オモテ男子とウラ彼女

葉之和駆刃

第七十四話 『逃亡』

 ヒカルは道路橋の下で、しばらくヒカリと休んだ。今のところ、誰も追って来る様子はない。今のうちに、ヒカルは手元の携帯で近くに二十四時間営業の店がないか検索した。取り敢えず彼女とそこに逃げ込めば、安全は確保出来るだろう。この後のことも、そこで決めれば良い。ヒカリは隣に座り込み、白い息を荒く吐いている。その時、やはり自分には彼女を幸せには出来ないかもしれないという感情が、ヒカルの脳髄を過ぎった。しかし、この状態では諦めるに諦めきれない。今はただ、隠れる場所を探すしか今は他に選択肢はないのだ。

 ヒカルが携帯で探していると、一件のカフェを見つけた。営業時間を見ると、深夜でも普通にやっているようだ。地図によるとその店は、ここから約一キロの場所にあるという。ヒカルは、彼女に声をかけた。

「なあ、ヒカリ。立てるか? ここから一キロ先にカフェがあるみたいだから、そこまで歩いてくれると助かるんだけど……」

 すると、ヒカリは笑顔で頷いた。二人は立ち上がり、そこからそのカフェを目指して歩き始める。ヒカルは彼女と手を繋ぎ、周りを気にしながら歩いた。銃を向けてきたあの男たちは、ハピネスに雇われているのだろうか。あの中に、確かにシンジ・スミスもいた。あの時の黒岩の話をそのまま解釈すると、ヒカルかヒカリのどちらかがこの世界から消えれば収束した二つの世界線が元に戻るのだという。それにしても、あの時黒岩は何故自分たちを逃がしてくれたのだろうか。その疑問だけが、ヒカルは未だに処理しきれずにいた。

 二人が河川敷をと歩いていると、上の方の道路からこんな声が聞こえてきた。

「ほんとに、こっちで合ってるんすか?」
「あぁ。確かにここで、発信機の反応は止まった。必ず、この近くにいるはずだ。一刻も早く見つけて、あいつらを会長に差し出さなければ」
「それにしても、黒岩さんもお人好しっすね。あんなのを逃がしちゃうなんてさ。所詮、生末なんて一緒なのに」
「まあ、あの人も会長の計画に背いたわけだし、解雇は免れないだろうけどな」

 二人は下の塀に張りつくようにしゃがみ込み、その内容をただ聞いていた。間違いない、あれはハピネスの人間だとヒカルにはわかった。やがて声が遠ざかっていくのを確認し、二人は再び立ち上がった。またヒカルは、ヒカリの手を引いて離れないように歩き出した。

「ヒカ君……」

 不安そうなヒカリの声。それでも、ヒカルは弱気な自分を見せるわけにはいかなかった。少しでも、彼女を安心させたかったのだ。

「わかってる。けど、大丈夫だ。店に着いたら、しばらくいさせてもらえるように頼んでみるから」

 ヒカルはふり返ると、彼女に向かって笑みを浮かべた。それを見ると、ヒカリにも少し笑顔が戻ったような気がした。
 ただ、あの二人が言っていた言葉がヒカルは少々気になっていた。一人が「発信機」という単語を使っていた。まさかと思ったヒカルは、肩から下げていたコートに何か怪しいものがついていないか、隈なく探した。しかし、どこにもそれらしいものは見当たらない。
 その時、

「いたぞー!」

 という声が遠くから聞こえた。ふり返ると、スーツを着た男が三人ほどこちらに向けて走ってくるのが見えた。ヒカルは咄嗟に彼女の手を引き、そのまま走り出した。川の横の階段を駆け上がり、道路に出るとヒカルはまた彼女を連れて全速力で駆け出す。河川敷は足元が石だらけで走りにくかったが、舗装された道路に出てしまえば今まで以上の速さで走ることも可能だった。
 ヒカルはふり向いて後ろのヒカリを見ると、

「大丈夫だ、あと少しで着くから!」

 と、声をかけた。それを聞いて彼女も頷くが、どうやら限界に近いとヒカルは判断した。そして急遽予定を変更し、咄嗟に路地裏に回った。そうすることで、敵を巻こうと考えたのだ。ヒカルは彼女を連れて狭い路地に逃げ込むと、そのまま突っ切った。

 しばらく進んだ後、一旦足を止めてふり返ったがもう誰も追ってはこなかった。その後、信号が明々と灯る交差点に出たが、ヒカルは左右を警戒して追手がいないことを確認した。それから彼女を連れて、例のカフェまで急いだ。

 携帯を確認すると、すぐ近くにあるようだ。何とか、敵に捕まらずに着くことが出来たとヒカルは安心する。カフェの名前は、「セシャピ」というらしい。戸を開けると、深夜ということもあってか、中はガランとしていて人の気配が感じられない。
 ヒカルは、ヒカリを適当に中央の席に座らせた。いつ敵が乗り込んできても逃げられるように、奥の席はなるべく避けようと判断したのだ。そこに、奥から店員が水を持ってきた。ヒカルと同じ年くらいの、若い女であった。

「どうぞ」

 その女は華奢な声で言い、テーブルに水を二つ置いた。ヒカルは、その声に反応した。どこかで聞いたことのある声――以前、何度も聞いた声だった。何故か、そんな気がしたのだ。ヒカルは気になり、その女を見上げると彼女と目が合った。

