オモテ男子とウラ彼女

葉之和駆刃

第四十五話 『名前』

 東京の深夜、人気のない路地をヒカルは歩いていた。後ろから、ジャリッと地面を踏む音とともに、彼女がついてくる。これからどうしようかという気持ちよりも、彼女とどう接していけば良いのかという不安の方がやや強かった。不安と焦り、それが交互に現れ、ヒカルの脳を支配していく。

 ヒカルは足を止め、後ろをふり返った。彼女は、俯きながらこちらに歩いてくる。彼女は、ヒカルが止まったことに気づいていないらしい。このままでは、ぶつかってしまう。ヒカルは、思いきって彼女に声をかけてみることにした。彼女もまた、同じヒカルなのだから、それくらいのことを躊躇っているようでは、これから先が思い遣られる。

「あ……、あのさ……」

 ヒカルの声を聞いてようやく、彼女はヒカルが止まっていることに気づく。彼女は無言のまま、まっすぐな視線をヒカルに送ってくる。半年以上、同じ顔を鏡で何度も見てきたが、それが目の前にあると逆に違和感を覚えてしまう。それだけ、ヒカルにとってあの半年間は大きかったのだ。
 ヒカルは、次に何を話したら良いかわからなくなった。話しかけてみたは良いが、次の話題が思いつかない。最初に考えておくべきだったと後悔しつつ、何かないかと頭をフル回転させる。そして、一つ思いついた。それは、彼女の名前についてだ。名前が同じ「ヒカル」だと、呼ぶ時に紛らわしい。だから彼女がこの世界にいる間、彼女の呼び名を変えようと思ったのだ。

「き、君って、別世界の俺なんだよな? だったら、名前一緒じゃん。だから、君がこの世界にいる間、呼び方変えようと思うんだけど、どうかな」

 ヒカルは勇気を振り絞って話を振ってみるが、彼女は無言だ。ヒカルの額から、冷汗が出ている。ヒカルは、こんな風に異性に話しかけたことはほとんどない。初めての経験に、ヒカル自身が一番困惑していたのかもしれない。
 何も答えない彼女に、ヒカルは言った。

「じゃ、じゃあ……ヒカリ。今日から君の名前は、ヒカリだ」

 それを聞いた彼女は、静かに頷いた。それを見て、ヒカルは肩の荷が一気に下りた気がした。それでも、彼女は笑っていなかった。やはり、この現実がまだ受け入れられないのだろう。ヒカルも、彼女と同じように今という時間が信じられない。
 取り敢えず、彼女をマンションに連れて帰らなければならない。ヒカルが再び歩き出すと、後ろからヒカリもついてくる。ヒカルはふり向きながらそれを確認すると、安心して足を進めた。

 そして彼女を連れ、ヒカルのマンションに帰ってきた。部屋の扉を開けると、ヒカルは懐かしさについ笑みがこぼれた。裏の世界線で異性として暮らしていた時、部屋のインテリアなどは女性好みだった。それが今は、棚には少年漫画が並び、テーブルにはゲーム類が置かれている。それを見るとヒカルから、やっと帰ってきたんだという実感が湧いた。長い旅でもしてきたかのように、ヒカルは感動しながら部屋の中を見渡していた。
 その時、ふと彼女の存在を思い出す。ヒカルがふり向くと、ヒカリがやはり物悲しそうな表情で立ち竦んでいる。それを見ると、先程まで暖まっていたヒカルの心が冷めていく。彼女はまだ、元の世界に帰れていないのだ。ヒカルは、また彼女に声をかけた。

「君、四月からずっとこの部屋で暮らしてきたんだよな。女の子がこんなとこで暮らしてたら、落ち着かないよな。ごめん」

 ヒカルは、ヒカリの手を握ろうと自分の手を差し出すが、彼女は自らの手を引っ込めた。その目は、まるで獣を警戒するように怯えている。同じ人間とはいえ、異性だから性格は多少異なるということだろう。

 仕方ないので、ヒカルは彼女を自分の部屋に案内した。ヒカルは普段、自分の部屋ではあまり寝ないため、そこに彼女を寝させることにしたのだ。ドアを開け、彼女を中に入れると、

「散らかってるけど、ここで寝てくれ。俺は、リビングの方が落ち着くから」

 と、ヒカルは彼女に説明した。彼女はまた頷くと、中に入った。それを見て、ヒカルはドアを閉める。そして、自分もシャワーを浴び、リビングで眠ることにした。ソファーに横になり、目を閉じた。しかし、当然ながら寝つけない。彼女のことが気になるのだ。

 同じ自分とはいえ、異性と暮らしていることに違和感を覚えない者はいないだろう。黒岩は、彼女を元の世界線に帰す方法を探ると言っていた。本当に、そのような方法があるのだろうか。最悪の場合、彼女はずっとこの世界線で暮らすことになる。そう考えると、ヒカルは罪悪感を覚えた。彼女がこの世界線に留まってしまったのは、ヒカルが送還中に動いてしまったからだ。そのため、魂を元の世界線に送還する機械に、不具合が生じてしまった。
 もしかすると、彼女は自分のことを恨んでいるかもしれない。ヒカルは、そんなことを考えながら天井をただ眺めていた。

