えることによって、少しでも不安を和らげようとしているのだろう。するとヒカリが、突然ヒカルに抱きついてきた。

「ずっと一緒だよ……ヒカ君……」

 ヒカルは、そう言う彼女を精一杯抱きしめる。熱い液体が自然と自分の頬を伝っていることに、ヒカルはこの時気がついた。もしも彼女がいてくれなかったら、今頃自分は何をしていたのだろう。生きることに望みを失い、もしかするとここにはいないかもしれない。彼女が、自分に生きる望みを与えてくれたのだ。何があっても、側にいてくれる。そんな当たり前が、時にはかけがえないものになり得るのだ。ヒカルは、改めてそのことを実感出来たような気がした。

 ……いつまでもここにいるわけにはいかない。ヒカルは決心して立ち上がると、ヒカリに手を差し延べた。

「……行こう」

 それを見たヒカリも笑顔で頷き、ヒカルの手をとると立ち上がった。それとほぼ同時に、どこからか複数の足音が聞こえてくるのがわかった。スミスたちが来たのだ、とヒカルは直感的に思った。

「走れるか?」
「うん!」

 ヒカルはヒカリの手を引いて、再び走り出した。後ろをふり返ってみると、思った通りスミスが複数の男たちを引き連れて二人を追ってきている。

 ヒカルはまた彼女を連れて狭い路地に飛び込み、スミスたちから逃げ切ることを試みた。ヒカルの予想通り、男たちは二人を見失ってしまったように追ってこなかった。その隙に、近くのビルに逃げ込むことにした。ヒカルは前方を指さし、朝まであそこで過ごそう――とヒカリに目で合図を送る。彼女は少し不安げな顔をしたが、ヒカルを信じて頷いた。
 廃墟ビルなのか、古びたコンクリートであっさり入ることが出来た。二人は階段を上り、屋上を目指した。敵に見つかったら逃げ場はないが、スミスたちもまさかこんなところにいるとは思わないはずだ。とにかく太陽が昇るまでは、ここに身を置くしかないと思えた。ここは一見して五階建ての雑居ビルであり、ところどころアスファルトが崩れ落ちている。それだけ見ても、やはり廃墟なのだということがわかる。

 ヒカルが屋上の扉を開けるとそこには何もなく、ただ広々とした空間が広がっているだけであった。東京の夜景がよく見える。ヒカリは手摺りのところに行くと手をかけ、そこから見える夜景を見つめている。それを見たヒカルは、ふとあの日のことを思い出した。ヒカリとデートに行った日の夜、彼女と一緒に夜景スポットから夜景を見た。たった一月前の出来事が、ヒカルには懐かしく思えた。そしてヒカルもヒカリの横に立ち、同じように夜景を望んだ。

「前にも見たよね、こんな景色」

 不意に、ヒカリが言った。彼女も覚えていたのだ。ヒカルは今まで忘れていたが、あの時のことを思い出すだけで幸せな気分になれる気がした。そして今見えている景色は何故か、あの日よりも澄んで見えた。

「ヒカ君、覚えてる? 初めてデートした時、私に夜景を見せてくれたこと」

 忘れるはずがない、とヒカルは心の中で答えた。確かに、ここに来るまでは忘れかけていたが、それは思い出す余裕すらなかったからだ。

「……覚えてる。あの時のお前の顔も。だから……俺は、お前をもっと幸せにしたいって思えたんだ」

 ふと彼女の顔を見ると、少し顔を赤らめさせている。それが子供のような無邪気な顔にも見え、ヒカルも微笑した。そして、彼女と手をつないだ。ビルの灯りや街灯の灯りが、二人の将来を心配しているかのように、チカチカと東京の街を照らし続けている。

 数分が経過した時、ヒカルが着ているフードのポケットに入っていた携帯が突然鳴った。ヒカルは慌てて、それを取り出して名前を確認した。良からだった。きっと履歴を見て、かけてきているのだろう。

「ごめん、ちょっとだけここで待っててくれるか?」

 ヒカルは、ヒカリを見て言った。

「いいよ」

 彼女が言うと、ヒカルは携帯を片手に屋上から建物の中に入り、階段を下りた。出入口の前まで戻ってくると、ヒカルは通話ボタンを押し、電話に出た。

「もしもし……?」

 ヒカルが小声で話すと、良の声が返ってきた。

「おう、ヒカルか。どうした、今日出発だっけ」

 良は、ノー天気に話してくる。やはり、何も知らないようだ。ヒカルは少々辟易したが、良にすべてを話すことにした。今、夢現法人ハピネスの人間数人に追われていること、自分か彼女のどちらかが消えると絡まった世界線が元に戻ること、それらを簡潔に教えた。それを聞いた良は、

「何だよ! 無茶苦茶だな! お前、今どこにいるんだ?」

 と、電話越しに大声を出した。それは驚いているというより、怒りに近かった。ヒカルは、ビルの名前が書かれている場所を探した。周りを警戒しながら外に出てみると、入口付近のコンクリートに、ビルの名前があった。
 それを、ヒカルは良に伝えた。良は、すぐそこに向かうと言ってくる。しかしヒカルは、また夏希のことを思い出した。今度は、良までも巻き込んでしまうのではないか。そんな感情に支配され、素直には頷けなかった。