「夏希……?」

 ヒカルの高校時代の初恋の相手、高田夏希。彼女にそっくりだったのだ。彼女もまた、ヒカルを見て目を驚かせている。恐らく、人違いではないのだろう、とヒカルは確信した。

「ご、ご注文は……」

 夏希は少々気まずそうにしながら、ヒカルに質問を投げかける。ヒカルも我に返り、適当にホットコーヒーを二つ注文した。夏希は軽く会釈をすると、下がっていった。ヒカルは、その夏希の後ろ姿が何故か気になった。高校の時の同級生に、こんな場所で会うなど誰が予想出来ただろうか。

 夏希とは高校三年生の時に同じクラスで、ヒカルの初恋の相手だったのだ。他の女子と比べて顔立ちが良く、クラスの男子全員が彼女に恋していたと言っても過言ではなかった。ヒカルもまた、彼女の魅力に取りつかれていた。しかし、なかなか勇気が出ずに告白が遅れたせいで、親友の雪也に抜け駆けされてしまったのだ。それがヒカルにとってトラウマとなり、それ以来、恋愛に対して億劫になっていった。思えば、このような結果になってしまった一因を作ったのは、夏希かもしれないとヒカルは心の中で自嘲した。

 一方、ヒカリを見るとヒカルの背面にある窓ガラスをぼうっと眺めている。このカフェは大きな交差点の前に位置しており、少々目立つのではないかと思ったが、外にいるよりは幾分ましだろうと連れてきたのだ。

 しばらくして、夏希が二つのコーヒーを運んできた。

「ミルクとシロップは自由にお入れください」

 テーブルに置くと、また夏希は一礼して下がっていこうとした。その時、夏希を見てヒカルは反射的に立ち上がって声をかけた。

「あ、あの……!」

 夏希は立ち止まると、ヒカルの方をふり向いた。ヒカリも、二人のことを交互に見つめている。そして、ヒカルは思い切って夏希に尋ねてみた。

「俺のこと……、覚えてるか?」

 その質問に、夏希は僅かながら頷く。すると、ヒカルも安心した。そして朝方までここにいさせてくれるように頼むついでに、彼女と話がしたいとヒカルは思った。

「ちょっと、話がしたいんだけど……今空いてるか?」

 夏希は、また黙って頷いた。ヒカルはヒカリに「すぐに戻る」とだけ告げ、夏希と一緒にレジの前まで行った。そこで、ヒカルは夏希から色々と事情を聞いた。母親が大病に罹り、大学に行けなくなったこと。溜めた資金を実家に仕送りするため、東京に働きに出てきていること。最近、つき合っていた彼と別れたこと……。
 最後の問題はヒカルにとっては非常にどうでも良く思われたが、夏希は悲しそうに話した。余ほど精神的に堪えたのだろう、とヒカルは少し同情した。すると、俯いたまま話していた夏希が、突然顔を上げて言った。

「私、まだ君に許してもらえると思っていなくて……」
「何の話だ?」

 ヒカルはそれが何のことだか考える間もなく理解したが、一応きいてみる。

「君の気持ちを知っていたのに、斎藤君とつき合い始めたこと。私、きっと罰が当たったんだよね。だから、前につき合ってた彼とも長く続かなかったんだと思う。今更、許しを請うなんて変だけど……でも折角こうしてまた会えたから、その……伝えておきたくて。……ごめんなさい」

 夏希は、ヒカルに深々と頭を下げる。今更、何故謝るのかヒカルには理解出来なかった。しかし、彼女の背中は小刻みに震えていた。それを見て、ヒカルは思った。彼女は、本気なのだと。しかし、やはり今更という気持ちがどうしてもヒカルの中から消えなかった。

「なんで、そんなこと……。もう、二年以上も前の話だぞ?」
「……わかってる。でも、私ずっと後悔してたの」

 夏希は、突然顔を上げた。やはり、彼女の両目には涙が潤んでいた。

「ずっと……、言えなかった。私……あの時、どうしていいかわからなかった。私が本当に好きなのは……斎藤君じゃなくて……君なんだって、言えなかった!!」

 夏希は、とうとう涙を零した。ヒカルは今何を言われているのか、咄嗟には理解が追いつかなかった。しかし、彼女の顔を見るとやはり冗談を言っているようには見えない。ただ、戸惑うばかりだった。その時、急に夏希がヒカルに抱きついてきたのだ。ヒカルは、頭の中が混乱しそうになるのを何とか堪えた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 確かに、そうはっきりと聞こえた。その彼女の行動は、ヒカルにとっては元彼への当てつけのようにも感じられた。しかしヒカルの中には、今更自分とつき合っても夏希には何のメリットもない、彼女を関係のない事件に巻き込んでしまうだけだという気持ちがあった。

「俺……雪也とは和解したから。けど、今更そんなこと言われても……なんて答えていいのかわからねえよ」

 ヒカルは、せめて自分の思いだけでも伝えようと、夏希に話しかける。しかし夏希は、こう言うのだった。

「でも、ずっと私の心残りだった。君がちゃんと自分の気持ちを伝えてくれたのに、私、その気持ちを受け止められなかった。今でも思うの……なんであんなこと言っちゃったんだろうなって。あの時の私、少しおかしくなってたみたい」

 なかなか離れてくれない夏希に、ヒカルは少し嫌悪を覚えた。すると、少しずつ足音のような音が聞こえてくるのがわかった。ヒカルは横に目をやると、そこにヒカリが立っていた。ヒカルがなかなか戻って来ないため、様子を見に来たのだろうか。夏希もそれに気づいたのか、ヒカルに抱きついたままふり向き、ヒカリと目が合った。その一瞬で、険悪な空気に店は包まれていった。

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