 数時間が経ち、流石にヒカルはウトウトしてきた。やがて意識を手放そうとした、その時だった。部屋に、誰かが入ってきたのだ。ヒカルは気配を感じ、飛び起きた。ドアの前には、ヒカリがいた。ヒカリは、じっとヒカルのことを見つめてくる。ヒカルもまた、驚きの眼差しで彼女を見た。

「な……、何?」

 ヒカルが尋ねると、彼女はヒカルに近寄ってきた。その時、彼女が枕を抱えていることに気づく。

(まさか……)

 ヒカリは、ヒカルの前に座った。

「……眠れないの」

 それは、彼女が初めてヒカルに対して口を利いた瞬間だった。聞き慣れているとはいえ、自分が発していた声とは少し違うように感じられた。

「……一緒に寝ていい?」

 彼女のその言葉で、ヒカルは心臓に何か衝撃を与えられたような感覚を味わった。

「い、いいけど……」

 ヒカル自身、何と答えようか迷っているうち、無意識にそう答えてしまっていた。彼女はそれを聞くと、安心したような笑みを浮かべた。それは、彼女がヒカルに見せた最初の笑顔だった。それを見て、ヒカルは自分でも顔が赤くなっているのがわかった。
 ヒカリは、ソファーのすぐ隣に枕を置き、横になった。しかし、地べたに枕だけでは風邪をひいてしまいそうだ。ヒカルは彼女が寝た後、クローゼットを開け、上の段にあった毛布を取り出した。それを広げると、彼女の肩から下を覆った。

 その後、ヒカルも自分の寝場所に戻った。すっかり目が冴えてしまったが、また眠ろうと目を閉じた。
が、眠れない。というより、眠れる気がしないのだ。下を見ると、彼女が穏やかな表情で眠っている。ヒカルは、それが彼女を見下ろしているみたいで嫌だった。いっそのこと、彼女を抱きかかえて部屋に連れ戻そうかと考えたが、失敗率が高いような気がしたので、実行を断念した。

 今日は、この態勢のまま寝るしかない。そう自分に言い聞かせ、ヒカルは目を閉じ、何も考えないことに努めた。この暮らしがどのくらい長く続くのかは未知数だが、今は深く考えないようにしようとヒカルは思った。きっと数日後には、黒岩が彼女を元の世界線に戻す方法を、見つけてきてくれるはずだ。そして、ヒカルはようやく眠りに落ちることに成功した。


 ヒカルは、ゆっくりと瞼を開けた。朝の陽射しが、部屋中を照らし出している。昨日、カーテンは閉めたと思っていたが、閉め忘れていたのだろうか。ヒカルは、起き上がって周りを確かめる。その時、昨日のことを思い出した。そういえば、彼女と並んで寝ていたのだ。ヒカルは足元を見ると、毛布が畳んで置かれており、その上には枕が乗っていた。しかし、彼女の姿はどこにもない。

 まさかと思い、ヒカルが立ちあがった瞬間、部屋に冷たい風が舞い込んだ。反射的に窓の方を向くと……、窓が開いている。ヒカルは窓に近寄り、ベランダを覗いた。見ると、ヒカリがベランダから朝の東京の景色を眺めている。その目は、群れからはぐれた雛鳥のように悲しげだった。
 ヒカルは彼女の隣に立つと、彼女に話しかける。

「こんなとこいたら、風邪ひくぞ」

 しかし彼女は何も答えず、ただ向こうを見つめ続けている。まだ冬になっていないとはいえ、ここ数日で朝晩の気温が一気に下がっている。薄着で数分ベランダにいただけで、風邪をひいてしまいそうなくらいだ。
 二人はしばらく並んでいると、ヒカルの手が彼女の手に触れる。ヒカルはその手を見つめ、そして思いきって握ってみた。今度は、ヒカリは何も抵抗しなかった。彼女の手は、とても柔らかかった。

「なぁ……。今日、一緒に職探しに行かないか?」

 ヒカルが言うと、彼女は不思議そうな視線を送ってくる。

「俺、一人暮らしだからさ。それに、学校行ってるし。二人で暮らすとなると、どっちかが働きに出なきゃ難しいと思うんだ。俺も、バイトやるからさ。君も、仕事探して、それでいい仕事あったら、そこで働かせてもらおう」

 これは昨夜、ヒカルが寝ながら考えたことだった。家賃は両親に払ってもらっているため、これからも何とかなりそうだが、食費は親の仕送りだけで二人分賄うとなると、どうしても厳しい。親に電話して、増やしてもらうにしても理由をきかれそうだ。そして行き着いた結論が、今言った「働く」ということだ。ヒカルも、裏の世界線で初めてバイトというものを体験した。その経験を生かして、また新たな仕事を見つけようと思った。

「どうかな。君に働く気があるなら、非常に助かるんだけど……」

 ヒカルは、そう言いつつも段々と自信がなくなってきた。彼女にどう思われているのか、よくわからないのだ。別世界線の自分だとしても、考えていることをすべて的確には言い当てられない。その時、ようやく彼女の口が開いた。

「私……、働きたい……」

 これは、彼女の本心だろう。何故か、ヒカルにはそう思えた。そして、これまでにないくらい嬉しくなった。彼女が、自分に対してようやく心を開いてくれたような気がしたのだ。そして今日、ヒカルは彼女を連れて仕事探しに行くことに決めた。彼女がいつ、元の世界に帰れるのかわからない今、そうするしかない。彼女も、それはわかっているはずだ。とにかく、今は先のことよりも、目の前の問題を片付けなければならない。

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