「ごめん……、これは俺とヒカリの問題なんだ……。だから、お前は来なくていい……」
「バカ! 何言ってるんだ、俺はお前らを救いたいだけなんだ! お前が何を言おうと、絶対そこに行くからな!」

 良がそう言った瞬間、通話は切れた。ヒカルも携帯をポケットに仕舞った。良は、必ずここに来るだろう。しかし、その後はどうするつもりなのだろう。何か、良い作戦でも用意してくれているのだろうか。ヒカルはそんなことを思いながら、空を見上げた。星一つない。月も、今日は出ていないようだ。ヒカルはまた、自然と溜息を漏らした。すると、また白い息が夜空に舞い上がる。風が冷たい。夜が明けるまで、あと二時間ほどだろうか。ヒカルは、彼女のいる屋上に戻ろうとビルの方に身体を向けた。その時――。

「あ、あそこにいたぞ!」

 という男の声。ヒカルはそれを聞いて一発で理解し、ビルの中に駆け込むと急いで階段を駆け上がった。ヒカリを連れて、また逃げなければならない。後ろから、不揃いな足音たち。階段を走りながら、ヒカルは自分を追ってきているのだとわかった。

 屋上に出ると、ヒカリが手摺りの前から動かずにヒカルが戻ってくるのを待っていた。そこまで走っていくと、ヒカルは彼女の手を握った。

「逃げるぞ!」
「……えっ?」

 ヒカリは困惑しているようだ。その時、屋上の扉が勢いよく開かれ、中から十人余りの男が姿を現した。そして、瞬く間に二人を取り囲んでしまった。数人の男たちの間から、一人の男が出てきた。スミスだった。

「もう逃げられませんよ。随分と手こずらせてくれましたが、もうこれでお終いです」

 スミスがニヤリと笑った。ヒカルは、ヒカリに自分の後ろに隠れるように言った。言われた通り、彼女はヒカルの後ろに隠れた。そして、ヒカルは数歩前に進み出た。スミスは、ヒカルに銃を向ける。ヒカルは、この時こう思った。自分が死ねば――彼女を救えると。自分が今、しなければならないことは彼女を守ること――それしかないのだから。覚悟を決めたように、ヒカルは目を閉じる。

「……潔い覚悟ですね。貴方が初めからその子を我々に手渡していたら、こんなことにはならなかったのですよ」

 スミスの言葉を聞き、ヒカルは目を開けて彼に尋ねた。

「一つだけ、確認したい。俺がこの世界からいなくなれば、ヒカリは助かるんだよな?」
「ええ、勿論ですとも。それでは――」

 スミスは銃の安全レバーを下ろし、引き金を引く。

 もうすぐ終わる――すべてが終わる――。しかしそれは、ヒカル自身が決めた道であった。
 彼女を幸せにするという約束は、結局果たすことが出来なかった。それも、今となっては仕方ないように思えた。自分が撃たれれば、彼女は傷つかずに済む。そう信じて――。
 しかしその時、彼女が思わぬ行動に出たのだ。スミスが引き金を引くと同時に、ヒカリがヒカルの前に立った。次の瞬間、銃声とともにヒカリの腹部から血が飛び散るのが見えた。この時、ヒカルには何が起きたのか読めなかった。ヒカリが倒れるとすぐ、ヒカルは彼女に駆け寄った。何故、こんなことになってしまったのか。ヒカルは、前にいるスミスたちを睨んだ。

「おや、これは予想外の展開ですね。まあ、どちらかがいなくなれば良いだけですので、結果オーライというわけですけどね」

 どこまで卑劣な男なのだ、とヒカルの怒りは今にも頂点に達しそうになる。その時、

「ヒカ君……もう大丈夫だよ……」

 という声がした。彼女が――ヒカリが、ヒカルに話しかけてきているのだ。ヒカリは、朦朧とした意識の中でヒカルに向けて言葉を継いだ。

「元々、ここはヒカ君だけが生きていた世界……。私が生き残っちゃ……駄目だったんだよ……。だから……、ヒカ君、生きて……」

 ヒカルの目から、熱い涙が零れ落ちる。彼女を守れなかった、彼女を幸せにすることが出来なかった! その思いが、次々に溢れ出してくる。こんな結末は望んでいなかった、自分が、もっと強ければ良かったのだ。そしてヒカルは彼女を抱きかかえると、そのまま自らの後ろに背負った。そして、スミスたちに背を向け、屋上の手摺に向けて歩き始めた。

(俺が、こいつを守らなければ――)

 ヒカルは手摺りに片足をかけると、もう片方の足で弾みをつけてそこから飛び降りた。

(まだ、やれることがあるはずだ!)

 ヒカルは、ヒカリを背負った状態で地面に着地し、そのまま走り出した。ビルとビルの隙間を走り、彼女の手当てが出来る場所を探した。

 ――まだ、終わらせたくない。ヒカルの思いは、この街の灯りよりも強かった。

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